18.ハイヒールは折りたたんでポケットへ!

スニーカーで、世界を歩く。

「ねぇ、工くん。わたし、ハイヒールをポケットに入れられたらいいのにって思うんだ」  いつだったか、午後の柔らかな日差しが降り注ぐカフェテラスで、名前が唐突にそんなことを言った。俺がきょとんとした顔で固まっていると、彼女は悪戯っぽく笑みを深めた。形の良い薄い唇がゆっくりと綻び、その隙間から覗く桜色の小さな舌先が、まるで夏の終わりに水槽で揺れる、儚げな金魚の鰭のようだった。 「だって、たくさん歩く時はスニーカーが楽でしょう? でも、いざという時……例えば、素敵なレストランに入るとか、記念写真を撮る時に、ポケットからさっと取り出して履き替えられたら、凄く便利だと思わない?」  その発想は、いかにも名前らしかった。突拍子もないようでいて、彼女なりの切実な願いが込められているような気がした。俺はその奇妙なアイデアの全てを理解したわけではなかったけれど、目の前で楽しそうに話す名前を見ているだけで、胸の奥が温かくなるのを感じていた。 「うん、そうだな。良いかも」  俺は、ただ頷いた。彼女が嬉しそうなら、それで充分だった。  ……そして、その会話から三週間が過ぎた。俺達のささやかな記念日を祝う為、長崎の港が見える、少しだけ背伸びしたカフェへと向かっていた。石畳の坂道を、スニーカーを履いた名前と並んで歩く。二人だけの、秘密の遠足のような一日だ。今日の名前は落ち着いたネイビーのコートを着ていて、そのポケットには、あの日の言葉を形にしたような、小さなハイヒールのチャームが忍ばせてあった。勿論、本物の靴なんかじゃない。どこにでもあるような、素朴なキーホルダーだ。それでも、名前は時折、ポケットに手を入れては、それを宝物みたいにぎゅっと握り締め、どこか誇らしげに微笑むのだった。  そんな彼女の横顔を見ていると、俺の心臓は妙な具合に早鐘を打ち始めた。彼女の柔らかな髪が風に揺れる度、冬の午後の頼りない陽射しが、その透けるような白い肌を淡く照らす度、俺の意識の全てが、いとも簡単に奪われてしまう。  思い返せば、初めて名前の肌に触れた日のことも、こんな風だった。すぐ隣に居るのに、どこか現実感がなくて、ふわふわとした夢の中に居るような感覚。指先が触れた瞬間に伝わる、彼女の確かな体温。名前が、俺と同じように血の通った、温かい生き物なんだと気づいた時の、あの驚きと、少しばかりの怖れ。そして、それら全てを凌駕する程の、どうしようもない喜び。今でも、その感覚は鮮明に蘇る。 「……工くん、あっちの路地に行ってみない?」  目的のカフェまで、あと数ブロックというところで、名前が不意に細い脇道を指差した。長く、白く、指の先だけがほんのりと血色を帯びている。そんな、触れたら壊れてしまいそうな指で、名前はまるで帰り道を見失った子供のように、俺を未知へと誘った。 「うん。行こうか」  一歩、路地裏に足を踏み入れると、空気が変わった。ひんやりとした影と、潮の香りが濃密に漂ってくる。古びた建物の壁と、どこかの家の窓から漏れる生活の音。長崎の町は、いつも海と坂道の気配がする。  舗装が剥がれ、所々が不規則に盛り上がった道を、名前はスニーカーでぺたぺたと楽しげに歩を進める。その小さな後ろ姿を眺めている内に、不意に胸が強く締め付けられるような感覚に襲われた。抗い難い衝動に駆られて、俺はそっと後ろから手を伸ばし、コート越しの肩に触れるか触れないかの距離で逡巡した後、思い切って、その左手の指に自分の指をそっと絡めた。  名前は驚いたように小さく肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。大きな瞳が一瞬、不思議そうに俺を映す。それから、何かを悟ったように、ふっと目を伏せた。見る見るうちに、耳朶から首筋に掛けて、淡い赤みが差していくのがわかる。けれど、彼女は拒まなかった。それどころか、躊躇いがちに、そっと俺の手を握り返してくれたのだ。  指先に伝わる、信じられないくらい柔らかな感触と、確かな温もり。その抵抗のなさに、俺は柄にもなく、変な声が出そうになるのを必死で堪えた。 「……名前、さ」  掠れた声で呼び掛ける。 「ん?」  彼女は顔を上げずに、小さく応えた。 「もし、本当にハイヒールがポケットに入れられたら……名前は、どこへ行きたい?」  俺の問い掛けに、名前は少しの間、考えるように可愛らしく眉根を寄せた。そして、繋いだ手に僅かに力を込めながら、静かに、でも、確かな光を目に宿して微笑んだ。 「どこだっていいよ。わたしは……工くんと一緒に行けるなら、それで」  潮風が、俺達の間を吹き抜けていく。海の匂いを運ぶ風の中で、そんな、余りにも真っ直ぐな言葉を告げるものだから。もう、俺はダメだった。 「名前」  堪らなくなって、思わず立ち止まる。繋いだ手をぐっと引き寄せ、そのまま彼女の華奢な身体を、衝動的に胸の中へと抱き締めていた。  最初は、名前の身体が驚きで強張るのがわかった。けれど、すぐにふにゃりと力が抜けて、安心し切ったように、その身を俺に預けた。コート越しでも伝わる、彼女の存在の確かさ。  耳の奥で、自分の心臓が破裂しそうな程、激しく脈打つ音が響いていた。冷静なフリなんて、もうできなかった。したくもなかった。だって、俺は今、この瞬間でさえ、名前がこうして隣に居てくれることが、手の届く距離に存在していることが、まるで奇跡のように思えて、どうしようもないのだから。  名前の柔らかな髪に鼻先を埋め、その微かな甘い香りを吸い込む。殆ど囁くような声で、俺は呟いた。 「……どこへだって行こう。二人でさ。ポケットに、あのちっちゃなハイヒールを入れて。世界中のどんな街だって、なんなら月へだって、どこへだって行けるよ」  俺の胸の中で、名前がくすりと、楽しそうに笑う気配がした。 「うん。わたしも行きたいな。工くんと一緒なら、きっと、どこへ行くのも楽しい」  目を閉じて、俺達は暫くの間、ただそうして、長崎の路地裏に吹く潮風の中に立っていた。繋いだ手の温もりと、ポケットの中の小さなハイヒールのチャーム。本物のハイヒールがなくても、スニーカーのままでも。  それでいい。  いや、それが最高なんだって思った。  ――そんな風にして、今日もまた、名前と俺だけの、ささやかでかけがえのない世界は、ゆっくりと続いていく。


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