
それは季節が迷子になったかのような、初夏の霧雨が降った日のことだった。
窓の外を煙らせる細かな雨粒は、午後の授業が終わる頃には、世界から色彩を洗い流したかのように、風景を淡いモノクロームに変えていた。放課後、特に寄り道の約束を交わしたわけではなかった筈なのに、俺と名前の足は示し合わせたかのように、自然と学校の裏手にある小さな公園へと向かっていた。そこは記憶の中の風景画みたいに、いつも少しだけ寂しい場所だった。座面の木がささくれ立った古びたベンチ、誰にも顧みられず、雑草に埋もれ掛けた花壇、そして、雨に打たれて赤錆を流すブランコ。そんな、忘れ去られたような空間。けれど、何故だろう。名前は長い間、探し求めていた秘密の宝箱を遂に見つけ出したかのように、輝く瞳でそこに佇んでいた。
湿った空気が肌に纏わり付く。雨粒を吸って鈍色に光る石畳が、彼女の足元で静かなリフレインを奏でている。名前の髪にも、銀糸のような霧雨がそっと降り積もり、輪郭を柔らかく滲ませていた。遠くに掠れた水彩画のように広がる夕焼けの残照を透かして、その髪は儚く揺れ、まるでこの世ならざる者のように見えた。視線が絡み、時が止まる。
「……ねえ、五色くん」
静寂を破ったのは、名前の囁きだった。雨音に溶け入りそうな、けれど、芯のある声。彼女はゆっくりとスクールバッグのポケットに手を入れると、何かを取り出した。手のひらに収まる、銀色に鈍く光る物体。それは古風なデザインの懐中時計だった。だが、よく見れば、繊細な彫刻が施された蓋には無数の細かな傷が走り、文字盤を繋ぐチェーンの一部は、今にも千切れそうなほど細くなっていた。俺は思わず眉根を寄せた。
「それ……壊れてるのか?」
「うん。だいぶ前に、不注意で落としてしまって」
名前は懺悔でもするように、小さな声で呟いた。
壊れてしまった時計。時間の止まった遺物。なのに、彼女はそれを傷付いた小鳥を労わるかのように、指先でそっと撫でた。その仕草が余りにも優しくて、柔らかくて、胸の奥の見えない場所が、きゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。そうだ、名前はいつだってこうだった。どんなに傷付き、欠けてしまったものでも、決して見捨てたりしない。その温かさを、価値を、ちゃんと知っている。そんな、当たり前過ぎるくらい当たり前のことに、俺はどうして、今まで気づかずにいたんだろう。自分の鈍感さが、急に恥ずかしくなった。
「でもね」
不意に、名前が顔を上げた。懐中時計をそっと耳朶に宛がい、悪戯っぽく、ふふっと息を漏らすように笑う。
「まだ、微かにだけれど、動いているんだよ。……ほら、聞いてみて」
そう言って、彼女は壊れた時計を躊躇いがちに、俺へと差し出した。
銀色のケースに反射する、名前の潤んだ瞳。その引力に抗えず、俺は無意識に手を伸ばす――そして、その瞬間だった。
俺の指先が、時計を渡そうとした彼女の指先に、ほんの微かに触れた。
びり、と微弱な電流が走ったような衝撃。それだけのこと。本当に、ただそれだけのことなのに、世界が足元から音を立てて崩れ落ちていくような、奇妙な浮遊感に襲われた。雨に濡れた彼女の肌は、触れた瞬間、ひやりとする程に冷たかった。けれど、その冷たさの奥には、確かに生きている人間の、生温かい確かな体温が潜んでいた。その余りの繊細さと、予想外の熱っぽさに、俺は狼狽し、反射的に手を引いてしまった。指先に残る、淡い感触が焼き付いて離れない。
「……あっ、ごめ、」
思わず漏れた謝罪の言葉を、しかし、名前が静かに遮った。
小さく首を横に振って、ふっと、まるで雨上がりの陽射しのように柔らかく微笑んだのだ。
その一瞬の表情に、ああ、もうダメだ、と観念した。
築き上げてきた筈の、友人としての境界線が、いとも簡単に溶けていく。抗う術なんて、もうどこにも残っていなかった。
震えを悟られまいと、一度、強く拳を握り締め、そして、今度はゆっくりと、迷子の子供が母親の手を探すように、彼女の指先へと再び手を伸ばす。壊れ物に触れるように、そっと包み込む。思ったよりもずっと細くて、力を込めれば、すぐにでも砕けてしまいそうで、だけど、驚く程に温かかった。俺と同じ、血の通った生き物なのだと――そんな、分かり切った筈の事実が、宇宙の真理にでも触れたかのように、新鮮な衝撃となって全身を貫いた。
名前の瞳が驚きに見開かれ、水面のように揺れる。けれど、彼女は逃げなかった。ただ真っ直ぐに、俺を見つめ返す。
俺達の間に流れる時間は、名前の手の中にある壊れた懐中時計のように止まっているようでいて、それでいて、微かだけれど、確かに未来へと向かって、その針を進めている。チクタク、チクタク、と。それは耳には聞こえない、心臓の音。
「……聞こえる」
掠れた、ぎこちない声が、自分の喉から絞り出されたことに驚いた。
「動いてる、って……。お前の、」
鼓動が。
温もりが。
そして、言葉にならない、確かな何かが。
伝えたい想いの全てを、祈るように、指先に込める。どうか、届いてくれ、と。
その時だった。俺の手の中で、名前の小さな指が躊躇いがちに、けれど、確かに、きゅっと握り返してきた。
「うん」
名前は頬を淡く染め、恥ずかしそうに小さく頷いた。伏せられた長い睫毛が、雨粒を弾いて煌めく。
「五色くんのも、ちゃんと聞こえるよ。……温かい」
霧雨は依然として、音もなく降り続いていた。けれど、それはもう冷たいだけの雨ではなかった。
いつの間にか、西の空を染めていた筈の夕焼けは、その最後の輝きも淡い紫色の雲間に吸い込まれ、町全体が水彩絵の具を滲ませたように柔らかく、どこか幻想的な宵闇に包まれ始めていた。外灯がぽつりぽつりと灯り始め、濡れたアスファルトに頼りない光の輪を映し出す。
俺達は濡れたベンチに腰を下ろすことはなく、ただ向かい合って立ち尽くしていた。
互いの手を、決して離さないまま。
まるで、罅割れた懐中時計が、壊れたという事実を受け入れながらも、それでもなお、微かな音を立てて時を刻み続けているように。
例え、どこか欠けたままだったとしても。
例え、この想いを伝える言葉が、まだ不器用で臆病だったとしても。
繋いだこの手は、その温もりは、もう二度と離したくない。
そんな切実な願いが、雨音と共に、心の奥底から静かに、けれど、力強く湧き上がってくるのを感じていた。