11.キーボードを叩き割る勢いで綴る

 一体、いつからだったか。  自分の指が、まるで独立した生き物みたいに、キーボードの上を勝手に踊り出すようになったのは。  今日も今日とて、体育館に染み付いた汗と湿気の匂い、ボールが床を叩く鋭い音、仲間達の檄が飛び交う喧騒から解放され、寮の自室へと戻る。熱いシャワーを浴びて、練習でこびり付いた疲労と汗を念入りに洗い流す。石鹸の清潔な香りと、火照った肌を撫でる冷たい水滴。身体は心地よい脱力感とさっぱりとした感覚に包まれているのに、何故かタブレットのスリープを解除する指先だけは妙な熱を帯びて、これから始まる儀式を待ち構えているかのように張り切っている。  しん、と静まり返った部屋。窓の外は藍色に染まり始め、遠くで車のヘッドライトが流れていくのが見える。机の上の、読み掛けのバレー雑誌の隣で、タブレットの画面が静かに光を放つ。そこに映し出されるのは、見慣れた、そして毎晩のように向き合っている、真っ白なメール作成ウィンドウ。  差出人:五色工  宛 先:苗字名前  俺の、彼女。  俺の、太陽。  俺の、世界の中心。  俺の、全部。  言葉にすればする程、この胸の内側で燃え盛る感情のほんの一部しか掬い取れない気がして、もどかしくて、苦しくて、焦れてくる。その行き場のないエネルギーが全部指先に集約されて、もはや関節が悲鳴を上げそうな勢いでキーボードを叩き付ける羽目になるのだ。  思春期の男子ってのは、もっとこう、斜に構えて、クールぶって、好きな子の前で照れて黙り込むような生き物なんじゃないのか? なんで、俺はこんなにも毎晩毎晩、飽きもせず、まるで他にやることがないみたいに、メールというデジタルの欠片に全感情を叩き込み――最早、"ラブレター"と呼ぶのも生温い、魂の叫びのような長文を打ち込んでるんだ……!? 自分でも意味が分からない。だが、止められない。 『件名:今日の名前(※最重要機密指定)』 『本文:  今日も、めちゃくちゃ綺麗だった。いや、綺麗とかそういう次元じゃない。存在が罪。  まず、体育の後。髪を結んでたヤツ。あれ、完全に反則だろ。イエローカードどころじゃない、一発レッドだ。心臓に悪い。マジで。頼むから、俺の居ないところでやってくれ。いや、嘘だ、俺だけが見ていたい。どうすりゃいいんだ。  後、クラスの合唱コンクールの練習の時間。お前、あんな風に弾くんだな……。指が……白くて長くて、鍵盤の上を滑るみたいに動いてて……。正直、ピアノのことは全然わかんねぇ。ドレミくらいしか。でも、お前が紡ぐ音だけで、心臓鷲掴みにされて、呼吸するのも忘れるとは思わなかった。マジで立ってるのがきつかった。多分、俺の表情、クラスの奴らに絶対バレてる。隣の席のヤツとか、後ろのヤツとか、確実にニヤついてたし。あれは完全に、俺の理性が――……いや、これ以上書くと本当にマズいから以下略。兎に角、凄かった。綺麗だった。ヤバかった。  それから、昼休み。購買でパン選んでる時、なんであんな真剣な顔して、ラッキョウについて語ってたんだ……? 「ラッキョウを好む人間とは、根本的に魂の湿度が合わない」って、真顔で言うから、俺、一瞬フリーズしたぞ。魂の湿度……? ってなんだ??? 俺は普通にカレーの付け合わせで食べるけど……俺とお前の魂の湿度は合わないってことか……? 不安になってきた……。でも、そういう、時々ぶっ飛んでるところも、意味わかんないけど、全部、全部、途方もなく好きだ。  ああ、もう!  顔が見たい。声が聞きたい。隣に居たい。キスしたい。触れたい。ぎゅってしたい。  お前の匂いを思い切り吸い込みたい。  次会う時、絶対、我慢しないからな。覚悟しとけよ。  俺は、今日も、昨日よりもっと、明日よりは多分ちょっとだけ少なく、でも確実に、死ぬほど名前が好きだ。  ――五色工 より 愛と衝動を込めて』  打ち終わって、荒い息を整えながら『送信』ボタンに指先を近づけた、その瞬間。  右手が、ピクリと、痙攣したみたいに止まる。  脳内に警報が鳴り響く。  ――……待て、俺。これ、マジで送るのか……? この熱量、このテンション、この語彙力……冷静になれ、五色工。  この前のメールだって、かなりヤバかった筈だ。深夜テンションで書き殴った、件名『名前の耳朶が愛し過ぎて世界が終わる』。今思い出しても顔から火が出る。送信ボタンを押した直後、ベッドに突っ伏して「俺は何てものを送ってしまったんだ……!」と頭を抱えた記憶は新しい。  なのに、だ。  彼女からの返信は、予想の斜め上を行くものだった。 『本文:わたしの耳が終末トリガーみたいになっていて、少し驚いた。でも、嬉しい。ありがとう、工くん』  ……平然と、寧ろちょっと面白がっているかのような、そんな温度感で返ってくる辺り、苗字名前は本当に只者じゃない。俺の暴走する理性を、その細い指先一つでいとも簡単に圧し折って、涼しい顔で微笑んでくる。  ヤバい、好き。怖い、でも好き。  底が知れない。それが怖い。でも、だからこそ、どうしようもなく好きだ。惹かれてやまない。 「……くそっ、でもな! もう止まんねぇんだよ、この気持ちは……っ!!」  半ば自棄になって、送信ボタンをタップする。人差し指が画面を叩く。  『送信済み』の文字が冷たく、しかし確定的に表示される。  ……ああ、もう後戻りはできない。  送信済みのメール一覧をスクロールしながら、俺は再び頭を抱える。日付ごとに並んだ熱烈なメッセージの数々。ラブレターと言うより、最早、これは恋という名の事件に関する俺の"供述調書"だ。しかも、かなり情緒不安定な容疑者の。弁護士が付いても、情状酌量が期待できるのかどうか、甚だ怪しい。  この手がキーボードを叩き割りそうな勢いで想いを綴ってしまうのは、全部、全部、あの子の所為だ。  俺の中の"好き"は、言葉にすればするほど増殖していく。体積を持つみたいに膨れ上がって、触れられない距離がもどかしい夜には、こうしてメールという形で溢れ出して、止まらなくなる。  ……どれくらい、そうしていただろうか。  不意に静寂を破って、タブレットの画面がふわりと点灯し、短い通知音が鳴った。 『件名:お返し』 『本文:わたしも、工くんのことが好き過ぎて困っている。  だから、明日の放課後。少しだけ、お散歩しよう?  人工呼吸くらいの距離で、話がしたい』  ――……じんこうこきゅう!?  メールの文章を目にした瞬間、俺の中で辛うじて繋ぎ止められていた理性の最後の糸が、音を立ててブチ切れた。  ヤバい。ヤバイ。やばい。これは本気でヤバいヤツだ。  落ち着け。絶対に落ち着け、俺。お前は白鳥沢の次期エースだろ? 心肺機能だって、常人より鍛えてる筈だろ?  ……でも、駄目だ。  明日、放課後、彼女と『人工呼吸くらいの距離』で並んで歩く自分を想像した瞬間、俺の心臓はキーボードどころか、頑丈な筈の肋骨ごと内側から叩き割られそうな勢いで、激しく脈打ち始めた。  ――明日の放課後。  会ったら、絶対に言ってやる。今度こそ、言葉で。直接。このキーボードを介さずに。  震えるかもしれない。声が裏返るかもしれない。それでも。  「俺、お前のこと、好き過ぎてもう限界」って。  毎晩のように送り付けてるラブレターみたいなメールも、悪くはなかったのかもしれない。俺の気持ちの奔流を、少しは伝えられていたのかもしれない。  でも、やっぱり、君の潤んだ瞳を真っ直ぐ見て、この声で伝える「好き」には、絶対に勝てやしないんだ。  キーボードが砕け散る程の勢いで綴ったこの溢れる想いを、ちゃんと、俺自身の声にして届ける為に。  明日、俺は戦場に向かうような覚悟で、君に会いに行く。


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