
呼吸ができない程、君を好きになった。
放課後の空気が、どこか緩慢に色を変え始める時間。
校舎の裏手へと続く、今はもう殆ど誰も使わない古い小道。その脇に、俺達は居た。
夏の名残と秋の気配が混じり合う草いきれが、むわりと鼻先を擽る。足元では生命力の強い雑草が、人の背丈ほどではないにしろ、随分と自由に伸びていて、打ち捨てられた時間の長さを物語っていた。罅割れて、ところどころアスファルトが顔を覗かせている舗装が、且てここが通学路として機能していた時代の幻影を映すかのようだ。
「この道が好きなんだ」
いつだったか、名前はそう言って柔らかく笑った。秘密基地を見つけた子供のような、それでいてどこか物憂げな表情。それ以来、彼女に誘われるまま、何度かこの忘れられたような小道を一緒に歩いた。二人きりの、特別な時間。
そして、今日はその中でも輪を掛けて特別だった。
何故なら――
「……ねぇ、工くん」
「……う、うん……?」
声が、やけに近い。
いや、近いなんてものじゃない。すぐ、殆ど耳元だ。
反射的に顔を向けようとして、固まった。視界の端に、名前の顔がある。余りにも、すぐそこに。
数センチ先で瞬きをする長い睫毛。夕陽に透ける、柔らかそうな輪郭。
気づけば、俺の左腕には、ぴったりと名前の身体が寄り添うように並んでいた。柔らかくて、温かい何かが、確かに腕に触れている。これは……胸、だよな……?
意識した途端、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。
わざとじゃない。きっと、多分。いや、でも、この状況で……もしかしたら、ほんの少しは、わざとなのか……? 思考がぐるぐると空転する。
彼女は真っ直ぐ前を見据えたまま、舗装の割れ目を避けるように歩いている。けれど、その視線は時折、悪戯っぽく、ちらり、と俺の顔を盗み見るように向けられるのだ。
その一瞬の交錯だけで、心臓が肋骨の内側で暴れ馬みたいに跳ね上がるのがわかる。どうしよう、俺、今、呼吸の仕方を間違えると酸欠になる……。脳に酸素が届いていない感覚が、既にある。
「ねぇ、工くん」
再び、吐息が掛かる程の距離で名前を呼ばれる。
「な、なに?」
声が裏返らなかったのは奇跡に近い。
「さっきから、わたしのことをちゃんと見てくれていないよね」
咎めるような、それでいて、どこか甘えた響き。
「み、見てるよ! 勿論! 心の目で、焼き付けるくらいには!」
我ながら苦しい言い訳だ。
「……心の中じゃ、足りないんだよ」
そう言って、名前はふわりと笑った。
傾き掛けた西日が、彼女の横顔を蜂蜜色に染め上げる。逆光の中に浮かび上がるシルエットは、この世のものとは思えないほど儚く、そして、どうしようもなく綺麗だった。
俺の呼吸はたった今、完全に終わった。
どれくらいそうしていただろう。数秒か、或いは永遠か。
気づけば、俺達は小道の先にある空き地の脇、苔生した低いコンクリートの塀に腰掛けて、並んで座っていた。少しだけ距離が出来て、俺は漸く浅い呼吸を繰り返すことができた。心臓はまだ警鐘を鳴らし続けているけれど。
ふと隣を見ると、名前の手には、見慣れない物体があった。
――ガスマスク。
……は? なんで!? ここで!? ガスマスク!!?
予想外過ぎるアイテムの登場に、混乱した思考が更に絡まる。
「……それ、どこから持ってきたんだよ? まさか、今日の散歩デートの為に……?」
「兄貴兄さんの書斎から。今、『呼吸できない魔女』という絵本を描いているんだって。それで、参考資料に置いてあったの」
さらりと言ってのける名前に、俺は言葉を失う。
「いや、それ……絵本の参考資料と、今日のこの状況に、何か関係が……?」
「うーん、特にはないかな。でも、なんとなく、今日はこれを使って、空を見てみたい気分だったの」
意味が、わからない。
けれど、それが彼女――苗字名前という女の子なのだ。突拍子もなくて、掴みどころがなくて、それでいて、どうしようもなく魅力的で。
俺がどれだけ彼女に惹かれているか、その理由なんて、もうどうでもいい。理屈じゃない。ただ、そういう予測不可能なところも、ミステリアスな雰囲気も、全部、全部含めて、どうしようもなく好きなのだ。
「工くんも着けてみる?」
「……いや、遠慮しとく。絶対それ、お前の顔のサイズに合わせてあるヤツじゃん」
俺の返事に、彼女は「そうだね」と小さく、くすくすと笑いながら、慣れた手つきでガスマスクを装着した。ストラップを後頭部に回し、カチリ、とバックルが留まる乾いた音が響く。
一瞬にして、彼女の表情は無機質なレンズとフィルターの奥に隠された。
そのまま、名前はゆっくりと空を見上げる。
ガスマスクを装着して、夕空を眺める少女。その姿は、なんというか、ひどく非現実的で、シュールで――それなのに、妙に胸の奥に焼き付く光景だった。まるで、世界から切り離された場所に居るような、孤独と、不思議な気高さを感じさせる。
「空が、濁って見えるね」
ガスマスク特有の、くぐもった声が聞こえる。
「そりゃそうだろ。フィルターとレンズ越しなんだから」
「でも、不思議。くすんで見えるのに、凄く綺麗に見える」
その言葉は、フィルター越しでも真っ直ぐに、俺の心に届いた。
そう言って、彼女はゆっくりとガスマスクを外す。再び現れた名前の顔。
少しだけ赤みを帯びた頬に、ガスマスクを装着していた跡が薄っすらと残っている。
汗で張り付いた前髪。少し潤んだ瞳。
その、無防備な、ほんの僅かな痕跡すらも、なんだか妙に可愛くて、堪らなくて、俺は慌てて視線を逸らした。夕焼けに負けないくらい、自分の顔が熱くなっているのがわかる。
ああ、もうダメだ。限界だ。
築き上げてきた筈の理性の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
俺はごくりと息を呑んで、決意を固める。震える声にならないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……なあ、名前」
「うん?」
彼女が小首を傾げて、こちらを見る。さっきまでのガスマスク姿が嘘のように、いつもの、俺の好きな名前がそこに居る。
「俺、昨日、メールで送ったこと……やっぱり、ちゃんと自分の声で伝えたくて」
「うん。聞かせて?」
促す声は、どこまでも優しい。
気づけば、再び二人の間には、殆ど距離がなくなっていた。
"人工呼吸くらいの距離"
こんなに真正面から、こんなに近くで、彼女と目が合うのは、いつぶりだろうか。
吸い込まれそうなほど深い、夜の底を思わせる瞳が、真っ直ぐに俺の心を射抜く。揺らぎも、迷いも、そこにはない。ただ静かに、俺の言葉を待っている。
「――俺、お前のこと、好き過ぎて、もう限界だ」
絞り出した声は、少し掠れていたかもしれない。でも、紛れもなく、俺自身の声だった。
「……うん」
静かな肯定。
「昨日、メール打ってる時、なんかもうテンパり過ぎて、キーボードが爆発するんじゃないかとか思ったけど……どんなに恥ずかしくても、やっぱり、直接、俺のこの声で伝えたいって、そう思ったんだ」
「うん」
「触れたい。キスしたい。大事にしたい。守りたい。……全部、お前と、したい」
言葉にするのは、想像以上に勇気が要った。でも、言わなければ、この想いは届かない。
「……工くん」
名前の小さな手が、そっと俺の手に重ねられる。
少し冷たい指先が、けれど、力強く、俺の手のひらをぎゅっと握ってくる。その確かな感触に、全身の力が抜けそうになる。
「じゃあ、わたしのこと、ちゃんと呼吸できなくなるくらい、もっと好きになってくれる?」
悪戯っぽく笑う名前の瞳が、夕陽を映して煌めく。
「……もう、とっくになってる。酸素足りてねぇもん、今」
思わず本音が漏れると、名前は「ふふ……」と愛おしそうに笑った。
「なら、もう一息、奪ってもいい?」
名前の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
甘い香りが鼻先を掠める。
唇が――触れそうで、触れない、その刹那。
世界から、音が消えた。
この日、二人で見上げた、ガスマスク越しに見た筈なのに綺麗だった空も、人工呼吸が必要なくらいの距離で見つめた、夜の底みたいな彼女の瞳も、頬に残っていた、愛らしいガスマスクの跡も、全部、全部、俺にとっては、確かに"生きてる"って実感そのものだった。
そして、この瞬間の全てが、これから先もきっと、色褪せることなく胸に残り続けるのだろう。そう確信していた。