- 翻訳機が必要だ -

 八月十三日。空は抜けるような群青色を煮詰めたインクで塗りたくられ、蝉時雨が鼓膜を引っ切り無しに揺さぶる。夏と云う季節は、どうしてこうも生命力に満ち溢れ、存在の全てを肯定しようと躍起になるのだろう。その圧倒的な光量と熱量に、私の心はいつも気圧されてしまう。  自室の机の上には、二つの贈り物が静かに出番を待っていた。一つは、B5サイズのスケッチブックから丁寧に切り離した、渾身の一枚。木炭と鉛筆を幾度も重ね、指で暈し、練り消しで光を拾い集めた、彼のスパイクフォームのデッサン。筋肉の隆起、宙を掴む指先の刹那、ボールを捉える瞬間の強靭な背中の撓り。私の目に映る"絶対王者"の神々しいまでの躍動を、持てる技術の総てを懸けて封じ込めたつもりだ。  もう一つは、手製のハヤシライスのルー。数種類のスパイスと、じっくり炒めた玉葱、トマト、赤ワインを煮詰めて固めた、ささやかな自信作。彼の好物がハヤシライスだと知ったのは、本当に偶然だった。バレー部員の他愛ない会話の断片を、私の鼓膜が地獄耳宜しく拾い上げたのだ。 「……これを、渡せるかな」  ぽつりと呟いた声は、クーラーの低い唸りに吸い込まれて消えた。  牛島若利くん。  同じクラスで、私の好きな人。バレーボールをしている時の彼は、この世の理から解き放たれた、神話の生き物みたいに苛烈で、孤高で、美しい。けれど、教室で窓の外を眺めている時の静かな横顔や、天童くんの突飛な言動に対しても、一々真顔で律儀な返事をする様子を知ってしまってから、私の心臓は彼の姿を捉える度に、不都合な程の大きな音を立てるようになった。  私達は両片想い、らしい。  らしい、と云うのは、友人からそう指摘されたからだ。曰く、「名前が牛島くんを見てる時の顔、蜂蜜に溺れた蝶々みたいだし、牛島くんが名前を見てる時の目は、巣に帰る雛鳥を見守る親鳥みたいだよ」と。そんな詩的な比喩で言われても、私には皆目見当が付かない。"自分のことは、誰もちゃんと見てくれない"と、心のどこかでずっと思っているから、そんな風に見られていること自体が、何かの壮大なドッキリではないかと疑ってしまう。  意を決して、スマートフォンのメッセージアプリを開く。指が氷のように冷たい。 『牛島くん、こんにちは。今日、少しだけ時間を貰えないかな?』  送信ボタンを押した途端、心臓が喉から飛び出しそうになった。迷惑だったら、どうしよう。「何故だ?」と理由を問われたら? 「誕生日を祝いたいから」なんて、そんな烏滸がましいこと、言える筈がない。  数分後、短い通知音が鳴った。画面には、牛島くんからの返信。 『ああ。問題ない。17時に、いつもの公園で』  余りにも簡潔で、ビジネスライクな文面。絵文字もなければ、感嘆符の一つもない。その無駄のなさが彼らしいと言えばそうなのだけれど、『問題ない』と云う言葉が、私の胸に、小さな棘のようにちくりと刺さった。それはまるで、「特に予定はないから、会うことに支障はない」と、事実だけを告げられているに等しい響きを持っていた。喜びよりも、ああ、やっぱり義務感で会ってくれるだけなんだ、と云う諦めに似た感情が、胸中に広がる。  階下に降りると、祖父が営むブックカフェ『雨滴文庫』の、ひんやりと薄暗い空間が、私を迎えた。今日は雨が降っていないから休業日の筈なのに、祖父はカウンターの奥で、何やら怪しげな色の液体をシェイカーで振っている。 「おや、名前。どうしたんだい、そんな青い顔をして。まるで、賞味期限切れのラムネみたいな顔色だよ」 「……お祖父ちゃん。その例え、全然素敵じゃない」 「ふむ。では、夜明け前の紫陽花の色、と云うのはどうかね?」 「そっちの方が、まだいいかな」  祖父は「そうか」と満足気に頷き、カクテルグラスにどろりとした紫色の液体を注ぐと、その上に真っ白なクリームと、銀色のアラザンを鏤めた。「新作の『銀河鉄道の夜シェイク』だ。味見してみるかい?」と差し出されたそれを、私は丁重にお断りした。今、こんな得体の知れないものを口にしたら、緊張と相俟って、何が起きるか分からない。  プレゼントを包んだ保冷バッグを胸に抱き、私は灼熱のアスファルトへと踏み出した。目的地へ向かう足取りは、濡れた粘土を引き摺っているかのように重い。  約束の公園に着くと、ブランコの前に立つ、牛島くんの大きな背中が目に入った。夏の強い西日が、彼の輪郭を金色に縁取っている。ただ直立しているだけなのに、その存在感は周囲の風景から浮き上がる、一つの彫像のようだった。私の心臓が、ぎゅっと鷲掴みにされる。 「……牛島くん」  震える声で呼び掛けると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。オリーブ色の瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。感情の読めない、静かな双眸。 「苗字か」 「う、うん。待たせてごめんね」 「いや。俺が早く着いただけだ」  会話が続かない。蝉の声だけが、私達の間に横たわり、気まずい沈黙を埋めていく。私は意を決して、胸に抱えていた保冷バッグを差し出した。 「あの、これ……! 牛島くん、お誕生日、おめでとっう」  声が裏返ってしまった。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。彼は黙って保冷バッグを受け取ると、中を覗きもせず、只、じっとその表面を見つめている。心臓が期待と不安で張り裂けそうになる。喜んでくれるかな。それとも、困らせてしまったかな。 「中身は、その……牛島くんの好きなものと、後、私の好きなものを、詰めてみました。大したものじゃないんだけど……」  しどろもどろな説明に、彼は「そうか」と短い相槌を打った。そして、ふと視線を外し、遠くの空を眺める。何かを思案するような、真剣な表情。やがて、牛島くんは重々しく口を開いた。 「苗字。俺は、お前のことを……」  息を呑む。時間が止まったみたいだった。蝉の声も、風の音も、遠くに聞こえる車の走行音も、全てがミュートされる。もしかして。もしかして、これは。友人の言っていた、「両片想い」の答えが、今、ここで明かされるの?  私の期待が、風船のように目一杯膨らんだ、その瞬間。牛島くんの言葉が無慈悲な針となって、それを突き破った。 「……お前が白鳥沢に来るべきだったとは思わない」 「…………え?」  頭が真っ白になった。今、牛島くんは何て言った? 白鳥沢に来るべきだったと、思わない?  混乱する私を置き去りにして、彼は先を続ける。その声はどこまでも真摯で、揺るぎない。 「お前は、お前の居るべき場所で、お前の好きなことをしているのが、一番いい。俺の隣である必要はない」  ……ああ、そうか。  そう云うことだったんだ。  全身の血が、さあっと引いていくのが分かった。脳が理解することを拒否しているのに、心は容赦のない正確さで、その意味を悟ってしまった。  これは、最大級に丁寧で残酷な、拒絶の言葉だ。  「私みたいな人間が、牛島くんの隣に居るのは相応しくない」。そう、言われているのだ。彼が絶対的な自信を持つ"白鳥沢"と云う世界に、私は必要ない。誰かの居るべき"隣"と云う場所に、私は相応しくない。牛島くんは、私と彼の間に、決して渡ることのできない、深くて暗い川が流れていると示唆している。  友人の科白が、脳裏で木霊した。『蜂蜜に溺れた蝶々みたい』? 馬鹿みたいだ。私はただ甘い香りに誘われて、蜘蛛の巣に絡め取られただけじゃないか。 「……そっか。そうだね」  咽喉から絞り出した声音は、壊れ掛けた楽器のように乾いて、罅割れていた。景色が、じわりと滲む。駄目だ、泣いちゃダメだ。ここで涙を見せたら、牛島くんを困らせるだけだ。彼に余計な気を遣わせてしまう。 「ごめんね、変なこと、期待して。……プレゼント、迷惑じゃなかったら、受け取ってくれると嬉しいな。じゃあ、私、用事があるから!」  自分でも何を言っているのか分からないまま、私は踵を返した。背後で、牛島くんの声が風に紛れて揺れた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。雫が零れ落ちる前に、一刻も早く、この場から消え去りたかった。  公園を飛び出し、涙でぐしゃぐしゃになった視界のまま、我武者羅に走る。  甘酸っぱい、初恋。そんな綺麗な言葉で飾れるものじゃなかった。  これは、ただ只管に苦いだけ。私の独り善がりな想いが、完膚なきまでに砕け散った、それだけの、夏の日。
 苗字が走り去った方向を、俺はただ呆然と見つめていた。何が起きたのか、すぐには理解できなかった。彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、金縛りにあったかのように動けなかった。  手の中には、苗字がくれた保冷バッグが残されている。微かに甘く、香ばしい匂いがした。  何故、苗字は泣きそうな顔をしていた?  何故、「ごめんね」と謝った?  何故、逃げるように立ち去ってしまった?  俺は、何か間違ったことを言っただろうか。  公園のベンチに腰を下ろし、先程の自分の言葉を、頭の中で反芻する。 『お前が白鳥沢に来るべきだったとは思わない』  これは、俺にとって最大級の賛辞のつもりだった。  及川については「白鳥沢に来るべきだった」と語った。それは、彼がセッターとして優秀であり、個々の力を最大限に引き出せる、チームの歯車として評価していたからだ。  だが、苗字は違う。彼女は、俺のチームメイトではない。彼女はバレーボールと云う、俺の世界の住人ではない。苗字は、彼女の世界で美しい絵を描き、静かに本を読み、時々、誰も思い付かないような不思議な発想で、俺を驚かせる。その、俺の知らない世界観を持っている彼女そのものが、俺にとっては大切だった。彼女を"白鳥沢"と云う、俺の枠に無理やり押し込めるのは、違う。それは、彼女の価値を損なう事だと、そう思ったのだ。 『お前は、お前の居るべき場所で、お前の好きなことをしているのが、一番いい。俺の隣である必要はない』  この言葉も、そうだ。  主語が足りなかったのかもしれない。天童に「若利くんは、偶に主語と目的語を全部すっ飛ばして、結論だけ言うから、翻訳機が必要だよね~」と揶揄されたことを思い出す。  俺が伝えたかったのは、「(俺の居る場所に、無理に合わせる為に)お前が(今の場所から)動く必要はない」と云うことだ。そして、「俺の隣である必要はない」と云うのは、「お前が無理をして、俺の隣に来る必要はない。俺が、お前の隣に行くからだ」と云う、決意表明のつもりだった。  だが、苗字は泣きそうだった。俺の言葉は、本来の意図とは全く逆の意味で、彼女に届いてしまったらしい。  俺は、苗字を傷付けた。誕生日だと云うのに。苗字から祝いの気持ちと贈り物を受け取っておきながら、その返礼に、彼女の心を抉るような声を投げ付けてしまった。  胸が、ずきりと痛む。スパイクをブロックされた時よりも、試合に負けた時よりも、ずっと重く、鈍い感傷だ。  俺はゆっくりと、手の中の保冷バッグを開けた。  中から出てきたのは、隙間なく詰め込まれた保冷剤と、丁寧にラッピングされた、チョコレートのような塊。密閉された硝子瓶に入っている。これは、ハヤシライスのルーか。苗字が、俺の為に時間を掛けて作ってくれたもの。  そして、もう一つはクリアファイル。挟まれているのは、厚手の画用紙に描かれた、一枚の絵。  息を呑んだ。  そこに居たのは、紛れもなく、俺だった。試合中、渾身の力でスパイクを放つ、その一瞬。自分でも見たことがないような、自分の姿。筋肉の躍動、ユニフォームの皺、宙を舞う汗の粒までもが、信じられない程の熱量を以って描画されていた。それは、只の写実的な線ではない。そこには、描き手の、苗字の視線が、想いが焼き付けられていた。この絵と向き合っている時の彼女は、俺のことだけを考えていてくれたのだと、一目で分かった。  画用紙の隅に小さく、震えるような文字で、こう書かれていた。 『Happy Birthday, my hero.』  ヒーロー、だと。俺が?  違う。俺は、莫迦だ。俺は、苗字にとってのヒーローどころか、只の言葉足らずな、朴念仁だ。  こんなにも真っ直ぐな好意を、俺は踏み躙ってしまった。  気づいた時には、走り出していた。ロードワークで鍛え上げた脚が、アスファルトを強く蹴る。目指す場所は一つしかない。苗字の家、『雨滴文庫』だ。  蝉の声が、俺を急かすように喧しく鳴いている。心臓が、焦りと後悔で激しく脈打っていた。  見慣れた一軒家の前に辿り着く。今日は晴れているから、雨の日限定のカフェは閉まっている筈だ。だが、磨かれたガラス窓の向こうに、店内の明かりが灯っているのが見えた。  意を決して、ドアノブに手を掛ける。カラン、と軽やかなベルの音が鳴り響いた。  カウンターの奥からひょっこりと顔を出したのは、苗字の祖父だった。彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに全てを察したような、穏やかな表情になった。 「苗字は居ますか」  俺の切羽詰まった声色に、彼は何も言わず、ただ静かに二階を指差した。礼を述べる間すらもどかしく、軋む階段を駆け上がった。  苗字の部屋と思しきドアの前で、一度だけ深く息を吸う。  コン、コン。  ノックの音だけが、やけに大きく響いた。中からの返事はない。 「苗字、俺だ。牛島若利だ」  扉の向こうから、泣き濡れた声が、くぐもって聞こえた。 「……、帰って……」 「帰らない」  俺は木製の表面に手を突き、はっきりと告げた。 「お前が泣いているのに、帰れるわけがないだろう」  ドア越しに、言葉を紡ぐ。今度こそ、間違えないように。主語も、目的語も、俺の全ての感情も、全部を乗せて。 「俺の言葉が足りなかった。済まない」 「『俺の隣である必要はない』と言ったのは、苗字を、俺の都合に合わせたくなかったからだ。お前は絵を描いて、好きなものに囲まれて、そのままでいてほしい。俺が、苗字の隣に行く。だから、お前は無理にこちらに来る必要はない、と云う意味だった」 「苗字が、白鳥沢に来るべきだったとは思わない。何故なら、お前は、俺のチームメイトとして評価するような存在ではないからだ。お前は、俺が……愛する、唯一人の人間だからだ。戦力としてなど、評価できる筈がない」  言い切った瞬間、鎖されていた扉が音もなく、ゆっくりと開いた。  そこには、目を真っ赤に腫らした苗字が、呆然とした顔で立っていた。  俺は堪らなくなって、一歩を踏み出し、苗字の華奢な肢体をそっと抱き締めた。思ったよりもずっと小さく、壊れてしまいそうに震えている。 「誕生日を祝ってくれて、ありがとう。苗字。……お前がくれた絵も、ハヤシライスのルーも、今までで一番の、嬉しい贈り物だ」  腕の中で、苗字の身体がひくりと跳ねた。やがて、俺の胸に頬を埋めた彼女から、しゃくり上げるような泣き声が聞こえ始めた。 「……ばか。牛島くんの、ばか……天然……」 「ああ。俺は、バレー馬鹿だ」  素直に認めると、少しだけ笑ったような気配がした。  夕暮れの光が差し込む静かな部屋で、二人の影が一つに重なる。自分の言葉足らずが、苗字を深く傷付けたと云う鉛の如き後悔が、両腕に閉じ込めた、確かな温もりと重みによって、緩やかに溶かされていく。バレーボールで勝利した時の高揚感とは全く違う、穏やかで満ち足りた感情が、心の奥に根を張っていくのを感じていた。  階下から、マスターの楽しそうな声が聞こえた。 「牛島くん、名前。折角、ルーがあるんだ。ハヤシライス、作って食べたらどうかね?」  腕の中の彼女と、顔を見合わせる。涙で濡れた頬に、はにかむような笑みが浮かんでいた。 「……うん。作る。牛島くん、手伝ってくれる?」 「ああ。任せろ」  力強く頷く。  二人で作るハヤシライスは、今まで食べたどんなご馳走よりも甘く、特別な味がするに違いなかった。