- 一皿の料理が、物語の栞になる -
彼の腕の中で、私は熟れ過ぎた果実のように崩れてしまいそうだった。しゃくり上げる咽喉の奥から漏れるのは「ばか」とか「天然」とか、そんな陳腐な悪態ばかり。でも、牛島くんは全てを受け止めて「ああ。俺は、バレー馬鹿だ」と事もなげに肯定する。どこまでも揺るがない彼の在り方が、私を安心させもすれば、どうしようもなく掻き乱しもするのだ。
階下から聞こえた祖父の快活な声に、私達は弾かれたように顔を見合わせた。涙でぐしゃぐしゃになった頬を、牛島くんの大きな手指が不器用ながらも優しく拭う。指先の熱が、私の肌に存在を焼き付けているみたいだった。
「……うん。作る。牛島くん、手伝ってくれる?」
「ああ。任せろ」
力強く頷く彼に手を引かれ、軋む階段を降りた。一階のブックカフェ『雨滴文庫』は、夕暮れの光がステンドグラスを透過して、床に琥珀色の模様を描き出している。カウンターの向こうでは、祖父が舞台演出家めいた満面の笑みで、私達を迎えた。
「さあさあ、若き恋人達よ! 我が『雨滴文庫』の厨房は、君達の愛の巣となるべく、今、ここに開放された!」
「お祖父ちゃん、大袈裟だよ……」
「ふむ。では、腹を空かせた雛鳥達の為の餌場、とでも言っておこうかね」
その例えも大概だけれど、今は反論する気持ちが湧かなかった。キッチンスペースに足を踏み入れると、牛島くんが隣に立ち、戸惑ったように辺りを見回している。彼の巨躯に、小ぢんまりとした家庭用のキッチンは、少し手狭に思えた。
保冷バッグから、手製のハヤシライスのルーを取り出す。チョコレートのブロックに似た固形物を目にして、牛島くんがぽつりと純粋な疑問を口にした。
「
苗字。何故、俺の好物がハヤシライスだと知っていたんだ?」
心臓が、きゅっと音を立てて縮こまった。牛島くんのオリーブ色の双眸が、私を真っ直ぐに見つめている。詮索の色はない。只、事実を知りたいと云う、彼の生真面目さが映っているだけだ。それでも、私の頬にはじわりと熱が集まる。
「えっと、それは……」
言い淀む私を見て、牛島くんは僅かに首を傾げた。その仕種が大きな犬っぽくて、少しだけ緊張が解きほぐされる。私は意を決して、あの日のことを語り始めた。
「……盗み聞き、しちゃったの」
あれはまだ夏の気配が遠かった、五月の終わりのこと。
昼休み。教室の喧騒は、私にとって心地良いBGMのようなものだった。廊下側の席でスケッチブックを開き、何も描かれていない真っ白な画用紙の質感を指でなぞる。この、これから何かが生まれる予感に満ちた時間が、私は好きだった。
普段ならクラスメイト達の会話など、水面を滑る小石のように、意識を掠めては消えていく。でも、その日に限っては違った。通路から聞こえる賑やかな声の中に、私の聴覚が鋭敏に拾い上げてしまう、一つの固有名詞が混じっていたからだ。
「――でさー、若利君の好きな食べ物って、結局、何なの?」
隣のクラスに在籍する、天童くんの揶揄うような声音。私の耳は、遠くの雷鳴を察知した小動物みたいに、ぴくりとそちらへ意識を向けた。心臓が誰にも気づかれない程度に、確かに鼓動の速度を上げる。
「そりゃあ、焼肉だろ。パワーの源」
「いや、プロテインじゃないか? 筋肉的な意味で」
「馬鹿言え、白米だ。若利は米さえあれば生きていける」
山形くんや大平くん、瀬見くんが、口々に好き勝手な予想を飛ばす。私はスケッチブックに視線を落としたまま、神経の全てを鼓膜に集中させていた。試験の結果発表を待つ時に似た、張り詰めた緊張感。
軈て、全部の憶測を薙ぎ払うように、低く、静かな答えが響いた。
「ハヤシライスだ」
牛島くんの声だった。
瞬間、私の世界から、ふっと音が消えた気がした。ハヤシライス。カレーライスのような華やかさや、国民食とまで呼ばれる圧倒的な知名度はない。だけど、デミグラスソースをベースにした、些か古風で、手間の掛かる料理。その選択が、牛島くんの朴訥とした揺るぎないイメージと不思議な程に調和して、胸の奥にすとんと落ちた。
何だか、とても彼らしいと感じたのだ。派手さはないけれど、じっくりと時間を掛けて煮込まれた、滋味深く、確かな味わい。
(ハヤシライスなら……私にも、作れるかもしれない)
そんな
細やかな希望が、心の中に芽生えた。牛島くんと私、交わることのない二つの世界を繋ぐ、細くて頼りない、一本の糸のように思えた。もっと、彼に近づきたい。彼の世界を、ほんの少しでもいいから、知ってみたい。想いがハヤシライスと云う具体的な形を得て、私の背中をそっと押したのだ。
その時だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、教室と廊下を隔てる窓越しに、牛島くんが真っ直ぐにこちらを見ていた。吃驚して、心臓が喉から飛び出しそうになる。私は慌てて俯き、スケッチブックに意味のない線を走り書きした。オリーブ色の瞳で、一体、何を捉えていたのだろう。只の偶然だったのか、それとも――。
「……と、云うわけで。ごめんなさい、人の会話を盗み聞きするなんて、行儀が悪いよね」
回想から戻り、しどろもどろに謝罪すると、牛島くんは驚いた様子も見せず、真剣な表情で頷いた。
「そうか。
苗字の耳は優秀だ。索敵能力が高い」
「さ、索敵……?」
余りにも彼らしい、一寸だけズレた返事に、堪え切れずに笑いが漏れた。途端に、私達の間に流れていた気まずい空気が、ふわりと軽くなる。
「じゃあ、作ろうか」
「ああ」
私は戸棚からエプロンを二枚取り出し、一枚を彼に手渡した。祖父が使っている、色褪せたデニム生地のエプロンだ。牛島くんが身に着けると、屈強なアスリートの姿がどこか家庭的な雰囲気を纏い、何とも言えない愛おしさが込み上げる。
共同作業は予想通り、ぎこちないものだった。
先ず、玉葱を切る役目を買って出た牛島くんは、バレーで鍛え上げた腕力そのままに包丁を振り下ろした。ガンッ、と俎板が悲鳴を上げ、私は慌てて、彼の腕を掴んだ。
「う、牛島くん! そんなに力を込めたら、俎板が割れちゃう!」
「む……。済まない、力加減が」
眉を寄せて反省する彼の隣に並び、そっと手の甲に掌を重ねた。「こうやって、猫の手にして、包丁を優しく前後に動かすの」と教えれば、牛島くんは素直に従ってくれた。触れ合った手指から伝わる、彼の体温。それだけで、私の心臓は玉葱よりも細かく微塵切りにされてしまいそうだった。
飴色に炒めた玉葱と牛肉、茸を煮込む深鍋に、私が作ったルーを溶かし入れる。とろりとした褐色の液体が沸々と音を立て、スパイスとトマトの甘く香ばしい匂いがキッチンに満ちた。二人で一つの鍋を、ゆっくりと木べらで掻き混ぜる。肩を掠める程の距離。沈黙が、少しも苦ではなかった。
カウンター越しに、祖父が楽しそうに茶化す。
「おやおや、青春のスパイスが効いて、さぞ美味しくなるだろうねぇ。隠し味に、僕の新作『星巡りの歌ソーダ』でも入れてみるかね?」
「丁重にお断りします」
私と牛島くんの声が、綺麗に重なった。顔を見合わせて、また笑う。
出来上がったハヤシライスを、深皿に盛り付ける。湯気の向こうでは、牛島くんが真剣な表情でそれを見つめていた。私達はテーブル席に向かい合って座る。夢の中で過ごしているようだった。数刻前、絶望の淵に居たのが嘘みたいだ。
スプーンを持つ手が、少しだけ震える。私は意を決して、牛島くんに話し掛けた。
「あのね、牛島くん」
「何だ」
「私が、牛島くんの好物を知っていたこと……その、盗み聞きしちゃったこと。二人だけの秘密にしてくれる?」
それは、私の
細やかな、必死の願いだった。一方的で不器用な好意の一端を、誰にも知られたくなかった。彼にだけ、知っていてほしかった。
牛島くんは動きを止め、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。オリーブ色の双眼には、夕暮れの光が宿り、深い森の湖みたいな、静かで誠実な色が湛えられている。
「ああ。約束する」
牛島くんは、きっぱりと言い切った。
「これは、俺と
苗字だけの秘密だ」
その言葉は、どんなに甘い愛の囁きよりも、私の心の奥深くにじんわりと染み渡った。共有された秘密は、僅かな苦味と甘味を兼ね備えたハヤシライスのルーみたいに、私達の間にゆっくりと溶け出す。
「「頂きます」」
私達の声が、再び重なった。
牛島くんが大きなスプーンでハヤシライスを運び、ゆっくりと咀嚼する。私は判決を待つ被告人のような心地で、彼の反応を固唾を呑んで見守った。
軈て嚥下した彼は、もう一口、また一口と、無言のまま食べ進め始めた。そうして、皿の半分近くが空になったところで、俄かに視線を上げ、私を捉えながら言った。
「……美味い。今まで食べた、どのハヤシライスよりも」
その感想に、私の視界はまたしても、喜びの涙で滲みそうになった。
この日のハヤシライスは、私の人生で一番甘く、特別な味がした。二人だけの秘密は、これから始まる物語の最初の頁に挟み込まれた、大切な栞になるのだろう。