誕生日の夜、愛しさと別れが交差する、二人だけの繭の中のひととき。

Title:ありがとう、そうして今年も
 時計の針が、21時を過ぎていることを告げていた。秒針の刻む微かな音だけが、しんと静まり返った部屋に響いている。  いつの間にか、少し肌寒く感じられて、熱の残る素肌にひんやりとした夜気が触れ、ぞくりとした。それでも離れ難くて――わたしは、彼の胸に頬を寄せたまま、名残を惜しむようにそっと瞬きを繰り返していた。覚くんの心臓が、とくん、とくん、と規則正しいリズムを刻んでいる。その音が、今は世界で一番心地好い子守唄のようだった。 「……帰る時間、だね」  絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れていた。その言葉が合図だったかのように、覚くんの腕が、わたしの腰をきゅっと強く抱き締める。 「うーん、言わないで……その言葉、今、世界で一番嫌い」  彼の声も甘えるように、少しだけ拗ねた響きを帯びていた。裸の肌がぴったりと重なったまま、ただ、お互いの呼吸を聞いていた。窓の外は遠くの街灯に照らされて、淡いオレンジ色の夜。この部屋だけが世界から切り離された、特別な繭の中に居るみたいだった。  明日は月曜日。  学校が、また始まる。日常が、わたし達を待っている。 「……名前ちゃんと付き合う前の誕生日は、さっさとケーキ食べて、テレビ観て、笑って過ごすだけだったんだよねぇ」  ぽつりと、覚くんが呟いた。その声には、どこか遠い昔を懐かしむような響きがあった。 「……わたしも。家族以外の誰かと一緒に過ごす誕生日なんて、想像もしていなかった」  覚くんの温もりに包まれながら、わたしも小さく答える。一人で過ごす静かな時間は嫌いではなかったけれど、こうして誰かの体温を感じながら迎える夜は、比べ物にならないくらい満たされていた。 「ねぇ、名前ちゃん……誕生日だからか、いっぱい好きって言われた気がする」  悪戯っぽく、覚くんがわたしの頭の上で囁いた。 「だって、覚くんの日なんだよ。だから、覚くんが幸せでいてくれたらいいなって、そう思ったの」  言葉にすると、途端に照れ臭くなって、声が少しだけくぐもる。覚くんは、そんなわたしの髪を指先で優しく梳きながら、くすりと笑った。その振動が心地好く伝わってくる。 「……そっか。じゃあ、来年も言って」 「うん。言う」 「じゃあ、再来年も」 「言う」 「その次も」 「言うよ。ずっと言う」  間髪入れずに答えると、覚くんは満足そうに「やったー……もうこれで、後70回くらいは安心だぁ」と、いつもの調子で笑った。冗談みたいに軽やかな言葉尻。それでも、彼の指は、わたしの頬をなぞる仕草一つにも、言葉にできない程の愛しさが込められていて、その優しさが胸の奥にじわりと温かく沁み込んでくる。 「……ほんとはさ、ずっと居たい」  不意に、覚くんの声のトーンが少しだけ低くなった。 「……うん。わたしも」  素直な気持ちが、唇から零れ落ちる。 「学校とか、用事とか、そういうの一回、どっか行ってほしい。日曜の夜が終わんなきゃいいのにって、今日、めちゃくちゃ思った」  覚くんの言葉はどこまでも飾らない本音で、だからこそ胸がぎゅっと締め付けられるように切なくなる。わたしも心の底から、同じことを願っていたから。  けれど、魔法が解ける時間は、もう直ぐそこまで迫っている。  覚くんが、ふぅ、と小さな溜め息を一つ零し、ゆっくりとわたしの肩を掴んで身体を起こした。 「でも……今日は、もう帰るね」  名残惜しさを滲ませながらも、その瞳には確かな決意のようなものが宿っていた。 「……うん。ありがとう、覚くん。生まれてきてくれて」  彼の赤い髪を見上げながら、心の底からの感謝を伝える。今日という日がなければ、わたし達はこうして出逢うことも、触れ合うこともなかったのかもしれないのだから。 「……そんなの、こっちのセリフだよ」  覚くんは少し照れたように視線を逸らし、それからもう一度、わたしを真っ直ぐに見つめた。 「好き」  わたしの唇から紡がれた、たった二文字。けれど、その響きはどんな言葉よりも深く、覚くんの心に届いたのかもしれない。 「……俺も。好き。……名前ちゃんが、俺の彼女でほんと良かったって、何度も思ってる。ほんとに、ありがとう」  その言葉は、まるで宝物のように大切に、わたしの胸の奥に仕舞われた。 「……そうして、今年もまた一緒に過ごそうね」  自然と、そんな言葉が口を衝いて出た。未来への、ささやかな約束。  不意に強く抱き締められる。  彼の腕の力強さと、ほんの少しだけ、切ない程の優しさ。その温かい腕の中で、わたしはそっと目を閉じた。  きっと来年の今日も、同じ気持ちでいたい。ううん、もっと深い愛情で、彼を見つめていたい。  その為に、ちゃんと明日を頑張ろうと思える。  それくらい、幸せだった――覚くんと過ごした、この日曜日。
「……そうして、今年もまた一緒に過ごそうね」  名前ちゃんの鈴を転がすような、でも芯のある声が、俺の鼓膜を優しく揺らした。  その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅぅぅんってなって、気づいたら、俺、名前ちゃんのこと、力いっぱい抱き締めてた。細くて、柔らかくて、でも、ちゃんと俺を受け止めてくれる、大切な身体。シャンプーの甘い香りがふわりと鼻孔を擽って、あー、もう、マジで帰りたくない。このまま、この匂いに包まれて眠りたい。  でも、まぁ、そうもいかないのが現実ってもんで。  名残惜しさを振り切るように、俺はゆっくりと腕の力を緩めた。名前ちゃんも、俺の肩に預けていた頭をそっと持ち上げる。潤んだ瞳が部屋の薄明かりの中でキラキラしていて、思わず見惚れてしまう。 「さてと、そろそろ本当にシンデレラタイム、かな」  俺は態と明るい声を出して、ベッドからよいしょっと身体を起こした。散らばった服を手早く身に着けていく。名前ちゃんも緩慢な仕草でベッドから降りて、部屋着に薄手のカーディガンを羽織った。その一つひとつの動きが、なんかこう、スローモーションみたいに見えて、全部、目に焼き付けておきたいって思った。  廊下を通って、玄関へ。  二人とも無言だったけど、気まずさなんて欠片もない。寧ろ、この静寂が、さっきまでの熱っぽい時間の余韻をより一層濃くしているような気がした。 「今日の俺、やっぱり測定不能の最高点だったなぁ」  靴を履きながら、俺はポツリと呟いた。 「ふふ、そうだね。わたしにとっても、忘れられない一日になったよ」  名前ちゃんが、ふわりと微笑む。その笑顔だけで、俺の心臓はまたバックバクだ。  ドアノブに手を掛けて、もう一度、名前ちゃんを振り返る。あぁ、この顔、記憶に刻んでおこう。明日、学校で会えるまでの、俺の元気の源。 「ねぇ、名前ちゃん」 「なに?」 「もう一回だけ、ちゅーしていい?」  俺が悪戯っぽく唇を尖らせると、名前ちゃんは一瞬きょとんとした顔をして、それから、くすりと小さく笑った。 「……今日だけ、特別、だからね」  そう言って、屈んだ俺に、自分から軽いキスをくれた。柔らかくて、甘い感触。うん、これで、明日からも頑張れる!  マンションの廊下に出て、エレベーターホールまで、名前ちゃんが見送りに来てくれた。箱の到着を待つ、ほんの数秒の時間が、やけに長く感じる。 「じゃあ、また明日、学校で」  名前ちゃんが小さな声で言った。 「うん。明日、教室まで迎えに行くから」  俺がそう言うと、名前ちゃんは嬉しそうに目を細めて、「ふふ、楽しみにしているよ」と囁いた。  チーン、と軽い音を立てて、エレベーターの扉が開く。乗り込んで、閉まり掛ける扉の向こうで、名前ちゃんが小さく手を振っているのが見えた。その笑顔が、俺の胸を温かくする。  完全に扉が閉まる直前、俺は声には出さずに、唇の動きだけで伝えた。  ――アリガトウ。  エレベーターが下降を始める。一人になった途端、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かで、名前ちゃんの温もりが恋しくなった。ポケットの中で、彼女から貰った深紅のペンダントをそっと握り締める。ひんやりとしたガラスの感触が、指先に心地良かった。  夜道を一人で歩きながら、今日の出来事を何度も何度も反芻する。名前ちゃんの笑顔、声、肌の感触、そして、あの言葉。 「そうして、今年もまた一緒に過ごそうね」  その言葉が、まるで魔法の呪文みたいに、俺の心の中でキラキラと輝いている。  来年の誕生日も、その次の誕生日も、ずっと、ずっと、彼女と一緒に居たい。  ううん、誕生日だけじゃなくて、毎日、毎時間、毎秒、彼女の隣に居たい。  そんなことを考えていたら、自然と笑みが零れた。  今日の俺、間違いなく人生最高の120点どころか、1000点満点だ。  そして、この幸せな気持ちを胸に抱いて、俺はまた明日から、名前ちゃんを世界で一番幸せにする為に、全力で頑張るんだ。  ――ありがとう、名前ちゃん。  ――そうして、今年もまた宜しくね。  月が綺麗な夜だった。まるで、俺達の未来を祝福してくれているみたいに優しく輝いていた。