誕生日、赤いペンダントが二人の「好き」を映す。
Title:また一つ積み上げた思い出
マンションのドアの鍵がかちゃりと音を立てた瞬間、わたしの鼓動は一際大きく跳ねた。
どうしてだろう。何度も開け閉めした、見慣れた筈の自宅のドアなのに――今日だけは未知の世界への入り口のように、特別な意味を帯びて見えた。それはきっと、隣に居る彼の存在が、日常の風景に鮮やかな魔法を掛けているから。
「お邪魔しまーす♪って言うけど、俺、今日のお誕生日様だから、寧ろお邪魔じゃないかも~?」
覚くんが悪戯っぽく笑いながら靴を脱ぎ、わたしのテリトリーにするりと足を踏み入れる。その軽やかで、どこか子供っぽい無防備さがいつもの天童覚らしくて、張り詰めていた心の糸がほんの少しだけ緩むのを感じた。覚くんをリビングへと促し、わたしは慣れた所作でソファに腰を下ろす。彼もまた、寛いだ様子で隣に座り込んだ。
「……緊張してる?」
不意に、覚くんがわたしの顔を覗き込むようにして尋ねた。その大きな瞳が、わたしの心の奥底まで見透かそうとしているみたいで、少しだけ狼狽える。
「していないって言ったら、嘘になる」
正直な気持ちを口にすると、覚くんは嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ、可愛いねぇ。
名前ちゃんが震えるとこ、滅茶苦茶レア。記念に保存しとこっかな」
――緊張を解きほぐそうとしてくれているのだろうか。覚くんはそう言うと、わたしの額に自分のおでこをこつん、と優しくぶつけた。
それだけで、彼の体温がじんわりと伝わって、あぁ、今日は本当にこの人を独り占めしているのだと、胸がきゅっと甘く締め付けられた。触れ合った額から、彼の心臓の音が聞こえてきそうな程、静かで満たされた空間だった。
「プレゼント、嬉しかったよ。……すっごく。俺をこんなにちゃんと見ててくれるんだなぁって、泣いちゃいそうだったもん」
覚くんはそう言って、わたしが贈った深紅のペンダントを白いシャツの中からそっと引っ張り出し、目の前でひらりと揺らしてみせた。それは陽の光を浴びていた時とはまた違う、室内の柔らかな照明の下で、彼の心臓の鼓動そのものが形になったかのように、静かで情熱的な赤い光を放っている。
「髪の色だけじゃないよ。……あの赤、
名前ちゃんの気持ちの色にも見えた」
「え……?」
覚くんの言葉に、わたしは息を呑んだ。わたしの気持ちの色――それは、わたし自身も気づいていなかった、心の奥底に秘めた想いの色なのかもしれない。
「ねぇ、好きって言っていい? 今日だけじゃなくて、明日も明後日も、俺、
名前ちゃんのこと、何回も好きって言いたいなぁ」
甘えるような、それでいてどこか切実さを帯びた声音。けれど、その目はどこまでも真っ直ぐで、少し潤んでいるようにさえ見えた。
嘘じゃない。ふざけてもいない。
そんな風に全身全霊で「想ってるよ」って伝えてくるから、わたしの心の中に仕舞い込んでいた「好き」という感情が、堰を切ったように溢れ出してしまいそうだった。
「……わたしも、好き。覚くんのこと、ずっとずっと、好き」
言葉にすると、それは思ったよりもずっと簡単で、けれど、途轍もなく重い意味を持っていた。彼に伝わっただろうか。この、胸を焦がすような想いが。
「ははっ。じゃあ、今日のスペシャルイベント、第二弾に突入しちゃう?」
覚くんはそう言って、わたしの手首を優しく引き寄せた。そして、正面に回り込むようにしてソファの前に膝を突き、じっと見上げてきた。
その瞳に、わたしだけが映っている。窓の外の喧騒も、遠くで鳴るサイレンの音も、何もかもが遠退いていく。外の世界なんて何も存在しないみたいに、彼の中もわたしで満ちている。そんな錯覚に陥る程、彼の眼差しは強くて優しい。
「……手、繋いでもいい?」
「うん」
覚くんの声が静寂を破って響く。わたしは小さく頷いた。握られた手は少し汗ばんでいて、彼の緊張が伝わってくるようだった。
「キス、してもいい?」
その問い掛けに、わたしの心臓は大きく跳ねた。けれど、怖くはなかった。寧ろ、待ち望んでいたような気さえする。
「……うん」
頷いた途端、世界がスローモーションになったみたいだった。触れるか触れないかの距離で――彼の唇がそっと、わたしの唇を撫でた。
それは甘くて、優しくて、震えるくらい切実なキスだった。初めて触れる彼の唇は柔らかく、温かくて、わたしの思考を溶かしていく。彼の赤い髪が視界の端で揺れ、整髪料の香りがふわりと鼻孔を擽った。
ゆっくりと唇が離れると、彼の手が、わたしの髪を梳くように耳元へと伸び、そっと囁く。吐息が混じった、熱っぽい声。
「誕生日って、凄いね。だって、こういうの、全部、ぜーんぶ、許されちゃう日なんだもん」
その言葉に、わたしは熱くなった頬を隠すように俯いた。
「……覚くん、狡い」
「そうだよ~? ずっとずっと、
名前ちゃんを好きだったもん。今日くらい、狡くさせて?」
拗ねた子供のような、それでいて確信に満ちた声。もう、何も言えなかった。
彼の体温も、言葉も、わたしの肩を抱く腕も、全部がわたしを包み込んで、息をする度、彼で満たされていくようだった。わたし達はもう一度、今度はもっと深く、互いを確かめ合うように唇を重ねた。
時計の針は静かに、確実に時を刻んでいた。
けれど、わたし達にとっては、まるで止まっているかのようだった。
この日、この部屋、この瞬間だけは、誰にも邪魔されない――そんな甘美な魔法に掛かっていたから。
やがて、夜が更けて、窓の外からは遠く、誰かの生活音が聞こえ始めた。けれど、わたしの世界は、彼の心臓の音と、わたしのそれと、触れ合う肌の微かな衣擦れの音だけで満たされていた。
五月二十日。彼が生まれた大切な日。そして、わたし達にとって、また一つ忘れられない想い出が積み上げられた日。この温もりと、胸に灯った確かな光を、わたしはきっと生涯忘れないだろう。