好きが止まらない、静かな夜に全てを預けた。
Title:照れ臭い事を口走れる日
わたしの指先を包み込むように、覚くんの大きな手が重なった。バレーボールを扱い慣れたその掌は、思いのほか柔らかく、陽だまりのような温もりを湛えている。ただ手を繋いでいるだけなのに、胸の奥がじんわりと甘く疼いて、鼓動が早鐘を打ち始めた。
先程までの、少しふざけたような空気はどこかへ霧散し、部屋の中には二人だけの濃密な静寂が満ちている。夕暮れの橙色が薄れ、窓の外は藍色の帳に包まれようとしていた。
「……ねぇ、
名前ちゃん」
覚くんが、わたしの名前を呼ぶ。その声はいつもより些か低く、熱を帯びているように感じられた。赤茶色の瞳が真剣な光を宿して、わたしを見つめている。
「……なに?」
わたしは、覚くんの視線を真っ直ぐに受け止めながら、小さく応えた。心臓が期待と不安で激しく脈打っているのが分かる。
「俺、今日なら、何言っても許される気がしてる」
覚くんの言葉は魔法の呪文のようだった。誕生日という特別な日が、普段は心の奥底に仕舞い込んでいる素直な感情を解き放つ鍵になる。そんな気がしていた。
「……うん。わたしも、そう思っていたよ」
だから、もう何も隠さなくていい――そう言うみたいに、覚くんの双眸が、わたしを射抜くように見つめる。その眼差しは、コート上で相手の攻撃を完璧に読み切る時のように鋭く、それでいて、どこまでも優しかった。
「
名前ちゃんのこと、大好き。……て言うか、好き過ぎて困ってる」
ストレートな告白が鼓膜を震わせる。覚くんの「好き」という言葉は、いつだってわたしの心を揺さぶるけれど、今日のそれはいつも以上に重く、甘美に響いた。
「困るの……?」
わたしがそう問い返すと、覚くんは少し困ったように眉を寄せ、それから、ふにゃりと表情を崩した。
「だってさぁ……キスしたら止まんなくなるし、ぎゅーってしたら離したくなくなるし、もう、ねぇ……これ以上は照れ臭いけど……でも、今日は言ってもいいんでしょ?」
ふわりと笑ったその顔は、無邪気な少年のようで、でも、その奥には獲物を狙う獣のような鋭い光が、ちらりと見え隠れする。ドキリとした。ほんの一瞬だけれど、心臓が喉までせり上がってくるような、強烈な感覚に襲われる。
「
名前ちゃんが、俺の全部が欲しいって言ってくれたら……多分、すぐ、あげちゃうよ」
囁くような声で、覚くんがそんなことを言う。その言葉の甘さと危険な響きに、わたしの思考は一瞬停止した。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
「……そんなの、狡いよ」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚く程に震えていた。
「でしょ? 狡いって思わせたくて、言ってるもん」
覚くんは得意気に笑って、わたしの唇に、またそっと口づけた。
一つ、二つ、三つ……。
重ねる度に、覚くんの吐息が熱を帯びていくのを感じる。その都度、わたしの心も、身体も、ゆっくりと溶けていくみたいだった。夏の陽射しを浴びたアイスクリームのように、抗う術もなく。
「なぁんか……こうしてると、好きが止まらないなぁ。どうしよ。ねぇ、
名前ちゃん」
覚くんの声が、耳元で甘く響く。息遣いが肌に触れて、背筋がぞくりと震えた。
「……なに?」
わたしは、覚くんの首にそっと腕を回しながら、吐息混じりに答えた。
「
名前ちゃんの身体の隅々まで、全部に『俺の。好き』って書きたい」
その言葉に、思わず息を呑む。余りにも率直で、余りにも情熱的で。
「……え?」
「マジで。もういっそ筆とか持ってきて、『ここが好き~』『この黒子も最高~』『あー、ここ噛みたい~』って」
冗談めかして言うけれど、覚くんの瞳は本気だった。その熱っぽい視線に射抜かれて、わたしは成す術もなく、彼に身を委ねてしまう。
「……バカ」
わたしは笑って、そう呟いた。でも、その笑いの中には、抗えない程の甘さがあった。覚くんに触れられる度、抱き締められる度に、わたしの理性はゆっくりと溶けていく。「好き」という言葉が、耳からも、指先からも、唇からも、じんわりと染み込んでくる。
気づけば、わたしは覚くんの着ている白いシャツのボタンに、そっと指を掛けていた。
彼は、そんなわたしを見て、ふっと微笑む。いつものような冗談交じりの、人を食ったような笑顔じゃない。ほんの少しだけ真剣で、それでいて、心の底から安心させてくれるような、優しい表情。
「……やっぱ俺、狡いよね」
覚くんの声は囁くように甘い。
「うん、狡い。でも……わたし、覚くんにだったら、狡くされてもいい」
その言葉に、覚くんの赤茶の瞳が驚いたように揺れた。そして、次の瞬間、もう一度、わたしを強く抱き締めて、その唇が、わたしの首筋へとそっと落ちた。
「
名前ちゃん、好き。……好き、好き、大好き。大事にしたいし、でも、独り占めもしたいし、いっぱい……可愛がりたい」
覚くんの言葉が熱いシャワーのように、わたしの全身に降り注ぐ。一つひとつの「好き」が、肌に、心に、深く刻み込まれていく。
「……今日は、してもいいよ」
わたしは、覚くんの背中に回した腕にそっと力を込めて、そう囁いた。
「……ほんとに、してもいいの?」
確認するように、覚くんが顔を上げる。その瞳は期待と、僅かばかりの不安で揺れていた。普段の自信満々な彼とは違う、少年のような初々しさが垣間見える。
わたしは小さく、こくりと頷いた。
すると、彼の唇がゆっくりと、わたしの鎖骨へと下りていった。
ブラウスの襟が、そっと開かれる。
彼の指が慎重に、わたしの素肌に触れていく。その感触に、全身が粟立つような感覚を覚えた。まるで電流が走ったかのように。
唇も、声も、彼の「好き」という言葉も、わたしの全部をゆっくりと、でも、確実に満たしていく。
この夜、わたし達は普段なら絶対に口にできないような照れ臭い言葉を、何度も、何度も交わし合った。
むず痒くて、甘くて、だけど、心の奥底から溢れ出してくるような、そんな言葉ばかり。
時間が止まったかのような錯覚に陥る。窓の外は完全に夜の帳に包まれ、外灯の淡い明かりだけが、薄いカーテン越しに部屋を照らしている。覚くんの赤い髪が、その光にほんのりと輝いて見えた。
「……俺、この先、何回誕生日迎えても、今日が一番幸せだったって、ずっと言ってそう」
腕の中で、覚くんが満足そうに呟く。その声は、少しだけ掠れていた。
「……じゃあ、来年も再来年も、もっと幸せにしてあげる」
わたしは、覚くんの赤い髪をそっと撫でながら、そう約束した。彼の髪は思ったより柔らかくて、指の間をするりと滑り抜けていく。
「……そう言われたら……生きるの、もっと楽しみになっちゃうじゃん」
覚くんは子供みたいに笑って、わたしを更に強く抱き締めた。その腕の中が世界で一番安全で、一番温かい場所のように思える。
五月二十日。
彼の生まれた、特別な日。
そして、わたし達の心が、照れ臭い言葉のシャワーを浴びて、また一つ深く結ばれた日。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれていたけれど、この空間だけは温かくて甘い光で満たされているような気がした。この幸せな時間が永遠に続けばいいのに、と心から願った。
月の光が薄いカーテンを透かして、わたし達を静かに見守っている。今夜だけは、時の神様も大目に見てくれるような気がしていた。照れ臭い言葉も、甘い囁きも、全部が許される特別な夜。
そんな想いを胸に、わたしは覚くんの温もりに包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じた。