- 今日、会えないけど -
ゴールデンウィークの最中、白鳥沢学園の体育館には、相変わらずの熱気と緊張が漂っていた。
全国を見据える強豪校、日常には"特別"の欠片もない。
だけど――その日だけは、白布賢二郎にとって、ほんの少しだけ違っていた。
モップとスマホと、十七歳
五月四日。カレンダーの上では休日を示す、赤い数字。
空には一点の雲も見当たらず、突き抜けるような快晴が広がっていた。しかし、ここ、白鳥沢学園高校の体育館に満ちているのは、そんな爽やかな季節感とは凡そ無縁の、濃密な熱気と汗、そして、フロアに染み付いたラバーの匂いだった。
乾いた空気を鋭利な刃物のように切り裂き、誰かの放ったスパイクが突き刺さる。床を叩くボールの衝撃音が、壁に反響して耳朶を打った。
「ラスト、一本!」
コートサイドから、鷲匠鍛治の短くも鋭い号令が飛ぶ。その声は、既に限界近くまで酷使された部員達の神経を、最後の集中へと駆り立てる鞭となった。
白布賢二郎は滴り落ちる汗で額に張り付いた前髪の重さを感じながら、寸分の狂いもなく、ボールの下へ滑り込む。指先から放たれた球は、意志を持ったかのように正確な放物線を描き、絶対的なエース、牛島若利の最高到達点へと吸い込まれていく。
跳んだ牛島が空中で全身を撓らせ、振り抜かれた腕が球体を捉える。次の瞬間、体育館全体が揺らぐかのような轟音と共に、ボールは相手コートの床へと叩き付けられた。地鳴りにも似たその音が、まだ完全に消えやらぬ内に、練習試合の終了を告げるホイッスルが、甲高く空間を切り裂いた。
「……礼!」
主将の掛け声に合わせ、白布も他の部員達と同じく、深く頭を下げる。背筋を伸ばした刹那、首筋から背中へと、一筋の新たな汗が流れ落ちた。疲労は全身を鉛のように重くしていたが、全てを出し尽くしたと云う確かな充足感が、胸の奥を満たしていた。
「解散。ボール片付けて、フロアをモップ掛け。その後、ミーティングだ」
鷲匠監督の淡々とした指示に、白布は無言で頷き、すぐさまボールへと駆け寄る。チームメイトらも同様に、一日の練習を終えた安堵感に浸る間もなく、手際良くコートの後片付けに取り掛かった。
世間一般で言うところのゴールデンウィーク。しかし、全国を目指す強豪、白鳥沢学園男子バレー部にとって、それは名前ばかりの連休に過ぎない。毎年恒例となっている強化合宿。地獄と称される程のハードな練習メニューが、朝から晩までみっちりと詰め込まれた五日間は、今年もまた繰り返されている。
けれど、白布にとって、今日と云う日は過酷な日常の中でも、ほんの少しだけ特別な意味を持っていた。
理由は極めて単純だ。
本日、五月四日、白布賢二郎は十七歳の誕生日を迎えた。
そんな、個人的には記念すべき祝日であるにも拘らず、白布の意識は部活中もずっと、体育館とは別の場所に居る、一人の少女へと引き寄せられていた。
――
名前のことだ。
今朝、まだ薄暗い大部屋を出る前に、ほんの僅かな時間を使って確認したスマートフォンの画面。そこに、
名前からのメッセージ通知が、幾つか点灯していたのを憶えている。
『おめでとう、賢二郎』
シンプルだが、心の籠もった祝福の言葉。続いて、普段の彼女からは些か珍しい程、やけに長い文章が綴られていたような気がする。けれど、合宿中の規律は絶対だ。体育館へのスマホ持ち込みは厳禁であり、最後までは内容を確かめられなかった。スポーツバッグの奥深くに仕舞い込んだ、冷たい金属と硝子の塊。思い出す度、白布は内心で微かな苦笑を漏らした。
――多分、今頃はまた、追加でメッセージを送ってきているだろう。
――しかも、いつもの落ち着きを少し失って、そわそわしながら。
その姿を想像するだけで、胸の奥底が、じんわりと温かいもので満たされる。自然と口許が緩みそうになるのを、白布は慌てて奥歯を噛み締めることで押し留めた。
「賢二郎ー、さっさとモップ掛けろー」
ボールを片付け終えた、川西太一の声が飛んでくる。
「……分かってる」
感情の起伏を余り見せない、いつもの淡々とした声音で返し、白布は黙々とフロアにモップを滑らせる。ここで、一寸でも相好を崩そうものなら、この目敏いチームメイトに何を勘繰られ、揶揄されるか分かったものではない。
軈て体育館の清掃も済み、部員達は壁際に並んで、ミーティングへと臨んだ。鷲匠監督の端的な、しかし、一つひとつに重みを持つ言葉が、静まり返った広い空間に響き渡る。
「明日も朝練は定刻通りだ。いいか、お前達。練習ってのは、日常だ。特別なことじゃねぇ。ただ只管にそれを続けられる者だけが、最後に強者として、コートに立つことを許される。肝に銘じておけ」
シンプル極まりない訓辞。だが、その訓えには、揺るぎない真理が宿っていた。白布の心に、ぴしりと一本の硬い芯が通る感覚があった。そうだ、続けること。それこそが、自分達がここに居る理由であり、目指すべき場所へと至る唯一の道なのだ。
「……はい!」
全員の声が一つに重なり、体育館の高い天井へと吸い込まれる。力強い響きの余韻に、白布は自然と背筋が伸びるのを感じた。仲間達と共に、同じ目標に向かって汗を流せること。その事実が、白布にとっては何物にも代え難い誇りだった。
だが、ミーティングが終わり、合宿所へと戻る短い道程の間、白布の意識は再び、あの少女へと回帰していった。ジャージ越しに伝わる夕方の風は、まだ少し肌寒い。それでも胸の内には、焦燥に似た熱が燻っていた。
――早く、スマホを確認したい。
――早く、あの、少しだけ浮き足立った、不器用な言葉達を読みたい。
誰よりも自分の誕生日にそわそわと心を弾ませているであろう、あの、どうしようもなく愛しい
名前からのメッセージを。
合宿所に戻ってからは、汗に塗れた身体をシャワーで洗い流し、食堂で適切な量の夕食を胃に詰め込む。全てを規定の時間内に終え、漸く訪れた、ほんの僅かな自由時間。
白布は大部屋に入るなり、自分のスペースに駆け込む。他の部員の視線も気にせず、真っ先にバッグを開け、目的のスマホを乱暴な手つきで探り出した。
端末を点灯させると、ロック画面には予想通りの光景が広がっていた。
――案の定、通知の数が尋常じゃないことになっていた。
指紋認証でロックを解除する。トークアプリのアイコンには、見慣れない数字のバッジが付いていた。真っ先に、
名前とのトーク画面を開く。
『おめでとう、賢二郎』
先ず、朝見たのと同じメッセージ。続いて、スクロールしなければ追い付かない程の言葉が連なっていた。
『今日は、賢二郎が生まれた、凄く大切な日だね』
『わたし、賢二郎の為に、お祝いの準備を考えていたんだ。ささやかだけれど』
『賢二郎が好きな食べ物のことも、ちゃんとリサーチしたんだよ。ふふ』
『本当は、今直ぐにでも合宿所に押し掛けて、直接「おめでとう」って言いたい……迷惑だよね、ごめん』
『今日の練習、どうだった? 怪我とかしてない? 無理し過ぎてない?』
『返信は、賢二郎が落ち着いてからで大丈夫だからね』
『でも、ちょっとだけ、声が聞きたいなって思ったり……ううん、やっぱり、何でもない』
『兎に角、本当におめでとう。十七歳だね』
一つひとつの文字列が、
名前本人の声で再生されるかのようだった。あの、少し高めで、どこか透き通った、晴れた日の空みたいな声色。時折、抑え切れない感情が滲んで、微かに揺らいでしまう、繊細な声音。
白布は思わず、スマホを握る手に、ぐっと力を込めた。指の関節が白くなる。
どれだけ、この子に想われているのだろう。
どれだけ、自分はこの純粋で真っ直ぐな好意によって、大切にされているのだろう。
その事実を突き付けられる度、胸の奥が熱くなり、同時にどうしようもない独占欲が鎌首を擡げる。十七歳。理性では、もう充分に物事を理解できる年齢の筈なのに、こと彼女に関しては思春期特有としか言いようのない、制御の難しい感情が、またしても内側から突き上げてくる。
冷静に押さえ込もうとすること自体が、最早、無駄な努力だと知っている。抗う術はない。
だって、好きなのだから。
この世界で、他の誰よりも、何よりも、
名前のことが。
白布はゆっくりと指を滑らせ、返信のメッセージを打ち込んだ。
『練習終わった。風呂も飯も済ませた。
名前、ありがとう。送ってくれたメッセージ、全部読んだ』
送信ボタンを押すと、殆ど間髪入れずに既読が付き、直ぐに返事が返ってきた。予測していた通りの反応に、白布の口許に微かな笑みが浮かぶ。
『うん。お帰りなさい、賢二郎。練習、本当にお疲れ様。良かった、ちゃんと読んでくれて。あのね、大好き』
『早く逢いたいな』
短いけれど、ストレートな言葉。白布はスマホを胸元にそっと押し当てた。どくどくと脈打つ心臓の鼓動が、冷たいデバイス越しに伝わる。息を深く吸い込むと、合宿所特有の消毒液と石鹸、夜気を帯びた空気の混じり合う、春の匂いがした。
――もう直ぐ、この合宿が終われば、逢いに行ける。
――もう直ぐ、
名前の居る場所へ。
心の中に、届く筈のない呟きを忍ばせながら、白布は窓の外に広がる夜空を見上げた。
吸い込まれそうな程に暗く深い藍色のキャンバス。無数の星々が、涙で滲んだかのように淡く、確かに瞬いている。
あの遠い帳の下で、
名前もきっと、同じように自分のことを想ってくれている。
そんな確信にも似た感情で、白布の胸は静かに、確実に満たされていた。十七歳の夜は、まだ始まったばかりだった。