好き過ぎて、近くに居ない時でも感じていたい。

Title:君を独占する口実
 五月も半ばを過ぎた、日曜日の午後。  地獄と称された強化合宿が終わりを告げてから、一週間と少しが過ぎていた。あの濃厚な熱気と汗の匂いが染み付いた体育館とは対照的に、今日の空は薄い雲のベールを纏い、柔らかな日差しが地上に降り注いでいる。初夏特有の、やや湿り気を帯びた風が頬を撫でるのが心地良い。  俺、白布賢二郎は、そんな穏やかな休日の空気を肺いっぱいに吸い込みながら、見慣れた高級マンションのエントランスを潜った。目的の部屋のインターホンを鳴らすと、数秒の間を置いて、少し掠れたテノールの声が応えた。 「はい、どちら様でしょう?」 「……白布です。賢二郎です」  俺は努めて冷静に、しかし、無意識に声が僅かに上擦るのを感じながら名乗った。このテノールの主は、名前の兄である苗字兄貴さんだ。今日もきっと、あの独特なセンスのTシャツを着ているに違いない。 「おお、賢二郎くんじゃないか! よく来たね、さぁ、上がりなさい。名前は今、君の為に取って置きのお茶を淹れている最中だよ」  ピッ、と軽い電子音を立てて、オートロックが解除される。その言葉に、俺の胸の奥が微かに疼いた。「君の為に」。その言葉の響きが、擽ったいような、それでいて抗い難い引力を持っている。  エレベーターで最上階へと上がり、目的の部屋の前に立つ。深呼吸を一つ。合宿中、あれほど焦がれた瞬間の直前だというのに、妙な緊張感が全身を支配する。ドアノブに手を掛けようとした瞬間、内側から勢いよく扉が開かれた。 「賢二郎!」  そこに立っていたのは、俺の恋人、苗字名前だった。  夜の海を思わせる深い色の瞳が、俺を捉えて嬉しそうに細められる。いつもと変わらない、色素の薄い白い肌。綺麗に切り揃えられた髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れた。服装は落ち着いたネイビーのワンピース。彼女の白い肌を一層際立たせている。  その姿を見た瞬間、午前中の疲労も、先程までの緊張も、全てが霧散していくような感覚に陥った。 「……来たけど」  ぶっきら棒に聞こえるかもしれないが、これが、今の俺に出せる精一杯の挨拶だった。内心では、今直ぐにでもその華奢な身体を抱き締めてしまいたい衝動に駆られている。十七歳にもなって、こんな単純なことで理性が揺らぐ自分が少し情けない。 「ふふ、いらっしゃい、賢二郎。どうぞ上がって。兄貴兄さんも待っているよ」  名前はそう言って、俺の手を自然に取る。その小さな手の温もりが、ダイレクトに心臓へと伝わってくる。この感覚だ。この、名前に触れられた瞬間に全身を駆け巡る、甘美な痺れのような感覚。  リビングに通されると、ソファに深々と腰掛けた兄貴さんが、案の定、胸に『人生、山あり谷あり、崖あり。』と白い筆文字で書かれた黒いTシャツを着て、にこやかに手招きをしていた。 「やぁ、賢二郎くん。合宿、大変だったようだね。名前から聞いているよ。でも、その顔を見る限り、充実していたみたいだ。うん、良い目をしている」 「……お邪魔します。お陰様で、扱かれました」  俺は軽く頭を下げながら答える。この人には、どうも見透かされているような気がして、少しだけ居心地が悪い。だが、名前の兄であり、俺達の関係を温かく見守ってくれている数少ない理解者でもある。 「今度の新作はね、合宿で心身ともにボロボロになったバレー少年が、愛しい恋人の手料理で心も体も癒される……なんていう、ベタ甘な展開を考えているんだ。どうかな、賢二郎くん、何か良いアイデアはないかい?」 「……いえ、特にありません」  俺は即答した。この人の思考回路は時々、常人には理解できない領域に飛躍する。名前はそんな兄の言葉を特に気にするでもなく、キッチンから「賢二郎、お茶が入ったよ」と声を掛けてきた。  俺は名前に、リビングの隣にある、日当たりの良いサンルームのような小部屋に通された。そこには小さなテーブルと二脚の椅子が置かれ、窓辺には名前が育てているのだろう、様々な種類のハーブや小さな花々が並んでいる。 「ここ、最近のお気に入りの場所なんだ。静かで、日差しが気持ち良いでしょう?」  名前はそう言って、繊細な細工の施されたティーカップに、琥珀色の液体を注いでくれた。カモミールとレモングラスの爽やかで優しい香りが、ふわりと鼻孔を擽る。 「……ああ、落ち着くな」  俺は素直な感想を口にした。体育館の喧騒や、寮の慌ただしさとは無縁の、穏やかな時間がここには流れている。 「良かった。賢二郎が来るから、今日は特別に、賢二郎が一番リラックスできるブレンドにしてみたんだ」  名前は悪戯っぽく微笑んで、自分のカップを手に取った。その言葉の一つひとつが、俺の心をじんわりと温めていく。  暫く、他愛のない会話が続いた。合宿中の出来事、学校のこと、新しく見つけた面白い本の話。名前は相変わらず、こちらの意図を汲み取れているのか不安になるような、不思議な角度からの返答を時として寄越したが、それもまた彼女らしい。  ふと、名前が俺の左手をじっと見つめていることに気が付いた。 「賢二郎の手、やっぱり大きいね」  そう言って、名前は自分の右手を、俺の左手にそっと重ねた。俺の手のひらにすっぽりと収まってしまう、小さくて華奢な手。その指は驚く程に冷たい。 「……お前のが小さ過ぎなんだよ」  俺はぶっきら棒に返しながらも、その冷たさが気になり、無意識に彼女の指を自分の指で包み込んでいた。 「ふふ、そうかな。でも、賢二郎の手に包まれていると、凄く安心するんだ」  名前は嬉しそうに目を細め、重ねた手に少しだけ力を込める。その仕草が、どうしようもなく愛おしい。 「ねぇ、賢二郎」  名前が不意に真剣な眼差しで、俺を見上げた。 「今日は、賢二郎を独り占めしてもいい日、でしょう?」  その言葉は問い掛けのようでいて、有無を言わせぬ決定事項のようにも聞こえた。名前の深い色の瞳が、俺の答えを待っている。  独り占め、か。その言葉の響きに、俺の胸の奥で燻っていた独占欲が、呼応するようにじわりと熱を帯びていくのを感じた。 「……当たり前だろ。今日一日、俺はお前のものだ」  口から滑り出た言葉は、自分でも驚く程に素直で、少しだけ甘ったるい響きをしていたかもしれない。だが、後悔はなかった。名前の顔が、ぱあっと花が咲いたように明るくなるのを見て、それで良いのだと確信した。 「うん、嬉しいな。じゃあ、早速だけれど……賢二郎の匂いが欲しい」 「……は?」  予想の斜め上を行く彼女の言葉に、俺は思わず間の抜けた声を漏らした。  名前は悪びれる様子もなく、にこりと微笑む。 「賢二郎がいつも着ているジャージとか、練習着とか。それを抱き締めて寝たいんだ。そうすれば、賢二郎が傍に居なくても、賢二郎を感じられるでしょう?」  その、余りにもストレートで、或る意味では純粋過ぎる要求に、俺は言葉を失った。確かに合宿中は会えなかった。その寂しさを埋めたいという気持ちは理解できる。だが、その方法が……。 「……別に、俺が傍に居てやればいいだけだろ、それなら」  気づけば、そんな言葉が口を衝いて出ていた。しまった、と思ったが、もう遅い。名前の目が期待に満ちた光で、きらりと輝いた。 「本当? じゃあ、今夜、泊まっていってくれるの?」 「……っ、いや、そういう意味じゃなくて……」  慌てて否定しようとするが、名前はくすくすと楽しそうに笑うだけだ。 「ふふ、冗談だよ。でも、賢二郎の匂いがするものは、本当に欲しいな。賢二郎を独占する為の、大切な口実だから」  そう言って、名前は俺の着ているTシャツの裾を遠慮がちに小さく摘まんだ。その仕草に、俺の理性のタガがまた一つ、音を立てて外れるのを感じる。  独占する口実、ね。  そんなもの、わざわざ用意しなくても、お前はとっくに俺の全てを独占しているというのに。  俺は溜め息を一つ吐くと、名前の冷たい指先に自分の指を絡め、ぐっと引き寄せた。不意の行動に、名前の小さな身体がバランスを崩し、俺の胸の中にすっぽりと収まる。 「……賢二郎?」  驚いたような、それでいて、どこか甘えたような声が耳元に届く。 「匂いなら、幾らでも付けてやるよ。お前が満足するまで」  俺は名前の髪に鼻を埋め、その甘い香りを深く吸い込んだ。細い肩を抱き締めると、彼女は安心したように、俺の胸にそっと頬を擦り寄せる。  ああ、駄目だ。この温もり、この匂い、この存在そのものが、俺にとっては何よりも抗い難い。  思春期特有の、なんて言葉で片付けられない程に強烈なこの感情は、きっと一生消えることはないのだろう。  窓の外では、穏やかな午後の陽光が、俺たち二人を優しく包み込んでいる。  名前を独占する口実。そんなものはきっと、俺の方こそがずっと探し求めていたのかもしれない。そして、今、この腕の中に、その確かな答えを見つけた気がした。  十七歳の休日は、まだ始まったばかり。そして、この愛しい少女を独占する為の時間は、無限に広がっているように感じられた。