春の日、静かな部屋で――好きな人と過ごす"今日だけ"の特別な黄昏時が、痛い程に愛しくて苦しい。
Title:愛の苦しみ
苗字家のマンションに着いた時、外はすっかり春の黄昏に包まれていた。
高層階にある部屋の窓からは、淡い桃色のグラデーションが西の空一面に広がり、やがて訪れる夜の気配を静かに告げているのがよく見える。その窓枠はまるで、一枚の絵画を切り取った額縁のようだった。
佐久早聖臣はその静謐な景色を背にして、リビングの中央に置かれた革張りのソファに深く腰を沈めていた。両の手は膝の上で固く組まれ、指先がきつく絡み合っている。その姿は、何か見えない重圧に耐えているかのようだった。
「……ちょっと待っていて。今、冷蔵庫のケーキを出すから」
キッチンの奥から、
名前の涼やかな声が届いた。それは普段と変わらない、どこか捉えどころのない、それでいて心地良い響き。
佐久早は返事もせず、ただぼんやりと高い天井を見つめていた。その視線はどこにも焦点を結ばず、虚空を彷徨っている。
"俺は、この場所が好きじゃない"
それが、偽らざる正直な気持ちだった。
別に、部屋が汚いとか、インテリアの趣味が合わないとか、そういう次元の話ではない。
寧ろ、この部屋はいつも塵一つなく整っていて、彼女自身の肌から香るのと同じ、微かに甘く清潔な香りが漂い、そして何より、外界の喧騒から完全に遮断されたかのように静かだ。佐久早が好む条件は、全て満たされている筈だった。
だけど、"他人の暮らし"の痕跡が、生活感という名の微細な粒子となって空間に満ちている、その事実そのものが、どうにも落ち着かないのだ。
例えば、ソファの肘掛けに無造作に掛けられた、彼女が愛用しているらしいカシミアのストール。玄関の隅に、主の帰りを待つ忠犬のようにちょこんと置かれた、履き慣れた様子のフラットシューズ。洗面所の鏡の奥に並べられた、小さなガラス瓶に入った髪留めや、彼女の白い肌を思わせる乳白色の香水瓶。
――その一つひとつが、些細な生活の断片が、"彼女がここへ帰っていく"という、佐久早にとっては残酷なまでの現実を、無言の内に雄弁に物語ってしまう。
つまり、"自分はここに永遠に居ていい存在じゃない"という事実を容赦なく、ひしひしと突き付けてくるのだ。
「……お待たせ」
その声で、はっと意識が現実へと引き戻された。
振り返ると、
名前が小振りなホールケーキを載せた白い陶器の皿を手に、静かに立っていた。
白い皿の上には、クラシックな佇まいのチョコレートケーキ。艶やかな表面を覆うのは、甘さを極限まで抑えた濃厚なガナッシュで、その上には夜空に散る星屑のように、繊細な金箔が惜し気もなく散らされている。
「……ちゃんと、お店で予約しておいた。臣くん、手作りは余り得意じゃないでしょう?」
名前はそう言って、ケーキをローテーブルの上にそっと置いた。その所作の一つひとつが、精密機械のように無駄がなく、それでいてどこか儚げな優雅さを湛えている。
「……ありがと」
辛うじて、それだけを口にする。感謝の言葉の筈なのに、自分の声がやけに乾いて、感情が抜け落ちているように聞こえた。
「うん。……あ、ロウソクはどうする?」
名前が小首を傾げながら尋ねる。その無邪気な問い掛けが、今の佐久早には何故か、鋭い棘のように感じられた。
「要らない。……燃えるから」
ぶっきら棒に答えると、
名前は小さく、くすりと笑った。
その笑い声が余りにも普段通りで、屈託がなくて、佐久早は何故か胸の奥がきゅっと、強く締め付けられるような思いがした。
彼女は今、なんの躊躇いもなく、自分の家に"家族以外の誰か"を迎えている。
当たり前のようにキッチンに立ち、ケーキを運び、皿を並べ、そして、ごく自然に会話を交わす。
だけど、自分は――その、彼女にとってはごく当たり前の日常風景に、どうしても馴染むことができない。この空間に漂う、自分以外の"誰か"の気配が、息苦しい程に濃密に感じられてしまうのだ。
「……今日だけって言っただろ」
不意に、そんな言葉が口を衝いて出た。自分でも、何を言っているのか分からない。ただ、胸の内で渦巻く、形容し難い感情の塊をどうにかして吐き出したかった。
「うん?」
名前が不思議そうに、佐久早の顔を見つめる。その夜色の瞳はどこまでも深く澄み渡っていて、こちらの心の奥底まで見透かしてしまいそうだ。
「……ペアルック。今日だけ、って。……でも、お前のその言い方、なんか、……狡い」
そう。
名前はいとも簡単に"特別"という言葉を与える。
それが、佐久早にはどうしようもなく怖かったのだ。
特別なんて、そんなに簡単に、軽々しく使うべき言葉じゃないのに。
じゃあ、明日は? 来年は? もし、この先、自分よりもっと強くて、もっと優しくて、人混みの中でも堂々と彼女の手を引いて歩けるような、そんな男が現れたとしたら? その時、彼女は同じように、その男にも「今日だけは特別」と微笑むのだろうか。
「俺、……もうちょっと、強ければいいのに」
不意に、そんな弱音が堰を切ったように零れ落ちてしまった。
口に出した瞬間、自分でも驚く程に苦く、情けない響きを帯びているように感じられた。
「……強いよ。臣くんはいつも逃げないし、言葉を誤魔化さない。わたし、それが凄いと思う」
名前は静かに、しかし、きっぱりとした口調で言った。その言葉には、一片の嘘もお世辞も含まれていないことが、痛い程に伝わってくる。
「そういう問題じゃない。……お前、優しいから、なんでも包み込んでくれるけど、……俺、それに甘えてるだけで……本当は、全部、……怖いんだ」
沈黙が重く部屋に落ちる。
ローテーブルの上、チョコレートケーキの表面に映る、二人の歪んだ影。それが、今の佐久早の心の内を表しているかのように、淡く、頼りなく揺れていた。
「怖くても、わたしのこと、好きでいてくれる?」
その言葉に、佐久早は思わず顔を上げた。
名前の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。揺らがない、けれど、どこか苦しげな光を宿した、深い夜の海のような瞳。
「……当たり前じゃん」
漸く、言えた。
掠れて、途切れ途切れになりながらも、紛れもない本心だった。
この苦しみの正体は、結局のところ、"彼女を愛している"という、その揺るぎない事実そのものだったのだ。
自分はこのどうしようもない感情から、もう決して逃れることはできないし、そもそも、もう逃げる気なんて、とっくの昔に失くしてしまっている。
「じゃあ、……一緒に食べよう。今日だけじゃなくて、これからもずっと、こうやってお祝いしていけるように」
名前の表情が、ふわりと和らいだ。その声には、確かな安堵の色が滲んでいる。
「……泣くなよ?」
佐久早は照れ隠しのように、ぶっきら棒に言った。
「泣いてない。……でも、涙は出るかも」
名前の唇の端に浮かんだ笑みは、どこまでも柔らかく、そして美しかった。
その笑顔がまた、佐久早の心を甘く、深く締め付けた。
――ああ、なんでこんなに、好きなのに苦しいんだろう。
でも、この息が詰まるような苦しささえも、多分、俺はもう、愛してしまっている。
佐久早はそっと、ケーキに添えられた銀色のフォークを手に取った。
そして、チョコレートの表面を傷付けないように、慎重に小さく削った一片を、隣に座る
名前の口元へと、躊躇いがちに差し出した。
「……まずは、俺より、お前が食え。今日だけは、俺の方が好きでいたいから」
それは、彼なりの最大限の愛情表現であり、そして、どうしようもない独占欲の表れだった。
「……臣くん、そんなことを言いながら、わたしのことを見ていないよ」
名前の声が、微かに震えているのに気づいた。
「……見たら、……多分、泣く」
佐久早は俯いたまま、そう呟いた。
「うん。わたしも、多分、泣く」
二人で一つのケーキを分け合いながら、その濃厚なチョコレートの味と、微かにビターな後味を、ちゃんと、心の奥底に刻み込むように味わった。
この"甘くて、どうしようもなく苦しい"瞬間が、いつか終わってしまわないようにと、そう願いながら。
春の陽は静かに落ちていき、部屋の中には、ただ二人の微かな息遣いと、フォークが皿に触れる小さな音だけが響いていた。