誕生日の夜、甘く静かに溶けていく、触れ合う温度と二人の心。

Title:とろけるような時間
 チョコレートケーキの最後の欠片が、名残惜しげに銀のフォークから名前の唇へと運ばれ、濃厚なガナッシュと微かな苦味が口内に溶けていくのを、佐久早聖臣は複雑な思いで見守っていた。先程までの胸を抉るような苦しさは鳴りを潜め、代わりに微熱を伴うような、甘やかな倦怠感が全身を包み始めている。 「……美味しかったね」  名前が満足気に息をつき、空になった皿をローテーブルの隅へそっと押しやった。その仕草は、大切な儀式を終えた神官のように静かで、厳かですらあった。  やがて部屋のメイン照明が落とされ、壁際に置かれたフロアランプの間接照明だけが、空間を淡い琥珀色に染め上げた。窓の外はとっぷりと暮れ、漆黒のキャンバスには無数の光点が散りばめられている。それは遠くに広がる街の巨大な地図のようで、一つひとつの灯りが誰かの営みを暗示しているかのようだった。  この部屋だけが、外界の喧騒から切り離された、特別な聖域のように感じられる。  佐久早は革張りのソファに深く身を沈めたまま、その夜景から視線を外せずにいた。隣には、同じように窓の外を眺める名前の気配。先程までの、どこか張り詰めていた空気は消え失せ、今はただ穏やかで満ち足りた静寂が二人を包んでいる。  ふと、佐久早がソファの背に僅かに上体を傾けると、待っていたかのように、名前の柔らかな頭が彼の肩にそっと寄り掛かった。シャンプーと、彼女自身の匂いが混じり合った、清潔で微かに甘い香りが鼻腔を擽る。それは佐久早にとって、どんな高級な香水よりも心を落ち着かせる、唯一無二の香りだった。  二人の間には、会話はなかった。  けれど、それは気まずい沈黙などではなく、寧ろ言葉を必要としない、満ち足りた無言だった。肩に感じる名前の髪の感触、伝わってくる仄かな体温、そして、すぐ傍で繰り返される穏やかな呼吸のリズム。それだけで、お互いの気持ちが静かに通じ合っているような気がした。この感覚は、佐久早にとって初めて経験するものであり、戸惑いと共に抗い難い心地良さを齎していた。 「……眠くなってきた?」  佐久早が低く囁くように問うと、名前が肩口で小さく首を横に振った気配がした。 「ううん。……でも、溶けてしまいそう」  その声は温められた蜂蜜のようにとろりと甘く、柔らかで、言葉の意味そのものよりも、その音色が直接、佐久早の心の奥深くに染み込んでくるようだった。 「何が?」  聞き返しながらも、佐久早はその答えを何となく予感していた。 「時間も、わたしも。……それから、臣くんも」  矢張り、と思った。この少女は時折、こんな風に人の心の最も柔らかな部分を的確に見抜き、それを詩的な言葉で表現する。佐久早は黙って、指先をそっと名前の髪に差し込んだ。絹糸のように滑らかで、ふわりとした手触り。香水とも柔軟剤ともつかない、彼女だけの、佐久早を安心させる匂いが濃密に立ち上る。  そのまま、毛先を梳くようにゆっくりと指を通しながら、佐久早は自分の鼓動が常よりも速く、力強く脈打っていることに気づいた。平静を装ってはいるものの、こうして彼女に触れているだけで、心臓は正直に、その存在を主張するように音を立てる。 「……お前さ」  不意に、言葉が口を衝いて出た。 「ん?」  名前が猫のように小さく喉を鳴らして応える。その無防備な声がまた、佐久早の胸を締め付けた。 「俺のこと、どのくらい好き?」  言ってから、柄にもないことを口走ったと、僅かに後悔した。だが、一度口から出てしまった言葉はもう取り消せない。それに、今日は自分の誕生日なのだ。このくらい、聞く権利はあるだろう、と半ば開き直るような気持ちで、彼女の答えを待った。  くすり、と名前が肩を震わせて笑った気配がした。 「……答え難いことを訊くね、臣くんは」  その声には、困惑よりも面白がっているような響きが含まれている。 「いいから答えろ。今日は、俺の誕生日だ。……聞く権利、あるだろ」  少しだけ語気を強めて促すと、名前は小さく息を吸い込み、一拍置いてから静かに、けれど、確かな響きで言った。 「……そうだね。……居なくなったら、とても困るくらい。居てくれたら、息がし易くなるくらい。……触れてくれたら、泣きそうになるくらい、好きだよ」  佐久早は、何も言えなかった。  喉の奥がきゅう、と強く締め付けられるような感覚に襲われ、呼吸が僅かに浅くなる。それなのに、何故か目頭の奥がじんわりと熱を帯びてくるのを感じた。言葉にできない感情が、濁流のように胸の中で渦巻いている。それは喜びとも、安堵とも、或いはもっと別の、名付けようのない何かだった。 「……お前、本当……狡い」  漸く絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れていた。 「知っているよ。でも、臣くんだけには、特別に狡くしてもいいでしょう?」  悪戯っぽく、しかし、どこまでも真摯な響きを伴って、名前が囁く。その言葉が、佐久早の最後の砦をいとも容易く崩していく。 「……甘やかすな。俺が、溶ける」  それは本心からのSOSであり、同時に、もっと甘やかされたいという矛盾した願望の表れでもあった。  名前がふわりと微笑む気配がして、肩口から彼の胸元へと、ゆっくりと体重を移動させる。佐久早はその華奢な身体を反射的に、しかし、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。腕の中に収まる温もりと柔らかさが、現実のものとは思えない程に甘美で、彼の理性を少しずつ侵食していく。  耳元に唇を寄せ、殆ど吐息に近い声で囁いた。 「……俺、お前に触れると、頭の中、全部、ぐちゃぐちゃになる」  それは普段の彼からは想像もつかない程、率直で無防備な告白だった。 「うん。……わたしも、だよ」  名前の声もまた、熱っぽく震えている。 「なのに、やめられない。ずっと、こうしていたい」  独占欲と純粋な愛情が入り混じった、切実な願い。 「……いいよ。やめなくて」  その許しは魔法の呪文のように、佐久早の心を解き放った。  唇が重なるよりも先に、もうそれは始まっていたのかもしれない。  体温と体温が触れ合い、溶け合い、心臓の鼓動と鼓動が、一つのリズムを刻むかのように同期していく。  佐久早は先ず、名前の柔らかな頬にそっと唇を押し当てた。次に震える瞼へ。そして、最後に、僅かに開かれた甘い吐息を漏らす口唇へと、吸い寄せられるように自身のそれを重ねた。  確かめるように、味わうように。けれど、どこまでも優しく、丁寧に。  ソファの上で絡め合った手は、決して強く握り締めたりはしない。けれど、その繋がれた掌から伝わる温もりは、心の芯まで蕩けてしまいそうなくらいに深く、確かだった。  ――こんな夜が、ずっと続けばいい。  ――彼女が眠りに就き、そして、朝、目覚めた時も、まだこうして、この腕の中に居てくれたら――  そう願ってしまうこと自体が、自分がどれ程までに深く、この苗字名前という存在を愛してしまっているのかを、雄弁に物語っていた。  潔癖で人混みを嫌い、常にマスクで自身を覆っていた自分が、今、何の躊躇もなく彼女の肌に触れ、その温もりを求め、その存在なしでは生きられないとすら感じている。この変化は、佐久早自身にとっても驚くべきことであり、同時に抗い難い幸福感を齎していた。  間接照明の淡い光の中で、二人の影がゆっくりと一つに重なっていく。  窓の外に広がる無数の灯りが、祝福のキャンドルのように滲んで見えた。  蕩けるような夜だった。  甘く、静かで、時折、胸を締め付ける程に苦しくて、けれど、どうしようもなく優しい――そんな時間が、確かにここに存在していた。佐久早聖臣の十七回目の誕生日は、彼の人生において、永遠に忘れられない、温かく、甘美な記憶として刻まれたのだ。