甘い夜の記憶が、チャイム一つで転がり落ちていく。
Title:若い二人
ソファの上には、まだ二人分の確かな余熱が、そこに見えないインクで『先程まで誰かが居た』と書き残したかのように、執拗に残っていた。俺はキッチンで温め直した紅茶を二つのカップに注ぎ、ローテーブルの上にそっと置く。カチャリ、と陶器が触れ合う小さな音だけが、部屋の静寂に吸い込まれていく。
開け放たれたベランダの窓から、春の夜の少し冷えた風が忍び込み、薄手のカーテンを悪戯っぽく揺らした。
名前はソファの端で、予め用意していたらしい柔らかなブランケットにすっぽりと包まりながら、俺の隣にぴたりと身体を預けている。その重みがさっきまでの、全身の細胞が蕩けてしまいそうな熱っぽい時間を鮮明に蘇らせて、俺の耳の奥がじわじわと、確実に熱を帯びていくのが分かった。
「……不思議だね」
名前が、猫が喉を鳴らすような、擽ったい声で呟いた。
「なにが?」
俺の声は自分でも驚く程、穏やかに響いた。さっきまでの昂ぶりが嘘だったみたいに。
「こんなに落ち着くの。……臣くんの誕生日なのに、わたしの方が甘やかされている気がする」
そう言って、
名前は俺の肩口に頭を乗せる。シャンプーの清潔な香りと、彼女自身の甘い皮膚の匂いが混じり合って、俺の思考を心地良く麻痺させていく。
「……お前は存在がプレゼントみたいなもんだから」
口から滑り出た言葉は、我ながらどうかと思う程に甘ったるかった。
「うわぁ……甘い」
名前がくすくすと肩を揺らす。その振動が直接伝わって、また胸の奥が変な音を立てそうになる。
「お前が言わせたんだろ」
俺はぶっきら棒に返しながらも、顔が熱くなるのを止められない。互いに照れたようにふっと目を逸らして、どちらからともなく小さな笑い声が漏れた。
この、どうしようもなく満たされた時間。永遠に続けばいい、なんて、らしくないことを本気で願ってしまった、その時だった。
ピンポ――――ン。
間抜けな電子音が、夜の静寂を鋭く切り裂いた。
俺は一瞬、思考がフリーズした。
このタイミングで、チャイム?
宅配便? ……こんな時間だが、可能性はある。何か、届く予定があったのだろうか。
隣で、
名前も不思議そうに柳眉を寄せ、ゆっくりと立ち上がった。その動きは、まるで美しいスローモーション映像を見ているかのようだ。彼女が玄関前のモニターを確認し、次の瞬間――
「……え?」
と、普段の彼女からは想像もつかない程、素っ頓狂で間抜けな声が漏れた。
俺も思わず立ち上がり、
名前の肩越しにモニターを覗き込む。
そこに映っていたのは、男だった。
派手でも地味でもない、と言うより、そのどちらのベクトルからも逸脱した、絶妙にセンスの欠片も感じられない奇抜な配色のフリースベスト。その下には、どうやったらそこまで見事なシワを刻み込めるのか不思議な程に草臥れたコーデュロイパンツ。
髪は何故か鳥の巣のようにぼさぼさで、肩には使い込まれた取材用らしき大きなカメラバッグが斜めに掛けられている。
顔の雰囲気はどこか、
名前に似ている。いや、見覚えがある。この男は――
「……え、兄貴じゃん」
俺の口から、呆然とした呟きが漏れた。
「……どうして? 泊まりだって言っていたのに。取材で新潟に行くって……」
名前の声は困惑に揺れ、その視線が助けを求めるように、俺に向けられる。俺は取り敢えず、玄関のドアにそっと目をやった。
いや、別に疚しいことはしていない。断じて。していない……筈だ。だが、この状況は、どう考えても気まずい。非常に気まずい。
反応がないことに痺れを切らしたのか、ガチャリ、と鍵の開く音がして、ドアが外側へゆっくりと開いた。
「ただいまー……って、おや、居るね、聖臣くん」
現れたのは、モニターで見た通りの男――
苗字兄貴。
名前の兄貴だった。その手には、コンビニの袋らしきものがぶら下がっている。
「……居ますけど」
俺は努めて平静を装って答えたが、声が僅かに上擦ったのを自覚した。
「なんだか、若い二人で、しっとり夜を過ごしてる感を出しているけれど、ごめんね、ちょっとトラブルがあって、ついでに忘れ物を取りに戻ったんだ。すぐに出るから。安心して続けて」
続けて、ってなんだ。何をだ。
俺が内心で毒づいていると、
名前が呆れたような、それでいてどこか諦観を滲ませた表情で兄を見上げた。
「ねぇ、兄さん。その服はどうしたの?」
「ん? これかい? 新潟は寒いだろう? でも、それを失念していてね、駅で慌てて買ったんだけど……ダメ?」
兄貴さんは、自分の着ている衝撃的なフリースベストを、それが最新モードであるかのように誇らしげに広げてみせる。
「ダメと言うか、なんか……凄い……」
名前の言葉は賞賛ではなく、純粋な困惑と若干の恐怖を含んでいるように聞こえた。
「この服について、否定的な意見を持たれたのは、
名前で三人目だよ。最初は喫茶店のバイトの子で、二人目は駅のホームで目が合った女子高生」
兄貴さんは偉業を成し遂げたかのように淡々と告げる。
「……記録するの、やめて」
名前が疲れたように呟いた。
俺は、このどうしようもない気まずさと、不謹慎ながら込み上げてくる可笑しさと、その他、よく分からない感情の奔流を必死で押し殺しながら、手元にある紅茶のカップから立ち上る、頼りない湯気に視線を落とした。
若い二人の、甘く蕩ける夜――
それは、コンセントを無理やり引っこ抜かれた最新家電みたいに、唐突に、無慈悲に現実へと引き戻された。
兄貴さんはリビングに入ると、どさりとカメラバッグを床に置き、その中をゴソゴソと漁り始めた。何かを探しているらしい。
「……まぁ、若い二人だからね。少しくらい、イチャイチャしてもいいけれど。ちゃんと避妊はするんだよ」
不意に、そんな爆弾発言が、天気の話でもするかのように軽やかに投下された。
俺は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになるのを、寸でのところで堪えた。
「……イチャイチャ前提で話を進めるの、やめてくれませんか。と言うか、そういうデリカシーの欠片もない発言を、今、この状況で、しかも、俺の前で平然と言えるその神経が、正直、信じられないんすけど」
思わず普段よりも早口で、若干棘のある声が出てしまった。潔癖とはまた別の次元で、こういう無神経さは我慢ならない。
兄貴さんは、俺の抗議などどこ吹く風といった様子で、カメラバッグから古びた手帳を取り出しながら、ふと顔を上げた。
「俺、こう見えて、君のファンだから。
名前を大事にしているのは、知ってるよ」
その言葉は、先程までのふざけた口調とは打って変わって、どこか真摯な響きを帯びていた。その真剣な眼差しに、俺は初めて、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「それに、俺の妹は、割と面倒臭いからね。真面目に愛さないと、すぐに拗ねるだろうね」
兄貴さんが悪戯っぽく笑うと、
名前がむっとしたように頬を膨らませた。
「兄さんに言われたくない」
そのやり取りに、小さな笑い声が夜の部屋に満ちる。俺もつられて、鼻で小さく、フンと笑ってしまった。
思えば、この日も――
今日という一日は、俺の誕生日であり、
名前との"ペアルック"という気恥ずかしい記念日であり、そして、蕩けるように甘い時間を過ごした夜だった。
それが、こんな嵐のような兄貴の登場で、一気にコメディタッチのドタバタ劇へと転調してしまったワケだが。
それでも、きっと何年経っても、この夜のことは、俺の中で"若い二人の夜"として、強烈なインパクトと共に記憶に残り続けるに違いない。
奇跡のように甘く、どうしようもなく騒がしくて、それでもやっぱり、堪らなく愛おしい時間だったのだから。