唯一無二の彼女と迎える誕生日。
"ペアルック"に隠された、甘い敗北の記録。
三月二十日。春分の日。
一点の翳りもない紺碧の空が、どこまでも高く澄み渡っている。そんな完璧なまでの青空の下、佐久早聖臣は駅前のカフェの軒先で、そこに根を下ろしたかのように佇んでいた。両の手はスプリングコートのポケットに深く突っ込まれ、その存在を少しでも希薄にしようとするかのように、ガラス張りの柱が作り出す僅かな影に身を潜ませている。
降り注ぐ陽光は春にしては刺すように強く、医療用グレードのマスク越しに、じりじりと頬が熱を帯びてくるのが不快な程に分かった。だが、この内側から込み上げるような熱感は、決して長閑な春の陽気の所為だけではない。佐久早の内で燃え盛る、もっと厄介で抗い難い種類の熱だった。
……まだ来ないな。いや、あの女のことだ、きっと時間きっかりを狙って現れるに違いない。
どちらにせよ、雑踏を病的なまでに忌み嫌う佐久早にとって、この状況は針の筵以外の何物でもなかった。引っ切り無しに流れゆく人々の無遠慮な視線が、粘着テープのように貼り付いては剥がれていく。その度に、皮膚の表面を微細なガラス片で擦られるような苛立ちが募り、もう本当に耐え難いと云う言葉ですら生温い程の苦痛が全身を苛んでいた。
それもその筈だ、と佐久早は内心で毒づいた。今日の自身の装いは、全身を漆黒で統一したミニマルなスプリングコート。その下に覗くのは、夜陰に咲く月下美人のように淡い藤色の花が一輪、どこか儚げでありながらも微かな毒気を孕んで咲き誇るデザインのTシャツ。
――そして、この悪趣味なまでに意匠を凝らされたTシャツを身に着けたもう一人の人間が、この喧騒の向こうから姿を現す筈なのだ。
「……あれは……」
ふと途切れた人波の狭間に、見慣れた、それでいて、常に新鮮な衝撃を伴うシルエットが浮かび上がった。
薄い黒、しかし、佐久早のものとは微妙にカッティングの異なるスプリングコートの裾を春風に翻し、陽光を浴びて絹糸のような光沢を放つ髪をリズミカルに揺らしながら、こちらへ向かってくる少女の姿。
苗字名前。
幾度となく目にし、その網膜に焼き付けている筈の顔。それなのに、こうして彼女の姿を捉える度、意思とは無関係に心臓が不規則な律動を刻み始める。自律神経が機能を放棄したかのような、甘美で制御不能な昂ぶり。
風を孕んでしなやかに流れる髪は、陽光を反射して、ダイヤモンドダストのようにきらきらと光の粒子を散らし、その奥にある磨き上げられた古白磁のように白い肌と、春先の繊細な花弁を思わせる淡く柔らかな唇の色合いを、より一層鮮烈に、残酷なまでに美しく際立たせている。
――正に、"俺だけの"秘蔵の美術品。この世の誰の目にも触れさせたくない、俺だけがその真価を識る、至上の宝。
「お待たせ。臣くん、誕生日おめでとう」
凛として澄み渡りながらも、どこか幼さを残す柔らかな声と共に、
名前は佐久早の目の前でふわりと足を止め、控えめに、しかし、確かな喜悦を込めて微笑んだ。その立ち姿は一本の黒百合のように無駄がなく、孤高の気品を漂わせている。
だが、佐久早の視線は、彼女の顔から吸い寄せられるように滑り落ち、コートの前が僅かに開いたその隙間――そこに咲く、一輪の藤色の花に釘付けになった。予想通り、そして、心の奥底で渇望していた通り、彼が着ているものと寸分違わぬ意匠の花が、そこには在った。
「……来たのか、ほんとに、その格好で」
絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れ、隠しようのない動揺の色を帯びていた。
「勿論。だって、"今日だけ"って決めていたから」
名前はそれが世界で最も当然のことであるかのように、事もなげに言ってのける。そう、その通りだった。
"今日だけ"と云う抗い難い魔法の呪文を盾に、このペアルックと云うとんでもなく気恥ずかしい提案をしてきたのは、他の誰でもない、
名前自身だったのだ。
正直なところ、佐久早は全力で、断固として拒否するつもりだった。無駄に人目を引くことなど、彼の潔癖な精神にとっては苦痛以外の何物でもない。しかし、「今日だけだから」と静かに念を押され、更に畳み掛けるように、「わたしの誕生日は何も要らないから、臣くんの日だけ、お願い」と、あの静謐で、けれど、有無を言わせぬ不思議な引力と芯の強さを秘めた声で告げられてしまっては、彼に否やを唱える術など、最初から残されていなかったのだ。
彼女の声はいつだって、真冬の湖面のように冷たく澄み渡っている。それなのに、その言葉の端々からは抑え切れない程の強い純粋な感情が、地底から湧き出すマグマのようにじわりと滲み出してくるのだ。
独占欲も、好意も、その他、あらゆる剥き出しの感情が一切の濁りも淀みもなく、計算も知らぬままの熱量で真正面からぶつかってくる。だから、佐久早が強固な程に築き上げた心の防壁も、彼女のその純粋な暴力の前では砂糖菓子のように脆く、あっさりと崩壊してしまうのだった。
「似合ってる?」
小動物のように小さく首を傾げ、
名前が問い掛ける。その計算のない無垢な仕草が、佐久早の胸の奥の柔らかい部分を容赦なく抉り、甘い痛みを与える。
「……うん。ヤバい。……可愛い」
殆ど呻くようにして絞り出した言葉は、自分でも呆れる程に陳腐で語彙力に乏しく、だが、紛れもない本心だった。
言った傍から、佐久早は全身の血が沸騰し、顔面に集中するような強烈な羞恥に襲われ、激しく後悔した。
「ヤバい」だの、「可愛い」だの、そんな在り来たりで深みのない言葉を自分が口にすると、どうしてこうも間抜けな響きを帯びてしまうのだろうか。自意識が過剰な所為か、それとも単に語彙が貧困なだけか。どちらにせよ、耳の裏側から首筋に掛けてが焼けるように熱く、マスクで顔半分が隠れていて本当に良かったと、心の底から安堵した。
――畜生、なんで"お揃い"なんてものは、こんなにも理性を吹き飛ばす程の破壊力があるんだよ……。普段なら絶対に選ばない、寧ろ積極的に忌避する行為の筈なのに。この抗い難い高揚感は一体、何なんだ。
「今日はね、兄さんが珍しく、朝から泊まりがけで取材旅行に出掛けているから、うちでゆっくりしていってもいいんだよ」
不意に、
名前がそんな爆弾を投下した。
「……は?」
佐久早の思考回路が一瞬、ショートしたかのように停止する。
「ケーキも買ってあるし、
弟も、今日は部活の合宿で来ないって連絡があったし。だから……ね?」
悪戯っぽく細められた、夜の深海を連想させる双眸が、佐久早の目をじっと見つめる。その視線が絡み合ったほんの一瞬に、目の前の彼女が何を意図し、何を期待しているのか、その全てが電流のように鋭く、鮮明に読めてしまって、佐久早は深く、どこか疲れたような、諦観にも似た長い息を吐いた。いや、これは決して溜め息ではない。
ほんの少しの――抗い難い、むず痒いような嬉しさに混じった、甘美で全面的な敗北宣言のような、そんな息遣いだった。
「……うん、行く。行くよ」
殆ど無意識に頷くと、
名前の表情が暗闇に灯った蝋燭の炎のように、ぱっと柔らかく花開いた。
「わたし、今日の為に、ちゃんとシーツも替えておいた」
追い打ちを掛けるような、しかし、
名前にとっては純粋な事実の報告なのだろうその言葉に、佐久早は一瞬、呼吸を忘れた。
「その報告、今、このタイミングで必要だった?」
辛うじてそれだけを返すと、
名前はきょとんとした顔で、一片の迷いもなく小さく頷いた。
「うん。だって……臣くん、そう云うの、凄く気にするでしょう?」
ドクン。
まただ。心臓が肋骨の内側で大きく、鈍い音を立てて跳ね上がった。まるで意志を持った生き物のように。
いつも思うことだが、この
苗字名前と云う少女は、人の最も無防備で柔らかな急所を的確に容赦なく突いてくるのが、天才的に上手い。そこに悪気や計算、男女間の駆け引きといったものが一切介在しない分、その恐ろしい程にストレートな純粋さが、狡いくらいに強力で抗い難い魔力になるのだ。思春期特有の現象が、じわりと下腹部を熱くする。
「…………」
言葉が出ない。ただ、
名前の真っ直ぐで吸い込まれそうな瞳を見つめ返すことしかできない。その奥に揺らめく、自分への絶対的な信頼と期待を感じて、息が詰まる。
「……ねぇ、手は繋ぐ?」
暫しの沈黙を破ったのは、矢張り
名前だった。微かな期待に震える声が、佐久早の鼓膜を優しく揺らす。
「やだ。人が多過ぎる。菌が気になる」
即答だった。それは譲れない一線だ。潔癖症とはまた別の、彼自身の侵されたくない聖域の問題だ。
「じゃあ……袖を貸して」
ほんの少しだけ残念そうに柳眉を寄せた
名前だったが、すぐに唇の端に小さな笑みを浮かべて、代替案を口にした。その決してめげない健気さがまた、佐久早の心のガードをいとも容易く甘くする。
「……いいけど。汚すなよ。絶対」
ぶっきら棒な口調は常の通りだが、その奥には隠し切れない、自分でも戸惑う程の優しさと承諾の色が滲んでいた。
「うん、分かってる。気を付ける」
嬉しそうに、花が綻ぶように微笑むと、
名前はそっと、驚く程に白く細い指を伸ばし、佐久早の黒いスプリングコートの袖を、壊れ易い薄氷に触れるかのように優しく掴んだ。
服の布一枚を隔てて伝わる、確かな熱。それは紛れもなく、
名前の小さな手の温もりだった。
たったそれだけの、ささやかな接触。それだけなのに、脳の奥深く、一番敏感な神経の束を直接愛撫されたかのような、強烈で甘美な幸福感が全身を瞬く間に駆け巡り、頭の芯から爪先までが心地良く痺れていく。
"ペアルック"――ほんの数分前まで、佐久早聖臣にとってのそれは、無駄に"目立つ"ことを強要される、忌むべき苦行でしかなかった筈だ。煩わしさの象徴でしかなかった。
けれど、今はどうだ。この全身が、彼女と寸分違わぬデザインの服を身に纏い、彼女と"揃っている"と云う、ただその事実だけで、言いようのない、胸が締め付けられるような充足感に満たされている。世界中の誰が何と言おうと、この瞬間、このささやかな繋がりこそが、彼にとっての全てだった。
春分の日の柔らかな陽射しが、二人を等しく、祝福するように照らし出す。
渇いたアスファルトの上には、二人分の影が長年連れ添ったかのように似た形で寄り添い、くっきりと並んで伸びていた。
――これは紛れもなく、俺の誕生日であり、
――そして、今日、この瞬間から永遠に忘れ得ぬ、"俺達の"掛け替えのない記念日になったのだ。