誕生日の雨の夜、勇気と魔法が重なった。

名前の祖父が登場します。
 七月九日、月曜日。空は煮詰めた水銀のように重たく垂れ込め、湿った空気が肌に纏わり付く。今日が黄金川くんの誕生日だと知ったのは、先週の金曜日。偶然、校内で耳にした、彼の友人達の会話からだった。その瞬間から、私の頭の中は彼のことで飽和状態に陥っている。  今朝、教室の扉を開けた彼を見つけるなり、心臓が大きく跳ねた。練習で焼けた肌に、色素の薄い髪がよく映える。いつもみたいに「お早う!」と快活な挨拶をクラス中に響かせる彼に、私は人知れず吸い寄せられるように近づいた。 「黄金川くん、お早う。あのね、お誕生日、おめでとう」  蚊の鳴くような声だったかもしれない。けれど、彼は190センチを超える長身を少し屈めて、大きな瞳をぱちくりさせながら、私の言葉を丁寧に拾い上げてくれた。 「えっ!? あ、ありがとうございますッ! 苗字さん! よく知ってたね!?」 「う、うん。ちょっと……」  黄金川くんの驚きと喜びが混じった、太陽みたいな笑顔。それだけで、私の心臓は容量オーバーを起こし掛け、用意していたプレゼントを渡すタイミングを完全に見失ってしまった。スクールバッグの底で、小さなラッピング袋が所在なげにしている。  放課後、美術室の窓から、体育館へ向かう彼の背中を見送った。テーピングで白くなった指先、誰よりも真摯にバレーボールと向き合う、大きくて、不器用で、直向きな背中。スケッチブックを開けば、いつの間にか彼のデッサンで埋まっているページがある。線の練習だと言い訳するには、余りにも想いが滲み過ぎていた。 (どうしよう。このままじゃ、渡せないまま一日が終わってしまう)  帰り道、ぽつり、ぽつりと冷たい雫がアスファルトに染みを作り始めた。傘を持っていなかった私は、少しだけ早足になる。雨粒は次第にその数を増やし、やがて世界は灰色のカーテンに閉ざされた。  我が家は、一階がブックカフェになっている。雨の日だけ扉を開く、祖父の道楽城、『雨滴文庫』。店の軒先で雨宿りをしていると、中からカラン、と軽やかなドアベルの音と共に、珈琲の香ばしい匂いが漂ってきた。 「おや、名前。ずぶ濡れじゃないか。風邪を引くぞ」 「ただいま、お祖父ちゃん」  先程まで、カウンターの向こうでサイフォンを操っていたらしい祖父は、銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、私を見た。この祖父は、私のことなら何でもお見通しだ。人の弱味を探すのが得意な私でさえ、この飄々とした老人には敵わない。 「何か悩み事かい。その顔は、まるで賞味期限切れの牛乳を飲んでしまった猫のようだ」 「……酷い言い草だね」 「図星だろう。ほら、これを飲みなさい。『溜め息のミルクセーキ』だ。お前の憂鬱を甘く溶かしてくれる」  差し出されたグラスには、淡いミントグリーンの液体が満たされている。一口飲むと、優しい甘さと爽やかな香りが口いっぱいに広がった。美味しい。けれど、胸の奥のもやもやは晴れない。 「……渡したいものがあるのに、渡せない人が居るの」 「ふむ。それは恋の悩みと云うやつかな」 「ち、違う! そう云うのじゃ……」 「そうかい? ならいいんだがね。だが、名前。どんなに面白い書物でも、開かねば一行も読めんだろう。どんな贈り物も、渡さねばただの荷物だ」  祖父の言葉が、雨音に混じって心に染み込んでいく。私が俯いていると、彼は悪戯っぽく笑った。 「夜に渡せばいい。夜には不思議な力が宿る。謂わば、ミッドナイトマジックさ。魔法が、お前の背中を押してくれるかもしれんぞ」  ミッドナイトマジック。なんてロマンチックで、少しだけ胡散臭い響きだろう。でも、今の私は、その魔法に縋ってみたいと思ってしまった。  夕食を終え、部屋の窓から外を眺める。雨はまだ、しとしとと降り続いていた。時計の短針が九時を指した頃、私は震える指で携帯電話を手に取った。アドレス帳から彼の名前を探し出し、深呼吸を一つ。 『黄金川くん、今晩は。今、大丈夫かな?』  送信ボタンを押してから、心臓が早鐘を打つ。迷惑じゃなかったかな。もう寝ているかもしれない。不安が胸を渦巻いた、その時。  ブブッ、と携帯が震えた。画面に表示された、黄金川くんの名前。返信は驚く程に速かった。 『苗字さん!? 大丈夫! 全然大丈夫! どうかした!?』  その勢いのある文面に、思わず笑みが零れる。私はもう一度、今度は少しだけ大胆になって、文字を打ち込んだ。 『少しだけ、家の前まで来てもらえたりしないかな。渡したいものがあって』 『すぐ行く!!!!!!!!』  感嘆符の数に、黄金川くんの性格が滲み出ている。私は小さなプレゼントの袋を握り締め、階下へと駆け下りた。  『雨滴文庫』の店仕舞いは疾うに終わっていたけれど、祖父の計らいか、軒先のアンティークなランプだけが灯されていた。オレンジ色の柔らかい光が、雨に濡れた石畳を幻想的に照らし出している。雨音だけが支配する静かな世界で、私は一人、彼の到着を待った。  やがて、遠くから水を蹴立てる音が聞こえ始めた。ザッ、ザッ、ザッ、と力強い足音。闇の中に、大きな傘を揺らしながら走ってくる、見慣れたシルエットが浮かび上がる。その姿が近づくにつれて、私の心臓の音は降り頻る雨声に負けないくらい、大きく、速くなっていく。  魔法に掛かってしまう。本当に。
「うおおおおおおしっ!!!」  部活終わりの自主練。二口先輩に「お前はまず基礎だ、基礎!」と怒鳴られながらも、納得のいくトスが上がるまで、作並くんに何度もボールを出してもらった。体育館に響くボールの音、バレーシューズのスキール音、仲間達の声。これが俺の日常で、俺の世界の全てだ。  汗だくの身体をタオルで拭き、制服に着替えて帰路に就く。七月九日。俺の誕生日。朝、クラスで苗字さんに「おめでとう」と言われた瞬間、俺の脳内サーバーは完全にフリーズした。あの、苗字さんが。俺の誕生日を知ってて、祝ってくれた。それだけで、今日と云う日は人生で最も輝かしい記念日になった。カツ丼よりも、どんな勝利よりも、価値のある出来事だ。 (苗字さん……めちゃくちゃ可愛かったな……)  思い出すだけで、顔が熱くなる。柔らかそうな髪、少し困ったように下げられる眉、透き通るような声。美術部の彼女は、俺みたいな汗臭い運動部とは住む世界が違う。それでも、時々目が合うと、はにかむように笑ってくれる。それだけで、俺は校庭を100周できるくらいのエネルギーが湧いてくるんだ。  雨が降る中、家に着いて飯を食い、妹に「兄ちゃん、ニヤニヤしててキモい」と罵られながらも、今日の出来事を反芻していた、その時だった。  携帯が震えた。  画面に光る『苗字 名前』の文字。俺は「うおっ!?」と奇声を発し、ベッドから転げ落ちた。 『黄金川くん、今晩は。今、大丈夫かな?』  大丈夫か、じゃない! 大丈夫過ぎる! 何なら、今から富士山に登ってご来光を拝めるくらい元気! 指が震えるのを必死に抑え、光の速さで返信する。 『苗字さん!? 大丈夫! 全然大丈夫! どうかした!?』  すると、すぐにまた返信が来た。その内容に、俺の心臓はスパイクよりも激しくコートに叩き付けられた。 『少しだけ、家の前まで来てもらえたりしないかな。渡したいものがあって』  渡したいもの? 俺に? 苗字さんが?  思考が追いつかない。だけど、身体は正直だった。 『すぐ行く!!!!!!!!』  俺は部屋着のままであることにも構わず、玄関から傘を引っ掴んで外へ飛び出した。雨粒が顔に当たって冷たい。でも、心臓はマグマみたいに熱かった。  苗字さんの家は知っている。何度か、偶然を装って近くを通り掛かったことがあるからだ。雨の日だけ開くと云う、お洒落なブックカフェ。その店の前で、彼女は待っていてくれた。  オレンジ色のランプの光に照らされた彼女は、まるで物語の挿絵から抜け出してきたようだった。降雨の夜の静寂の中で、苗字さんだけが鮮やかに色づいて見える。余りの光景に、俺は思わず足を止めて息を呑んだ。 「っ、苗字さん……!」 「あ、黄金川くん。ごめんね、急に呼び出して」  彼女は少し恥ずかしそうに俯きながら、小さな紙袋を、俺の前にそっと差し出した。 「これ、あの……遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼント。大したものじゃないんだけど……」  受け取った袋は、雨の所為で冷たくなった俺の手には、信じられないくらい温かく感じられた。中を覗くと、上質なハンドクリームと、小振りなキーホルダーが入っていた。キーホルダーは手作りだろうか。デフォルメされた俺が、慣れないツーアタックを決めようとしている。でも、そのフォームはちょっとぎこちなくて、簡単に拾われてしまいそうだ。正に練習中の、カッコよく決められない俺そのものだった。 「…………ッ!」  声が出ない。言葉が、どこかへ吹っ飛んでしまった。俺の指が、いつもテーピングだらけなことも、セッターの練習を始めたばかりなことも、カッコよくツーアタックを決められなくて悩んでいることも、苗字さんは見ていてくれたのか。俺の、誰も気にしていないような悩みまで。 「あの、黄金川くん? 気に入らな、かった……かな?」  不安そうに揺れる彼女の瞳に、俺はハッと我に返った。違う! そうじゃない! 「い、いやッ! めちゃくちゃ嬉しい! 嬉しいですッ!! ありがとうございますッ!!! 一生の、いや、来世までの宝物にしますッ!!!!!」  俺は、自分でも驚く程の大声で叫んでいた。その声は静かな住宅街に響き渡り、苗字さんはビクッと肩を震わせた後、堪え切れないと云った風に、ふわりと花が綻ぶように笑った。 「ふふっ、大袈裟だよ、黄金川くん」  その笑顔に、俺の心臓は完全に撃ち抜かれた。ああ、駄目だ。これは、もう駄目だ。好きだ。どうしようもなく、好きだ。 「あの、苗字さん!」 「うん?」  雨音と、彼女の優しい声だけが聞こえる。プレゼントを、心臓を守るようにぎゅっと握り締める。告白なんて、そんな器用なこと、現状の俺にはできない。だから、今の俺に言える、精一杯の想いを。 「俺、もっと強くなる! まずは絶対にレギュラーになって、伊達工のセッターとして、コートに立ってみせる! どんなボールでも上げられるようになって、ブロックも、ツーアタックも、全部、完璧に決めてみせる! だからッ! だから、見ててほしいッス!」  これは誓いだ。そして、俺なりの不器用過ぎる告白だった。  俺の言葉を、苗字さんは真っ直ぐな瞳で受け止めてくれた。そして、静かに、はっきりと頷いた。 「うん。見てるよ」  一瞬の間。 「ずっと」  そのたった一言が、どんな魔法の呪文よりも強く、深く、俺の魂を揺さぶった。  ミッドナイトマジック。お祖父さんの言う通りだ、と後から彼女に聞いた。でも、俺にとっての本当の魔法は、降り頻る雨でも、レトロなカフェの灯りでもない。  目の前で、少し頬を染めて微笑んでいる、苗字さんそのものだ。 (俺、この子を、絶対に幸せにする……!)  十六歳になったばかりの夜。雨音に包まれて、俺は固く心に誓った。まだ蕾のままのこの恋が、いつか大輪の花を咲かせるその日まで。俺は走り続ける。君が見ていてくれるから。