Past Story.

 七月六日、金曜日。梅雨の晴れ間から射し込む西陽が、美術室の床に長い影を落としていた。放課後の静寂を切り裂くのは、木炭が画用紙を擦る乾いた音と、遠く微かに聞こえるボールの弾む響きだけ。私の意識は、その残響の方、窓の外の景色へと、何度も引き寄せられてしまう。  スケッチブックの上に置いた左手は、いつの間にか動きを止めていた。視線の先には、体育館の入口から見える、躍動する影。中でも一際大きい、太陽を弾く髪のシルエットに、磁石のように吸い寄せられる。黄金川くん。彼の練習風景をこうして盗み見るのが、最近の秘密の習慣になっていた。  画帳を捲れば、言い訳のように描かれた石膏像デッサンの間に、黄金川くんの姿が挟まっている。ボールを目指して跳躍する背中、真剣な眼差しでトスを上げる横顔、悔しそうに天を仰ぐ大きな身体。線の練習、と言い聞かせるには、余りにも克明で、執拗に一挙手一投足を追い掛けてしまっている。この感情に名前を付けたら、私はきっと美術室から逃げ出したくなるだろう。  部の活動が終わり、画材を片付けていると、外から賑やかな声が聞こえ始めた。体育館から出てきた、バレー部員達のようだ。私は慌てて窓から身を隠し、息を潜める。心臓が、天敵から見つかりそうな小動物のように速く脈打った。 「来週の月曜、黄金の誕生日じゃん!」 「マジか! アイツ、もう16かよ」 「なんかやる? やっぱ、カツ丼奢るのが、一番喜ぶんじゃねえの?」  不意に耳へ飛び込む会話。黄金……黄金川くんの誕生日。来週の、月曜日。  その情報が鼓膜を震わせた瞬間、私の世界から音が消えた。代わりに頭の中でありとあらゆる思考が、猛烈な勢いで渦を巻き始める。プレゼント、どうしよう。何をあげたら、喜んでくれるだろう。抑々、私なんかが渡して、迷惑じゃないかな。  思案の洪水に溺れながら、私はふらふらと昇降口を抜け、バス停へと向かっていた。黄金川くんの指が、殆どテーピングで白くなっていること。セッターとして、まだ不慣れな手つきでボールを扱っていること。ツーアタックが上手く決まらず、誰よりも悔しがっていること。私の特技である"人の弱味探し"はいつしか、彼の些細な特徴や悩みを拾い集める為のアンテナに変わっていた。 「……あ」  ハッと我に返った時、眼前を通り過ぎるバスのテールランプが、夕闇に赤く滲んで見えた。いつも乗る時間に、完全に乗り遅れてしまったと気づく。  スマートフォンの画面をタップし、時刻表を確認する。次のバスは二十分後。辺りはもう、群青色の夜に支配され始めている。心細さがじわりと胸中に広がり、私は近くの駅まで歩いて、地下鉄で帰ることを決意した。知らない夜道を一人で行くのは、少し怖い。けれど、今はそれ以上に、黄金川くんに渡す誕生日プレゼントのことで頭がいっぱいだった。
「だから、モーションがデカいんだよ、お前は! 相手に『今から、ツー打ちまーす!』って宣言してんのと同じだ!」 「ウッス! 肝に銘じますッ!!」  自主練が終わり、二口先輩からの有り難いダメ出しを胸に刻みながら、俺は作並くんと帰路に就いていた。今日の練習も課題だらけだ。でも、それがいい。強くなる為の道筋が見えるってことだからな。 「黄金川君、また明日」 「おう! また明日ッス、作並くん!」  途中で作並くんと別れ、一人で駅へと向かう。汗が引いた肌に、夜風が心地良い。晩飯は何だろうか。カツ丼だったら最高だな、なんて考えていた、その時だった。  前方を見慣れた制服の女子が、独りでとぼとぼと歩いている。こんな時間に一人で? 外灯の頼りない光が、細いシルエットを照らし出していた。  え、まさか。  俺は目を凝らした。柔らかそうな髪、華奢な肩。間違いない。クラスメイトの、苗字さんだ。 (ど、どうしよう……!)  思考回路が一瞬でショートした。声を掛けるべきか? いや、俺みたいなデカい運動部の男が、急に後ろから話し掛けたら、怖がらせてしまうんじゃないか? でも、もし、何かあったら……? 俺の中の正義感と羞恥心が、激しい鬩ぎ合いを始める。グルグルと悩んでいる内に、苗字さんとの距離はどんどん縮まる。 (ええい、ままよ!)  漢がここで引いて、どうする! 「っ、苗字さんッ!?」  自分でも裏返ったと分かる、情けない発声だった。  彼女はビクッと肩を揺らして振り返る。電灯の明かりを受けた双眸が驚きに見開かれ、次いで、俺の姿を認めると、ふっと安堵の色が浮かんだ。その表情の変化だけで、俺の心臓は無許可でバック転を始めた。 「こ、黄金川くん……」 「こんな時間に、一人でどうしたんスか!? 危ないよ!」  事情を聞けば、バスに乗り遅れてしまったらしい。 「な、成程……。それなら、俺、駅まで送るッ! 絶対、その方が安全なんで!」  恐がられるか、断られたりしたら、校庭を100周する前に謝ろうと覚悟していたが、苗字さんは「……うん。ありがとう」と小さな声で頷いてくれた。その現実に、俺は天にも昇る気持ちだった。  二人、並んで歩く夜道。何を話せばいいのか、全く分からない。気まずい沈黙が、やけに重く感じられる。 「あ、あのっ! 苗字さんは美術部……その、絵とか、大変ッスか!?」  捻り出した質問は、自分でも呆れるくらいに陳腐だった。だけど、彼女は「ううん、楽しいよ。好きなことをしているだけだから」と鈴が鳴るような声音で答えてくれた。その返答を聞けただけで、部活の疲れがどこかへ吹っ飛んでしまった。  駅に着き、ホームに上がると、電光掲示板がチカチカと光っていた。そこに表示された文字を読み、俺は思わず声を張る。 「うおっ! もう直ぐ来る! 間に合って良かったッスね!」  金曜のこの時間は、待ち時間が少し長くなることもある。タイミングを逃していたら、次の便まで二十数分は覚悟しなきゃいけなかった。  ホームで電車を待つ、数分間。隣に立つ彼女のシャンプーみたいな甘い匂いが、ふわりと空気に乗って香り、俺は呼吸の仕方を忘れそうになる。心臓が煩くて、苗字さんにまで聞こえてしまうんじゃないかと、本気で心配した。
 ゴオオ、と地鳴りのような音を連れて、車体が滑り込んでくる。強い風が髪を攫い、私は反射的に目を細めた。ヘッドライトの眩い光が、私と黄金川くんを白く照らし出す。  黄金川くんが居てくれなかったら、私は暗い夜道を、一人で心細い思いをしながら歩いていたことだろう。彼の誕生日を知り、浮かれていた自分を少しだけ恥じた。けれど、そのお陰で、彼と二人きりの時間を得られたのも、また事実だった。  プシュー、と排気音を発し、ドアが開く。金曜の夜の車内は、座席も埋まり、立っている人も疎らな混み具合だった。私達は並んで、乗降口付近に陣取る。  ガタン、と鈍い響きが突き抜け、電車が揺れた、その瞬間だった。 「っ……!」  体勢を崩し掛けた私の腕を、大きな手がぐっと掴んで支えてくれる。見上げると、間近に黄金川くんの顔が在った。 「だ、大丈夫ッ!?」 「う、うん。ありがとう……」  黄金川くんは、私を受け止めた方とは反対の手で、素早く吊り革を握った。そして、私を自分の内側、つまり、彼と壁の間に、そっと囲う形で立たせてくれたのだ。まるで、慣れない満員電車に押し潰されないよう、守るみたいに。  黄金川くんの長身が、直ぐ背後に在る。制服越しに、鍛え抜かれた筋肉の硬さと、練習終わりの熱気が伝わるようだった。心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで鳴り響く。  カーブに差し掛かり、再び車体が傾いた時、私の後頭部は、黄金川くんの胸板へ完全に預けられる形となった。分厚い、びくともしない壁。衣服の上からでも分かる隆起した大胸筋と、揺れをものともしない強靭な体幹。これが、毎日のようにボールを追い、鉄壁を築き上げようとしている人の身体。 (頼りになる、体付き……)  スケッチブックの紙上で何度もなぞった、力強い背中。今は厚い胸が、私を人いきれと振動から守ってくれている。汗と石鹸が混じったような清潔な匂いが、ふわりと鼻先を掠めた。黄金川くんの心臓の鼓動が、私のものみたいに伝播する。ドクン、ドクン、と力強く、規則正しい律動。それは伊達工の守備に宿るリズムを連想させ、高鳴る心音を宥める子守唄にも似ていた。  何も話せない。言葉を発したら、震える声が届いてしまう。私は窓硝子にぼんやりと映る自分達の姿を、盗み見るように凝視していた。黄金川くんの大きなシルエットの中に、すっぽりと収まる小さな私。一枚の絵画みたいだ、なんて場違いなことを考えて、顔が増々熱くなる。ふと、彼の耳が灯りを反射して、ほんのりと赤く染まっている変化に気が付く。彼も、もしかしたら、少しは緊張してくれているのだろうか。細やかな発見が、張り詰めた心を僅かに解きほぐしてくれた。 「……ありがとう」  消え入りそうな声量で呟くと、背後の彼が「い、いや! 当然ッス!」と些か上擦った調子で答えた。そのぎこちなさが、とても愛おしく感じられた。  軈て、聞き慣れないアナウンスが、私の降りる駅名を告げる。名残惜しさが、波のように胸へ押し寄せた。電車がゆっくりと速度を落とし、ホームへと滑り込む。私はそっと、黄金川くんから身体を離し、「じゃあ、ここで……」と彼を見上げた。 「ウッス! あの、苗字さん!」 「うん?」 「気を付けて、帰って!」  真っ直ぐな瞳が、私だけを射抜いている。力強い眼差しに、短く首肯することしかできなかった。  ホームに降り立つと、閉まり掛けたドアの向こうで、黄金川くんが少しだけ気まずそうに、こちらを見守ってくれているのが見えた。走り出した車窓から、彼の姿が遠ざかっていく。あの体温が、私の背部に残っているような気がした。  家路を照らす外灯の下を、一人歩く。けれど、孤独ではなかった。先程まで、私を守ってくれていた、黄金川くんの大きな身体の感触を思い出す。 (決めた)  プレゼントは、いつも頑張っている彼の指を労わるハンドクリームにしよう。そして、もう一つ。私が一番好きな、少し不格好だけれど、誰よりも一生懸命な、黄金川くんのツーアタックのフォームを形にした、キーホルダーを作ろう。あの頼りになる全身で、ボールに想いを乗せる瞬間を、私の技術の全てで、小さなマスコットに凝縮させるのだ。  金曜の夜が運んでくれた、ささやかな奇跡。この温かい気持ちも全部を込めて、月曜日に必ず渡すのだ。 (私のことなんて、誰もちゃんと見ていない)  ずっと、そう思って生きてきた。教室の隅でスケッチブックを広げている、些か変わった、影の薄い生徒。それが、苗字名前と云う人物のパブリックイメージだと、自分でも理解していたから。  でも、黄金川くんは違った。彼は暗い夜道で、私のことを見つけてくれた。私を、只の一クラスメイトとしてではなく、「苗字さん」と云う一個の人間として認識し、心配してくれたのだ。  その事実が、じわりと氷を溶かすように、心の頑なな部分を解かしていく。 「……ううん、楽しいよ。好きなことをしているだけだから」  黄金川くんにそう答えた時の声が、頭の中で反響する。それは紛れもない本心だった。そして、私の「好きなこと」の中心には、紛れもなく彼が居る。彼の直向きな姿を、不器用なフォームを、部活でしか見せないであろう顔を、この目に焼き付け、紙の上に写し取ることが、何よりも満たされる時間になっていた。  プレゼントの構想が、より鮮明に浮かび上がる。  ハンドクリームは練習の邪魔にならないよう、強くない香りがいい。汗の匂いと混じっても爽やかに感じる、シトラスやミントのフレーバーはどうだろう。黄金川くんの大きな手に馴染む、やや固めのテクスチャーを探そう。  キーホルダーはプラ板で作ろうか、それとも、樹脂粘土がいいだろうか。デフォルメした彼の、特徴的な髪型を上手く再現できるかな。  軈て、見えてきた我が家、『雨滴文庫』。軒先に灯るアンティークランプの優しい光が、「お帰り」と瞬いているように映った。
Omake:黄金川貫至視点
 電車が揺れた瞬間、俺の身体は考えるより、先に動いていた。体勢を崩した苗字さんの腕を掴み、自分の内側に彼女を囲い込む。一連の動作は、ブロックに跳ぶ時よりも速かったかもしれない。 (……ち、近いッ!!!!)  脳内サーバーが、完全にショートした。胴体に、苗字さんの肢体が触れている。細くて、柔らかくて、簡単に折れてしまいそうな感触。ふわりと香る甘い匂いが、俺の思考回路を麻痺させる。  ヤバい。心臓の音が煩過ぎる。これ、絶対に聞こえてる! キモいって、思われてないか!? 俺は石像だ。俺は伊達工の鉄壁になる男。動かざること山の如し……!  必死に平静を装いながらも、耳に血が集まり、熱くなるのが分かった。きっと、茹蛸と化しているに違いない。  苗字さんが離れた時は、正直、ホッとした。これ以上の緊張状態が続けば、俺の心臓は間違いなく爆発四散していただろう。でも同時に、この時間が終わってしまうことに、胸の奥が締め付けられるような寂しさを感じた。  ホームに降りた彼女を見送りながら、「気を付けて、帰って!」と叫ぶのが精一杯だった。本当は「やっぱり、家まで送る!」と切り出したかったけど、そんなことをしたら、完全に不審者だ。  ドアが閉まり、電車が走り出す。一人になった途端、俺は大きく息を吐き出した。制服の胸辺りに、苗字さんの香りが微かに残っている気がして、思わず鼻を埋めそうになり、寸前で思い留まる。危ない。変質者になるところだった。  自宅の最寄駅で降り、ホームに立つ。  今日の出来事が、映画のワンシーンみたいに脳内再生される。暗い道で見つけた、苗字さんの姿。隣を歩いた時の緊張感。車内で支えた、柔らかな感触。 「うおおおおおおしッ!!!!」  俺は衝動のままに拳を突き上げ、夜空に向かって勝利の雄叫びを上げた。そうだ、さっきまでのひと時は、俺にとっては白星だ。或る意味、どんな試合よりも価値のある、大金星だ。俺は、苗字さんを守れたんだ。  帰り道、俺の口角は緩みっ放しだった。今の顔を妹に見られたら、「キモい」と三回は罵られるに違いない。それでも構わなかった。  来週の月曜日。俺の誕生日。  その日が、今日よりも、更に特別な一日になりそうな予感が、胸の中で熱く燃え上がっていた。  先ずは、二口先輩に指摘された、ツーアタックのモーションを修正する。そして、もっと正確なトスを上げられるようになる。強くなる。苗字さんを守れる、頼り甲斐のある男になる為にも。  十六歳になる前の、金曜の夜。電車が運んでくれた奇跡と、未来への誓いを胸に、俺は夜道を駆け抜けた。