電話越しの未来が、二人を結ぶ。
兄貴が登場します。
わたしが投げ掛けた言葉の爆弾が、静まり返ったリビングの空気に溶けていくのを、信くんの腕に抱かれたまま感じていた。彼の心臓が、驚きで大きく跳ねたのが、ぴったりと合わせた胸を通して伝わる。信くんの固まった表情を観察するのは、極上の娯楽だった。やがて、観念したように吐き出された「……ほんま、敵わんなあ、
名前には」と云う掠れた声は幸福の色を帯び、わたしの鼓膜を優しく揺らした。
あの時、わたしがどうして、信くんの"最近の悩み"を知り得たのか。その謎を、彼は必要以上に問い質さなかった。きっと、わたしのすること成すこと全てを、最終的には受け入れてくれるのだろう。彼のそう云う無条件の信頼が、わたしを時々、大胆な冒険へと駆り立てるのだ。
全ての始まりは、梅雨の雨音が初夏の訪れを告げ始めた、数週間前の放課後だった。
その日、わたしはふと純粋な好奇心に襲われた。わたしと居ない時の北信介くんは、一体、どんな顔をしているのだろう、と。彼が日々実践していると云う"反復・継続・丁寧"な日常を、この目で確かめてみたくなったのだ。
「
兄貴兄さん。わたし、面白いことを思い付いたんだ」
リビングのソファで、新作の構想を練っていた兄にそう告げると、兄さんは奇抜な漢字がプリントされた黒いTシャツの上で、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「ほう? どんなことかな、
名前」
「信くんを、尾行してみようと思う」
「……はは、最高じゃないか。実に独創的だ。何か面白い発見があったら、次回作の参考にするよ」
兄はいつだって、わたしの突飛な計画を面白がってくれる。兄さんの肯定は、わたしの背中を押すには充分過ぎる追い風だった。
決行は、わたしの部活動が休みになる、とある平日。わたしはクローゼットの奥から、普段は着ることのないボーイッシュなパーカーとデニムパンツを引っ張り出し、髪をキャップの中に隠した。鏡に映る自分の姿が、探偵ごっこに興じる子供のようで、思わず口許が綻ぶ。
校門を出て、家路に就く信くんの背中を、一定の距離を保ちながら追跡する。彼の歩みは、急ぐでもなく、緩慢なわけでもない、完璧なリズムを刻んでいた。道端に落ちている空き缶を拾って、近くのゴミ箱へ捨てたり、重そうな荷物を抱えたお年寄りに「持ちますか?」と声を掛けたり。彼の善行は、誰かに見せる為のものではなく、呼吸をするのと同じくらい自然な所作だった。その一つひとつが、わたしの心をじわりと温める。わたしが好きになった人は、こんなにも真っ直ぐで、清廉な人なのだ。
見慣れた帰り道から少し外れ、彼が昔ながらの商店街へ足を向けた時だった。信くんはふと立ち止まり、懐から携帯電話を取り出した。誰かと話すらしい。わたしは咄嗟に、八百屋の軒先に積まれた、段ボールの陰に身を潜めた。心臓が、先程とは違う種類の緊張で高鳴る。
夕陽が彼の銀髪を淡い金色に染め上げている。電話口に向ける彼の横顔は、わたしやチームメイトと話す時とは違う、もっと柔和で、無防備な色をしていた。
「……うん、バァちゃん。今、帰りや」
その声を聞いた瞬間、わたしの世界から、周囲の雑音が消え去った。信くんの声だけが、クリアに鼓膜へと届く。
「練習、ちゃんとやっとるよ。昼飯も食うとる。……いや、結婚式は、まだ早いわ。気ぃ早過ぎるで」
少し困ったように眉を下げ、信くんは通話を続ける。その表情の変化から、目が離せない。
「……分かっとるけど。相手もおる事やしな。……うん。……うん、そうやな。……今から、そんな楽しみにされても困るわ、ほんま」
照れ臭そうに、慈しむように紡がれる言葉の断片。それを繋ぎ合わせた時、わたしの中で、一つの答えが形になった。信くんの"悩み"の正体。それは、愛するお祖母様からの、未来に対する期待。
その瞬間だった。
わたしの見ていた世界が、一瞬で変容したのだ。
今まで、信くんとの未来を想像しなかったわけではない。でも、それはどこか輪郭のぼやけた、淡い夢のようなものだった。しかし、彼の口から零れた「結婚式」と云うキーワードを聞いた途端、その夢は鮮烈なリアリティを伴って、わたしの目の前に立ち現れた。
世界が輝きを増した。八百屋の店先に並ぶトマトの赤が、夕焼けの橙が、信くんの髪の銀色が、今まで見たどんな色彩よりも鮮やかに、わたしの網膜を焼いた。彼の悩みが、わたしにとっては未来への招待状のように思えた。彼の困惑は、わたしにとっては甘美な約束の響きを持っていた。
そうなんだ。信くんは、わたしとの未来を、家族から期待される程、真剣に考えてくれている。その事実が、わたしの心を歓喜で満たし、打ち震わせた。この甘い秘密を、彼の特別な日に、最高のプレゼントとして渡そう。そう、心に決めたのだ。
回想の海から、意識が浮上する。
一人きりの部屋は、がらんとして静かだけれど、心細くはない。ローテーブルの上に置かれた、信くんが名残惜しそうに外した手編みのマフラーに、そっと指先で触れた。上質な毛糸の柔らかな感触。
些細な好奇心から始まった秘密の冒険は、結果として、掛け替えのない宝物を与えてくれた。信くんが隣に居るだけでも色鮮やかだった世界は、今や幸福と云う名の光で満ち溢れている。
不意に、机上のスマートフォンが短く震えた。ディスプレイに表示された『北信介』の名前に、心臓がきゅっと縮こまる。
『今日は、ほんまにありがとう。ケーキ、めちゃくちゃ美味かった。
名前が居ってくれるだけで、最高の誕生日や。マフラー、冬に着けて会いに行くの、今から楽しみにしとる。おやすみ、
名前』
飾り気はないけれど、心の籠もった言葉達。その一文字ずつが、わたしの胸に温かいインクのように染み込んでいく。
わたしは返信する代わりに、ただ一言、心の中で囁いた。
(わたしもだよ、信くん。信くんの花婿姿を、世界で一番楽しみにしている)
窓の外では、満月がスポットライトのように、この幸せな部屋を照らしていた。来年の彼の誕生日には、どんなサプライズを仕掛けようか。そんなことを考えながら、わたしは甘い余韻に包まれて、ゆっくりと瞳を閉じた。信くんと繋がる未来が、もう待ち切れない。