手編みのマフラーが導いた、夏の昼下がりの密やかな誓い。
兄貴が登場します。
信くんの誕生日が過ぎ去った翌日。リビングの空気には、昨夜の祝祭の甘い残滓が、まだ微かに溶け残っていた。二人で飾り付けた歪なケーキの糖分と、彼の体温が混じり合った、幸福そのものみたいな匂い。わたしはソファに深く身を沈め、ローテーブルの上に鎮座する一つの物体に視線を注いでいた。
信くんが忘れていった、手編みのマフラー。
静電気を嫌う彼の為に選び抜いた、滑らかな手触りの毛糸。それを一目一目、信くんのことを想いながら編み上げた、わたしの時間の結晶だ。昨晩、少し照れながらもそれを首に巻き、「あったかいわ」と微笑んだ彼の顔が脳裏に蘇り、胸の奥がきゅう、と甘く絞られる。本当に、どうしようもなく可愛い人。
手の中のスマートフォンが、控え目な光を放っている。ディスプレイに映し出されたのは、信くんが帰宅して直ぐに送ってくれたメッセージだった。
『今日は、ほんまにありがとう。ケーキ、めちゃくちゃ美味かった。
名前が居ってくれるだけで、最高の誕生日や。マフラー、冬に着けて逢いに行くの、今から楽しみにしとる。おやすみ、
名前』
飾り気のない、実直な言葉の連なり。けれど、その数行から、信くんの誠実な心が滲み出ているようだった。わたしは保存フォルダにそのメールを仕舞い、指で何度も文字列をなぞる。画面を撫でているだけなのに、彼の声が聞こえてくる気がした。冬を楽しみにしている、と云う彼が、肝心のマフラーを置き忘れていく。完璧な彼が見せる、そんな僅かな綻びが堪らなく愛おしい。
わたしは、ゆっくりと立ち上がった。
この温かい忘れ物を届けに行こう。そして、今日も、信くんの顔が見たい。只、それだけの理由で、わたしの足は玄関へと向かっていた。
「おや、
名前。今日は、どこかへお出掛けかな?」
リビングの扉が開き、ひょっこりと姿を現したのは、
兄貴兄さんだった。本日の兄が纏っているのは『概念的空間把握』と云う、哲学的なのか否か、判断に困る文字列が胸元に鎮座しているTシャツだ。
「うん。少し、出掛けてくる」
「ほう? その手に持っているのは、昨夜の戦利品かい?」
「戦利品じゃなくて、信くんの忘れ物だよ。届けに行こうと思う」
紙袋に入れたマフラーを軽く掲げてみせると、兄さんは「成程」と愉快そうに口角を上げた。
「昨夜の熱情が、忘れ物と云う名の、運命の赤い糸を手繰り寄せたわけだね。実にドラマチックだ。信介くんに、宜しく伝えておくれ。次の小説のテーマは、『忘れられた温もりは、愛の道標』にしようかな」
「……兄さんの発想は、いつも独創的だね」
呆れるでもなくそう告げると、兄さんは満足気に頷いた。わたしは「行ってきます」と小さく言い残し、夏の眩しい光の中へと、一歩踏み出した。
電車に揺られ、見慣れた町並みが遠ざかっていく。やがて、窓の外を流れる風景が、信くんの暮らす長閑な景色へと移り変わる。彼の日常が根付いている土地。その空気を吸い込むだけで、心臓が期待に弾むのを感じた。
地図アプリを頼りに辿り着いたのは、立派な瓦屋根を持つ、静かな佇まいの日本家屋だった。生垣は綺麗に刈り込まれ、玄関先には季節の花が控え目に咲いている。この家全体が、北信介と云う人間そのものを体現しているようだった。
門柱に掲げられた『北』の表札を見上げ、わたしはごくりと息を呑む。信くんの聖域に、足を踏み入れてもいいのだろうか。逸る気持ちとは裏腹に、インターホンへと伸ばす指先が微かに震えた。
その頃、北信介は畳の上で、昨夜の出来事を反芻していた。
午前練を終え、祖母の作ってくれた昼餉を"ちゃんと"食べ、自室に戻ったところだった。障子を開け放った縁側の向こうには、手入れの行き届いた庭の緑が広がっている。ちりん、と風鈴が涼やかな音を立て、けたたましい蝉時雨が夏の到来を告げていた。
(……最高の誕生日やったな)
脳裏に浮かぶのは、愛しい恋人の姿ばかりだ。
二人で粉塗れになって作ったケーキ。北の口許に悪戯っぽく生クリームを運んだ、
名前の艶やかな指先。頬を寄せ合い、蝋燭の炎を吹き消した瞬間の甘い空気。北の耳元で囁かれた、あの爆弾発言。
『わたしもね、凄く楽しみにしている』
祖母が孫の結婚式を心待ちにしている、と云う悩みを、何故、
名前が知っていたのか。そんな疑問よりも先に、彼女が自分と同じ未来を見つめている事実が、北の心を幸福で満たし、打ち震わせた。思い出すだけで、顔にじわりと熱が集まる。あかん。反復・継続・丁寧。気持ちを落ち着かせなければ。そう思えば思う程、
名前の柔らかな唇の感触や、華奢な肢体の温もりが鮮明に蘇り、年頃の男子高校生である北の身体は正直な反応を示し始めていた。
「……落ち着け、俺」
ぶつぶつと呟き、深呼吸を繰り返していた、その時。
ふと、昨夜の記憶の片隅にある違和感に気が付いた。
名前から貰った、大切なマフラー。確かに受け取って、一度は首に巻いた。しかし、その後の記憶がない。暑いからと外して、彼女に預けたままだったか。
「……アホやな、俺は」
最大のプレゼントを、恋人の家に置き忘れて帰るなど、一生の不覚だ。すぐ連絡して、今日にでも取りに行かなければ。そう思い、携帯電話に手を伸ばした瞬間だった。
ぴんぽーん、と間の抜けた電子音が、静かな家屋に響き渡った。
誰やろか。訝しみながら玄関へ向かい、引き戸をがらりと開ける。
そこに立っていたのは、北の心を今まさに掻き乱していた、その張本人だった。
「……
先頭文字、
名前……?」
北は己の目を疑った。白いワンピースを纏った彼女は、夏の強い陽射しの中で、陽炎のように儚くも圧倒的な存在感を放っていた。
名前の背後で揺れる木々の緑が、彼女の透き通る程の肌の白さを一層際立たせている。
「こんにちは、信くん。忘れ物、届けに来たよ」
そう言って、
名前はふわりと微笑み、上品な紙袋を彼に差し出した。
北の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。まさか、
名前の方から。俺の家に。思考が追い付かず、只、呆然と彼女を見つめることしかできない。
「……あ、……上がってき」
漸く絞り出した声は、自分らしくない程に上擦っていた。
名前を自宅に招き入れると、炊事場から姿を現した祖母が、ぱあっと顔を輝かせた。
「まあ!
名前ちゃんやないの! よう来てくれたなあ」
「ご無沙汰しております、お祖母様。突然お邪魔して、申し訳ありません」
「ええんよ、ええんよ。信ちゃんが、いつもお世話になっとります」
「いえ、こちらこそ。信くんには、いつも助けて頂いて……」
丁寧にお辞儀を交わす二人を、北は落ち着かない心地で見守る。祖母は「すぐ冷たい麦茶、持ってくさかいな。ささ、上がって」と満面の笑みで言い、嬉しそうに台所へと戻っていった。
客間に通された両者の間に、暫しの沈黙が流れる。縁側の向こうから聞こえる蝉の合唱だけが、やけに大きく響いていた。
「……ありがとう、
名前。態々、すまんかったな」
北は紙袋からマフラーを取り出し、柔らかな感触を確かめるように、そっと指で撫でた。
「ううん。どうせなら、早く渡したかったし」
「……」
「それに、」
名前は言葉を切り、真っ直ぐな眸で、北を見つめた。夜の海を想起させる彼女の双眸に射抜かれ、北は息を呑む。
「信くんに逢いたかったから」
その一言が、北の中に辛うじて残っていた理性の箍を、粉々に打ち砕いた。
気づけば、北は彼女の華奢な手を取り、その肢体をぐっと引き寄せていた。
「……っ、信くん、」
「俺もや」
掠れた声で、それだけを告げる。
「俺も、
名前に逢いたかった」
祖母が戻ってくるかもしれない、と云う思考は、もう脳の片隅にもなかった。只、目の前の愛しい存在を、求めるままに。
重なった唇はひんやりとした麦茶の味などではなく、夏の熱を帯びた甘い味がした。
遠くで聞こえる祖母の足音に、はっと我に返った二人が慌てて身体を離したのは、僅か数秒後のことだった。
忘れ物がくれた、予期せぬ昼下がりの密会。祖母の淹れてくれた麦茶を飲みながら、北は繋いだままの
名前の左手が、自分と同じくらいの熱度を持っていることに気づき、どうしようもなく込み上げる愛おしさにそっと瞼を伏せたのだった。来年の誕生日も、その先もずっと、この温もりを隣で感じていたい。心の中で、北は静かにそう誓っていた。