誕生日の炎に託した、未来へのささやかな祈り。

兄貴の描写が含まれます。
 わたしのカレンダーに、赤いインクで二重丸が付けられた今日、七月五日は、世界で一番大切な人の誕生日だ。  じりじりと肌を焼く太陽がアスファルトを温め、気怠げな熱気が教室の窓硝子から忍び込む。窓の外では、入道雲が空という名の画用紙の上で、その巨大な体躯をゆっくりと膨らませていた。まるで、これから始まる祝祭を、天までもが祝福しているかのよう。わたしの心も、あの雲のように期待で膨らんで、授業の内容なんて右から左へと通り抜けていく。先生、ごめんなさい。本日のわたしの頭の中は、初めての恋人、北信介くんのことで埋め尽くされているのです。  放課後のチャイムが、開演のブザーのように鳴り響いた。わたしは誰よりも早く教室を飛び出す。時間の流れが縮まるわけではないけれど、逸る気持ちを抑え切れなかったのだ。  信くんの部活が終わるのを待つ為、紫陽花が静かに色づく、体育館裏の小道へと足を運ぶ。湿った土の匂いと、雨上がりの花々の甘い香りが混じり合う。ここで彼を待ち受けるのは、いつしかわたしの習慣になっていた。  暫くして、体育館の扉が開く音が聞こえ、聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。 「侑、治。お前ら、モップ掛けもちゃんとせぇ。角名、隅っこサボんな」  凛とした、どこか温かみのある声音。わたしの信くんだ。彼の指示を耳にしただけで、胸の奥がきゅんと鳴る。やがて、チームメイト達の賑やかな挨拶に見送られながら、銀色の髪を夕陽に煌めかせた彼が、こちらへ向かってくるのが見えた。 「名前、待たせたな」 「ううん、待っていないよ。お疲れ様、信くん」  汗で濡れた彼の髪糸が、額に張り付いている。わたしはミニタオルを取り出して、そっと彼のおでこの湿り気を拭った。信くんは少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐにふわりと表情を和らげる。この、普段の彼からは想像もつかない程の柔らかな微笑みを独り占めできるのが、わたしの特権だ。 「……ありがとう。帰ろか」 「うん」  並んで歩く帰り道。二人分の影が、オレンジ色に染まった地面の上で長く伸び、時折、重なり合う。蝉時雨が、わたし達の恋のBGMみたいに降り注ぐ。わたしは、やや前を歩く広い背中を見つめた。稲荷崎高校男子バレーボール部を主将として束ねる、頼もしい後ろ姿。けれど、わたしだけが知っている。この背中が、時々甘えるように、わたしに寄り掛かってくることを。  わたしの住むマンションに着くと、信くんはいつも通り、少しだけ居住まいを正した。何度来ても、この無駄に広い空間に慣れないらしい。 「お邪魔します」 「どうぞ。今日は兄貴兄さんも居ないから、二人きりだよ」  そう言うと、信くんの耳がほんのり赤く染まった。本当に可愛い人。  リビングを通り抜け、システムキッチンが鎮座する広々としたスペースへ、彼を誘う。 「信くん。ここからが本番だよ」  わたしがエプロンの紐を締めながら告げると、彼はきょとんとした顔で首を傾げた。 「本番?」 「うん。今日はね、信くんの誕生日ケーキを、信くんと一緒に作るんだ」  わたしの計画を聞いた彼は、一瞬ぽかんとした後、堪え切れないと言うように「ふはは!」と笑った。信くんのこんな風に屈託なく笑う素顔が、わたしは大好きだ。 「俺がケーキを? そら、楽しみやなあ」 「わたしもだよ。信くんはきっと、何でも"ちゃんと"やってくれるでしょう?」 「当たり前や。反復・継続・丁寧。ケーキ作りかて、同じやろ」  信くんはそう答えて、丁寧に手を洗い、よし、と気合を入れるように軽く腕を回した。夏用の短い袖口から覗く、筋張った前腕に視線が吸い寄せられ、心臓がとくん、と跳ねる。いけない、いけない。今日は彼の誕生日を祝う日なのだから、邪な気持ちは仕舞っておかないと。  ケーキ作りの工程は、想像以上にスリリングな冒険だった。  まず、鶏卵を割る。わたしがやると、必ずと言っていい程、小さな殻の破片がボウルの中にダイブする。それを見兼ねた信くんが、「貸してみ」とわたしの手から卵を受け取った。彼はコン、と小気味良い音を立てて、縁に生卵を打ち付け、ぱかりと綺麗に二つに割ってみせる。その完璧な所作に、わたしは思わず拍手をしてしまった。 「凄い、信くん。まるで職人だね」 「バァちゃんの手伝いで、ようやっとるからな」  彼は些か照れ臭そうに言った。  次の難関は、小麦粉を篩う作業。わたしが粉の入った篩を揺すると、予測不能な軌道を描いて微粒子が舞い上がり、あっと言う間にキッチンの一部が雪景色と化した。わたしの目の前に居た信くんの鼻の頭にも、ちょこんと白い粉末が乗っかっている。 「わぁ」 「……名前、お前、態とやろ」  じとっとした目で詰められて、わたしは思わず笑ってしまった。 「ごめん。でも、可愛いよ、信くん」 「可愛ええとかやないねん……」  ぶつぶつと零しながらも、怒ってはいない。わたしは手を伸ばして、信くんの鼻先に付いた粉を指でそっと拭ってあげた。至近距離で見つめる彼の瞳が、真剣な色を帯びて揺れる。その熱に浮かされるように、わたしは悪戯っぽく眦を綻ばせ、白くなった指頭を自分の口へ運ぼうとした。 「そんなもん食ったら、腹壊すで」  ぱし、と手首を掴まれる。呆れたような、でも、矢張り優しい声。信くんはわたしの指先に付着した小麦粉を、近くにあったティッシュで丁寧に拭き取ってくれた。 「……だって、信くんに付いていた粉だから、美味しいかなって」 「意味が分からんわ」  そう言って苦笑する彼の顔が、見る見るうちに茹蛸みたいに真っ赤になっていく。こんな風に純粋な反応を見せてくれる彼が、愛おしくて堪らない。  生クリームの泡立ては、二人の共同作業だ。わたしがハンドミキサーを握り、信くんはボウルが動かないように確りと押さえる。ウィーン、という機械的な音と、クリームが徐々に形を変えていく様子が面白い。 「ねぇ、信くん。味見してみる?」  角が立つくらいに形成されたクリームを小指で掬い取り、ぺろりと舐めた。うん、完璧な甘さだ。次いで、その指を、今度は彼の唇へとそっと差し出す。 「……ん、」  信くんは一瞬躊躇ったけれど、観念したように、わたしの指先をそっと口に含んだ。柔らかい口唇と、少しだけざらついた舌の感触。脳が痺れるような感覚に、思わず腰が砕けそうになる。 「……甘いな」  掠れた声で呟いた彼に、わたしは「でしょう?」と微笑んでみせた。もう、どちらの所為でこうなっているのか分からないくらい、キッチンは甘ったるい空気で満たされていた。  焼き上がったスポンジに生クリームを塗り、フルーツを飾っていく。信くんは定規でも使っているのかと疑う程に、正確な間隔でイチゴを並べ、わたしはその隙間に、夜空の星を散らすようにブルーベリーを置いた。出来上がったのは、パティスリーに陳列されているような、洗練された洋菓子ではなかったけれど、世界にたった一つだけの、歪で、最高に愛おしい誕生日ケーキだった。  わたしが腕に縒りを掛けて作った豆腐ハンバーグのディナーの後、愈々、クライマックスが訪れた。  部屋の照明を落とし、ケーキに立てた十八本の蝋燭に火を灯す。ゆらゆらと揺れる炎が、信くんの端正な顔立ちを幻想的に照らし出す。 「お誕生日、おめでとう、信くん」  わたしの小さな歌声に、彼はちょっと恥ずかしそうに、でも、とても嬉しそうに目を細めてくれた。 「ありがとう、名前」 「願い事は決まった?」  信くんはふっと息を吐いて、優しい眼差しでわたしを見つめた。 「……言わん方が、叶うらしいで」  そう返して吹き消された灯火から、一筋の白い煙がふわりと立ち上り、甘い匂いの中に溶けて消えた。 「はい、これ。わたしからのプレゼント」  わたしが差し出したのは、少し気の早い、手編みのマフラーだった。静電気を嫌う彼の為に、特別な加工がされた、上質な毛糸を選んだのだ。 「……冬まで、だいぶ間ぁあるけどな」 「うん。でも、早く渡したかったから」  信くんはそれを受け取ると、ぎこちない手つきで緩く首に巻いた。 「ありがとう、名前。……あったかいわ。大事にする」  その言葉だけで、わたしの心が温かいもので満たされていく。次の瞬間、信くんの逞しい腕が、わたしの身体を強く抱き締めた。信くんの肩口に頬を埋めると、制汗剤と、彼自身の匂いがした。 「嬉しいけれど、やっぱり、ちょっと暑いね」  わたしが眉を顰めると、信くんも「せやな」と頷いて、名残惜しそうにマフラーを外した。わたしはそれを受け取って、丁寧に畳む。 「冬になったら、毎日使ってね」 「ああ。楽しみにしとる。……今日は、最高の誕生日や。名前が居ってくれるだけで、ほんまは充分やのに」 「わたしも、信くんとこうして過ごせて、世界一幸せだよ」  顔を上げると、信くんとわたしの唇が静かに重なった。ケーキの甘い香りと、彼の優しいキス。これ以上ないくらい、完璧な誕生日。 「……信くんの最近の悩み、知っているよ」  彼の腕の中で、わたしは囁いた。 「お祖母様が、信くんの結婚式を、今から楽しみにしているってことでしょう?」 「なっ……! なんで、それを……」 「ふふ。わたしもね、凄く楽しみにしている」  わたしの爆弾発言に、信くんは言葉を失って、只々、こちらを凝視している。その驚いた表情が愛おしくて、わたしは彼の首に腕を回し、もう一度、キスを強請った。 「……ほんま、敵わんなあ、名前には」  漸く絞り出された彼の声は、幸せな響きを伴っていた。  歪なケーキを切り分けて、一口、また一口と味わう。二人で作ったケーキは、どんな有名店のものより、ずっとずっと特別で美味しかった。  夜が更け、名残惜しさを滲ませながら、信くんを見送る。玄関のドアが閉まる直前まで、わたし達は何度もキスを交わした。  一人になった部屋は、急にがらんと広く感じる。けれど、まだ彼の温もりと、甘いケーキの残り香が、この空間を優しく満たしていた。  テーブルの上に残された、ケーキの最後の一切れを口に運ぶ。その糖分は、今日の幸せな記憶そのものだった。  わたしのモノクロームだった世界は、北信介という人に出逢って、こんなにも色鮮やかなものになった。彼が隣に居てくれるだけで、退屈だった筈の毎日が、掛け替えのない宝物になる。  窓の外を見上げると、満月が煌々と輝いていた。  ねぇ、信くん。来年の誕生日も、その次の誕生日も、更に遥か先まで、わたしに祝わせてね。世界で一番、愛してる。