怪しく嗤う月光
十月最後の夜。季節外れの生温い風が、バレー部の練習で火照った首筋を撫でる。自販機の硬質な光に照らされたコンクリートの上で、僕と山口の影が揺れていた。
「ツッキー、見て! 今夜の月、ハロウィンっぽいね!」
山口が指差す夜空では、雲の切れ間から覗く満月が、巨大なカボチャみたいに鈍い橙色を放っていた。その光源はどこか嘲るような色合いを帯びていて、見上げていると落ち着かない気分になる。
「別に。いつもと同じデショ」
「えー、そうかなあ? いつもより、意地悪そうに笑ってるみたいじゃない?」
無駄に詩的なことを宣う。僕がストレートティーのキャップを捻っていると、ポケットに入れていたスマートフォンが短く震えた。ディスプレイに表示された名前を見て、僅かに心臓が跳ねるのを自覚する。苗字名前。僕の、唯一無二の恋人だ。
『今夜、部屋に行くね』
たったそれだけの、主語も目的語も欠落した、一方的な通知。しかし、僕には充分だった。いや、寧ろ、この簡潔さが彼女らしいと言える。名前の世界はいつだって、彼女自身の中で完結していて、僕はその閉じた庭園に招き入れられた、唯一人の客なのだ。
「彼女さん?」
「……煩い、山口」
「ごめん、ツッキー!」
勘の良い幼馴染の詮索を片手でいなしながら、僕は返信の文面を考える。けど、どんな言葉を選んだところで、名前の想像の斜め上を行くことなどできはしない。結局、『分かった』とだけ打ち込んで、送信ボタンを押した。既読の印は直ぐに付いたが、以降の反応はなかった。
山口と別れ、自宅への道を歩きつつ、僕は知らず知らずの内に歩調を速めていた。名前が、僕の部屋に来る。只、それだけの約束が、部活の疲労で重かった足取りを、まるで綿毛のように軽くさせるのだから、我ながら単純で呆れてしまう。
玄関の引戸を開けると、リビングから洩れる明かりと共に、聞き慣れた声が飛んできた。
「お帰り、蛍。遅かったな」
「ただいま。兄ちゃん、また来てたの」
ソファに寝転がって雑誌を読んでいたのは、文房具メーカーに勤める、兄の明光だった。ローテーブルの上には、コンビニの商品と思しきカボチャプリンが二つ。ご丁寧にプラスチックのスプーンまで添えられている。
「ハロウィンだからな。お前、甘いもの好きだろ」
「……どうも」
素直に礼を述べるのが癪で、僕は素っ気ない返事をしながら、プリンを冷蔵庫に仕舞う。こう云う兄の気遣いは、昔からどうにもむず痒くて苦手だった。
自室へと続く階段に片足を掛けたところで、兄が思い出したように声を掛ける。
「そう云えば、さっき、名前ちゃんから電話があったぞ。『今夜、蛍くんを頂きに参ります』って。いやあ、面白い子だよな、彼女」
頂きに参ります、なんて。どんな時代錯誤な予告だ。思わずこめかみを押さえる僕の鼓膜に、兄の楽しそうな笑い声が届く。名前は、兄の前ではどこか芝居がかった、古風な言葉遣いをすることがある。そして、兄はそれを甚く気に入っているらしかった。
夕飯を食べ、シャワーを浴び、SOMYのヘッドフォンで耳を塞いで、ベッドに腰掛けて待つ。名前が置いていった天体望遠鏡の向こう、窓の外では、例の月が相変わらず不気味な光彩を放っていた。軈て、階下からチャイムの澄んだ音色が聞こえてくる。来た。僕はヘッドフォンを外し、逸る心臓を悟られないよう、敢えてゆっくりと階段を下りた。
玄関先に立っていた名前は、いつもの制服姿やシンプルな私服とは、かなり趣が違っていた。夜の闇を紡いだような、黒いベルベットのワンピース。首元と袖口には繊細なレースがあしらわれ、古い洋館に棲む人形めいた雰囲気を醸し出している。彼女の白い肌が、対照的な黒によって、一層際立って見えた。
「今晩は、蛍くん。待たせたかな」
透明感のある、凛とした声。僕を見上げる双眸は夜の海みたいに深く、感情の揺らぎを一切映さない。だけど、唇の端が微かに弧を描いているのを、僕は見逃さなかった。名前は愉しんでいるのだ。この状況を。そして、僕の反応を。
「……別に。それより、その大きな袋は何」
僕の視線は、名前が抱える巨大な紙袋に注がれた。百貨店のロゴが入った、何の変哲もない袋だが、膨らみ方が尋常じゃない。
「ふふ、これ? 今夜の主役だよ」
名前は悪戯っぽく笑うと、僕の横を擦り抜けて、ずかずかと家に上がり込む。"ずかずか"と云っても、動きは猫のようにしなやかで、ふわりと甘い花の蜜みたいな香りが鼻腔を掠めた。僕の脳が警鐘を鳴らす。今夜の彼女は、いつも以上に危険だ、と。
僕の部屋に入るなり、名前は躊躇なく紙袋の中身を床にぶち撒けた。ごろん、と重たい音を立てて転がり出たのは、見事なまでに丸々と育った、巨大なオレンジ色のカボチャだった。他にも、小型のナイフ、新聞紙、水性ペン、スプーン等が散らばっている。
「……何、これ」
「見ての通りだよ。ジャック・オー・ランタンを一緒に作ろうと思って」
然も当然と云った顔で、名前は答える。僕の許可を得る気など、端からないらしい。
呆気に取られる僕を尻目に、名前は慣れた手つきで床に新聞紙を広げ始めた。所作の一つひとつが、計算され尽くした舞台演劇のように優雅で、僕は只見ていることしかできない。
「蛍くんも手伝って。先ずは、ヘタの部分を刳り抜くの」
「……何で、僕が」
「だって、蛍くんの方が、力が強いでしょう? わたし一人じゃ、この硬い皮は切れそうにないからね」
そう訴え、僕の腕にそっと手を添える。華奢で、夜気のように冷たい指先。その感触が、僕の抵抗をいとも容易く霧散させる。真っ向からの頼み事に弱い一面を、名前は知っているのだ。全く、狡猾な女だ。
結局、僕は彼女の言うがまま、カボチャにナイフを突き立てる事となった。ザクリ、と云う鈍い手応え。硬い皮を貫き、柔らかな繊維質を断ち切る感覚は、妙な背徳感を伴っていた。隣で、名前が「もう少し、右」「角度はこう」と指示を出す。彼女の吐息が耳朶に掛かる度、背筋に甘い痺れが奔る。集中なんて、できる筈もなかった。
中身をスプーンで削りながら掻き出す作業は、名前が担当した。黙々と種やワタを取り除く横顔は真剣そのもので、思わず見惚れてしまう。
「蛍くんは狼男が似合いそうだね」
不意に、名前が視線を上げて言った。ランタンに彫るべき表情を思案しているのか、僕の顔のパーツを一つひとつなぞるように見つめている。
「……は? 何言ってるの」
「満月を見ると変身する、って云うのが、蛍くんにぴったりじゃないかなって。月島の"月"だし」
「安直な発想、どうも」
皮肉で返しながらも、心臓が大きく脈打つのを感じていた。名前の言葉は時として、鋭い矢のように、僕の心の最も柔らかな部分を射抜くのだ。
作業は続き、軈てカボチャには、些か歪でありながらも愛嬌がある三日月型の両目と、存在感のある口が刻まれた。
「出来たね」
満足気に頷く名前。彼女は持参したティーライトキャンドルを空洞に収めると、ノズル付きのライターで火を灯した。部屋の照明を落とすよう、僕に促す。
瞬間、揺らめく炎がカボチャの内側から世界を照らし、壁には不気味に嗤う影が映し出された。橙色の燈火が、僕達の相貌をぼんやりと浮かび上がらせる。静寂の中、パチ、と蝋の爆ぜる音だけが響いていた。
月光と、ランタンの灯り。二つの光が溶け合う薄闇で、名前のシルエットがゆらりと動く。
「蛍くん、トリック・オア・トリート」
吐息が掛かる程の近距離で、名前が囁いた。甘いカボチャと、彼女自身の匂いが交差して、僕の理性を蕩かしていく。
「悪戯されたくなかったら、わたしにお菓子をくれないと」
「……生憎だけど、お菓子なんてないよ。兄貴が買ってきたカボチャプリンならあるけど」
僕がぶっきら棒にそう答えると、名前はくすくすと喉の奥で笑った。それは獲物を追い詰めた猫のように愉しげで、残酷な響きを持っていた。
「じゃあ、悪戯、だね」
その宣告と同時に、名前の冷たい指が、僕のこめかみに触れ、黒縁のメガネを慎重に外した。視界がぼやけ、世界の輪郭が曖昧になる。頼れるのは、眼前の彼女の気配と香り、熱だけだ。
そして、柔らかな何かが、僕の唇に触れた。
蛍くんの口唇は微かにカサついていたけれど、驚く程に熱かった。最初は重ねるだけの、雛鳥が殻を啄むようなキス。次第にもっと欲しくなり、僅かばかり深く合わせた。事前に眼鏡を外すのは、細やかな儀式だ。彼の武器である"理知"と云う名のフレームを取り払い、剥き出しになった中身を独り占めする為の、わたしだけの魔法。
(……計画通り)
数日前、わたしはリビングのソファに座り、ハロウィンの計画を練っていた。開け放たれた書斎からは、兄である兄貴の、新しい物語の構想を練る声が聞こえていた。
「次の新作は、言葉を失った人魚姫が陸に上がって、アイドルを目指す話にしようかな。ライバルは脚線美が自慢の、蛸の魔女だ」
「面白そうだね、兄貴兄さん。わたしも、今度のハロウィンは、一つの物語を紡いでみようと思うんだ」
「ほう、それは興味深い。どんな物語だい?」
「秘密だよ。主役は月夜に惑わされる、背の高い男の子」
兄は「成程、『眼鏡の奥の獣性(ケダモノ) ~君を暴く月夜~』みたいなタイトルだね! よし、そのTシャツを作ろう!」等と意味不明な事を叫んでいたけれど、兄さんのそう云うところは嫌いじゃない。
わたしは、蛍くんのリアクションを想像することが好きだ。いつも冷静で、皮肉屋で、世界を斜め上から観察しているような彼。だけど、澄ました仮面の下では、歳相応の熱い感情が渦巻いていることを、わたしは知っている。その情熱に火を点け、平静を失っていく様を見るのが、堪らなく楽しいのだ。これは駆け引きなんかじゃない。只の純粋な好奇心と、彼を自分だけの色に染めてしまいたいと云う、どうしようもない独占欲の表れだった。
口づけを深めると、蛍くんの身体が強張り、戸惑いが伝わった。でも、拒絶はされない。できないことを、わたしは理解している。彼の長い指が、ワンピース越しの背中に触れた。おずおずとした、ぎこちない動きが愛おしくて、彼を煽るよう、首に腕を回した。
ジャック・オー・ランタンが歪に揺れる灯りを見せ付け、嘲るように口を開けている。夜空の月が、全てを見透かすみたいに、怪しい月光を投げ掛けていた。この光景は、二人の為の舞台装置。今夜、蛍くんの部屋で、わたしは魔女にも、妖精にもなれる。
唇を離すと、間近にはレンズ越しじゃない彼の潤んだ瞳が在った。普段は理知的な光を宿す双眼が、今は熱に浮かされ、わたしだけを映している。この表情が見たくて、わたしはこんな悪戯を仕掛けたのだ。
「……カッコ悪」
掠れた声で、蛍くんが呟いた。きっと、わたしのペースに完全に巻き込まれている、自分自身への悪態だろう。でも、その一言とは裏腹に、わたしの腰を抱く腕には、確かな力が籠められていた。
「僕はお菓子より、君がいい」
ぼそりと耳元で囁かれた言葉。それは、蛍くんが放つ、いつもの皮肉とは全く異なる、飾り気のない、剥き出しの本音だった。胸の奥が、きゅうっと甘く締め付けられる。これだ。わたしが欲しかったのは、この言葉だ。
わたしは満面の笑みで、蛍くんの首筋に頬を埋めた。
「わたしは最初から、蛍くんのものだよ」
そう耳打ちすると、息を呑む気配がした。勝敗なんて、初めから決まっていたのだ。
室内には、甘く焦げた南瓜と、キャンドルの馨り、そして、二人分の熱だけが充溢する。窓の外では、月が満ち足りたように、静かに嗤っていた。今夜の悪戯は、どうやら大成功らしい。