マントは真の姿まで隠し切れない
十月三十一日。
体育館の床を叩くボールの音と、チームメイトの怒声にも似た掛け声が、やけに遠く聞こえる。部活後の自主練もそこそこに、俺はそそくさと制服に着替えていた。スマホのトークアプリで送信した『そろそろ行けるよ』と云う、俺のメッセージに、名前から『お待ちしています』と云う短い返信。カボチャから顔を出す、黒猫のスタンプが添えられている。それだけで口角が緩んでしまうのだから、我ながら単純だ。
「角名。なんや、ニヤニヤして。キモいで」
「侑は時々、吃驚するくらい失礼だよね」
背後から聞こえた声に、表情を消して振り返る。宮兄弟の片割れ、侑が胡散臭そうな目で、こちらを見ていた。その隣では、治が「それな」とでも言いたげな顔で、バナナの追加分を頬張っている。
「彼女とデートか? ハロウィンやもんなあ」
「まあ、そんなとこ」
「ええなあ! 俺も女子とパーティーしたいわ!」
「……フッフ。ドンマイ」
侑の絶叫をBGMに、俺は学校を後にした。ひんやりとした夜風が、火照った身体に心地良い。普段は寮に戻るだけの道を逸れ、違う場所へ向かう足取りは、練習後とは思えない程に軽かった。
名前が住むマンションは、この辺りでは一際高く、夜景が綺麗だと評判の建物だ。エントランスのオートロックを慣れた手つきで解除し、エレベーターで最上階を目指す。静かに上昇する箱の中で、逸る心臓が妙に煩かった。
目的の階に到着し、長い廊下の突き当たりに在る玄関先に立つ。チャイムを鳴らす前に、扉が内側から静かに開かれた。
「……わ」
思わず、間の抜けた一音が出た。
そこに居たのは、俺のよく知る彼女でありながら、全くの別人だった。
艶やかな黒のベルベットで仕立てられた、豪奢なドレス。首元には、血の色に似た赤い宝石が煌めくチョーカー。背中から床へと流れ落ちる、闇を切り取ったかのような、漆黒のマント。普段は柔らかな印象の唇には、深紅のルージュが引かれ、いつもよりずっと蠱惑的な艶を放っている。夜の帳が溶け込む深い双眸が、悪戯っぽく細められた。
「ようこそ、倫くん。わたしの城へ」
芝居がかった口調で、彼女――名前は優雅に一礼する。完璧な吸血鬼の姿に、俺は完全に言葉を失った。咄嗟にポケットからスマホを取り出し、無言でカメラを起動する。
「……何枚、撮る気なの?」
「んー、いっぱい」
カシャ、カシャ、と無機質なシャッター音が廊下に響く。半ば呆れながらも、嬉しそうに微笑む名前に促され、俺は夢見心地で部屋の中へと足を踏み入れた。
リビングは彼女のセンスで飾り付けられ、オレンジと黒を基調にした、シックな空間へと変貌していた。テーブルの上には、カボチャを模したランタンが柔らかな光を灯し、壁にはコウモリのガーランドが舞っている。甘くて香ばしい、何かが焼ける匂いが鼻腔を擽った。
「いらっしゃい、倫太郎君」
「……お邪魔します、兄貴さん」
ソファには、名前の兄である、兄貴さんが座っていた。相変わらずの美形だが、今日の服装は特に独創的だ。前身頃にデカデカと『愛は地球を救えないが、君は救える』と明朝体でプリントされたTシャツを着て、優雅に紅茶を飲んでいる。
「倫太郎君も仮装するんだろう? 名前が衣装を用意していたよ。今夜の物語はね、偏食が過ぎて、マカロンしか食べられなくなったグリフォンを主人公にしようかと考えているんだ」
「へえ、面白そうっスね」
(……そのグリフォン、栄養失調で飛べなくなりそう)
心の中でツッコミを入れながら、俺は名前に渡された紙袋を持って、寝室で着替えることにした。中に入っていたのは、狼男の仮装セット。と云っても、ふさふさの耳が付いたカチューシャと、尻尾が生えたベルトだけの、かなり簡易的なものだ。
まあ、名前の隣に立つなら、これくらいが丁度いいのかもしれない。あの完璧な吸血鬼の横に、本気の狼男が佇んでいたら、それはもうホラーの領域だ。
リビングに戻ると、名前が目を丸くして、直後、堪え切れないと云ったように小さく噴き出した。
「ふふ、倫くん。凄く似合っているよ」
「そりゃどうも」
照れ隠しにそっぽを向いたけど、名前は構わず、俺の隣にするりと寄り添った。ふわりと甘い香りがして、心臓が跳ねる。
名前は狼の耳にそっと触れ、悪戯な笑みを浮かべて囁いた。
「ねぇ、倫くん。貴方の血、とても美味しそうだね」
「……勘弁してよ、伯爵様」
妖艶な響きに、背筋がぞくぞくする。思春期特有の現象とやらが、いとも簡単に顔を出しそうになるから、必死で堪えた。
(……ほんと、この子には敵わない)
そんな甘い雰囲気を切り裂くように、玄関の扉が勢いよく開かれた。
「名前! パイ焼けたって聞いたぞ!」
「弟、来たの。靴は揃えて」
現れたのは、名前の弟、弟くん。俺の姿を認めるなり、眉を顰めて言い放った。
「うわ、りんたろー。何、その耳。似合わねえ」
「久々聞いたな、コレ。君も相変わらずだね」
憎まれ口を叩きながらも、キッチンから漂ってくる匂いには抗えないらしい。いそいそとダイニングテーブルに着く弟くんの前に、名前が切り分けたカボチャのパイを差し出した。途端に表情が和らぐから、面白い。
結局、兄貴さんと弟くんも交えて、細やかなハロウィンパーティーは賑やかに続いた。兄貴さんの突飛な次回作の構想を聞かされたり、弟くんに「その猫背、狼男じゃなくて、只の老犬だろ」と絡まれたりしながらも、輪の中心で楽しそうに笑う名前を見ているだけで、満たされた気持ちになった。
実家に帰る弟を、兄さんが送り届けに行き、室内に静寂が訪れたのは、時計の針が八時を回る頃だった。わたしはリビングの照明を落とし、ローテーブルのキャンドルに火を灯す。揺らめく炎が、倫くんの相貌に柔らかな陰影を作り出していた。
狼の耳を生やした倫くん。一見、不愛想にも見えるけれど、わたしの兄や弟とも、きちんと向き合ってくれる、優しい人。彼のそう云うところが好きだ。
わたしが、今日の仮装に吸血鬼を選んだことには、理由があった。
只の憧れなんかじゃない。もっと黒くて、独り善がりな願望。
倫くんの全てを、わたしだけのものにしてしまいたい。その証として、彼の白い首筋に牙を立て、わたしの印を刻み付けたい。そうすれば、わたしから永遠に離れられなくなるよね?
そんな、少しばかり歪んだ独占欲の表れだった。
「倫くん」
ソファに座る彼の隣に腰を下ろし、そっと呼び掛ける。色素の薄い鶯色の双眼が、キャンドルの光彩を反射し、きらきらと輝いている。その瞳に、わたしだけが映っていると云う事実に、胸の奥が甘く疼いた。
「もう少しだけ、パーティーの続きをしない?」
「……お手柔らかにね、名前ちゃん」
悪戯っぽく笑う彼に、わたしは安心して頷いた。ゆっくりと立ち上がり、倫くんに向き直る。そして、背中のマントを大きく広げ、彼の身体をすっぽりと包み込むようにして覆い被さった。
途端に世界から、光と音が遮断される。マントの内側は、二人だけの閉ざされた空間。倫くんの驚いたような息遣いと、わたしの高鳴る鼓動だけが響いていた。彼の耳元に唇を寄せ、ずっと伝えたかった言葉を囁く。
「本当はね、倫くん。血を吸うだけじゃ、きっと足りない」
それは吸血鬼の科白なんかじゃない。苗字名前としての、偽りのない本音だった。
瞬間、腰に力強い腕が回され、ぐっと引き寄せられる。思わず「あっ」と声を上げた時には、もう彼の膝の上に抱きかかえられていた。体勢が崩れた拍子に、艶やかなベルベットのマントが肩から滑り落ち、床に黒い水溜まりを作る。
仮装と云う名の鎧が、剥がされてしまった。
マントの下に隠されていたのは、只の恋する臆病な女の子。倫くんの前でしか見せることのできない、わたしの真の姿。
見上げると、直ぐそこに彼の顔が在った。熱を帯びた鶯色の眼差しが、わたしを真っ直ぐに射抜いている。それは獲物を目前にした狼のようでもあったけれど、奥にはどうしようもない程の愛しさが滲んでいた。
「……名前ちゃん」
掠れた声が、わたしの名前を呼ぶ。
「もう、我慢できないんだけど」
ああ、そうか。
重厚なマントは、臆病者のわたしをカモフラージュする為のものなんかじゃなかった。
きっと、倫くんの理性を守る覆いだったのだ。
マントは真の姿まで隠し切れない。
それは、わたしも、目の前に居る愛しい狼も、同じことだったみたい。
「……わたしも、だよ。倫くん」
どちらからともなく、唇を重ねる。キャンドルの炎が一度だけ大きく揺れて、二人の影を濃く、一つに溶かしていった。