お菓子いっぱいポケット
十月、最後の日。町はどこか浮かれた熱気に満ちていた。商店街のアーケードには、表情豊かなカボチャのランタンが吊るされ、ショーウィンドウは蜘蛛の巣や黒猫のシルエットで飾り付けられている。俺はそんな喧騒を縫うようにして歩き、目的のマンションへと足を速めた。ここだけが、世間の騒がしさから切り離され、静寂に包まれている。磨き上げられたエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。慣れた手つきでチャイムを押すと、直ぐに凛と鼓膜を優しく揺らす声が応えた。
『開いてるよ』
一言だけで、強張っていた肩の力が抜ける。廊下の先、重厚なマホガニーの扉を開けると、ふわりと甘い芳香が鼻腔を擽った。シナモンと、焦がした砂糖の香り。そして、リビングのソファに腰掛ける、名前の姿が目に飛び込んだ。
「……何だ、その格好」
思わず漏れた声は、自分でも「その反応はないだろ」とツッコみたくなる程に素っ気なかった。彼女はいつもと違う、黒いレースを幾重にも重ねたゴシック調のワンピースを身に纏い、頭には悪魔の角を模したカチューシャを載せている。物語の中から抜け出してきたような、非現実的な出で立ちに、心臓が不規則なリズムを刻み始めた。名前は読んでいた本を閉じると、静かな光を湛えた深い瞳で、俺を真っ直ぐに見つめた。夜の海を想起させる双眸に吸い込まれそうだ。
「今日は、ハロウィンだからね。賢二郎に悪戯をする為の準備だよ」
そう答えて悪戯っぽく微笑むと、名前はふわりとソファから立ち上がった。そのお陰で、ワンピースのサイドポケットが、不自然に膨張しているのが見て取れる。冬支度をする小動物が、頬袋をいっぱいにしたかの如く、可愛らしく膨らんでいた。
「トリック・オア・トリート」
細められた諸目は悪戯を企む猫のようだ。差し出された、陶器みたいに滑らかで白い手。俺はわざとらしく溜息を吐き、羽織っているジャージの内懐からビニール袋を取り出した。この日の為に、馴染みの店で買っておいた、特製のしらす入り煎餅だ。
「ガキかよ」
口ではそう突き放しながらも、俺の片手は勝手にそれを、彼女の小さな掌に載せていた。名前は嬉しそうにおやつを受け取ると、張り詰めたポケットに押し込もうとする。だが、どうやらもう満杯らしい。布地の隙間から、色とりどりのキャンディやクッキー、チョコレートがぎっしりと詰まっているのが見えた。
「おい、それ、誰からだ」
自分でも意識しない内に、声のトーンが一段低くなる。名前は少しも悪びれず、事もなげに答えた。
「兄貴兄さんと、弟から」
二つの名前を聞いただけで、眉間に僅かな皺が寄るのを感じた。その時だった。俺の不機嫌を察したかのように、書斎から長身の男が、ひょっこりと顔を出したのは。胸元に『物語は筋肉だ』と極太の明朝体で書かれた奇抜なTシャツを着る、名前の兄、苗字兄貴だ。
「やあ、賢二郎君。君が来てくれて、名前も嬉しそうだ。けれど、妹のポケットをこれ以上、お菓子で満たすのは感心しないね。彼女の歯は、国の宝なのだから」
作家特有の回りくどい言い方で牽制される。続いて、遊びに来ていたのだろう、カーディガンを羽織った名前の弟、弟がリビングに現れた。
「白布、姉さんにまた変なもん食わせに来たのか。どうせ、しらす系だろ、もう何度目だよ」
憎まれ口を叩きながらも、俺が持参した煎餅の袋に、視線は釘付けになっている。こいつらの過保護っぷりには、最早、呆れる他ない。俺が何か言い返そうとする前に、名前が静かに口を開いた。
「二人共、賢二郎を困らせないで。わたしが欲しくて、お願いしたんだから」
凛と放たれた一言で、兄と弟はぴたりと動きを止める。彼らは顔を見合わせると、渋々と云った様子で、各々の部屋へと引き下がっていった。結局のところ、この家では、名前の言葉が絶対なのだ。
再び二人きりとなったリビングに、穏やかな沈黙が流れる。俺は彼女と並んで、ソファに腰を下ろした。途端に、名前の纏う甘い匂いが一層濃くなり、どきりとする。彼女はポケットから銀紙に包まれたチョコレートを取り出すと、包装を丁寧に解き、俺の口許へと運んだ。
「あーん」
「……自分で食える」
「いいから。賢二郎のポケットにも、お菓子をあげるね」
抵抗する間もなく、褐色の塊が口中に放り込まれる。ゆっくりと溶けるミルクチョコレートの味に、少しだけ毒気を抜かれた。名前は満足そうに頷くと、今度はジャージの内懐に、自分のポケットから摘まみ上げたキャンディを次々と詰め始めた。子供染みた、他愛のない行動だと云うのに、彼女がやると、何か特別な儀式のように思えてくるから不思議だ。俺の服が、お菓子で満たされていく。同時に心の中の空っぽだった場所も、温かいもので埋まるのを感じた。
「おい、もう入らねえよ」
「そう? じゃあ、悪戯の時間だね」
名前が耳元で囁く。吐息が首筋を撫で、背筋がぞくりと粟立った。甘ったるい洋菓子と、彼女自身の清らかな匂いが混じり合い、俺の思考を鈍らせる。視線が、仄かに色づく桃色の唇へ吸い寄せられた。
バレーコートの上では、常に冷静で、誰よりも目立たないセッターで居ると決めている。牛島さんと云う絶対的なエースを輝かせる為だけに、俺はあの場に立っている。その信念が揺らいだことは、一度もない。
だが、こいつの前では、そんな決意は何の意味も持たなかった。忠誠を誓うべき王者は、牛島さん唯一人の筈なのに、この小さな黒い悪魔は、いとも容易く俺の全てを支配し、跪かせようとする。セッターとしての哲学も、クールなポーカーフェイスも、名前の領域では脆くも崩れ去っていく。
「……お前には、敵わない」
絞り出した降参の言葉は、重ねられた唇に吸い込まれて消えた。窓の外では、町の明かりが、ハロウィンの夜を煌びやかに彩っている。室内の甘く濃密な空気は、世界でたった二人、俺達だけのものだ。内懐に詰め込まれたお菓子は、きっと数日でなくなってしまうだろう。だけど、俺の胸に満たされた、どうしようもなく温かくて蕩けそうな感情は、当分の間、消えそうになかった。