喋る黒猫の赤い牙

 街がオレンジと紫のインクをぶち撒けた色彩に染まる、十月最後の夜。俺、黒尾鉄朗は、常よりも幾分か浮ついた空気の溶ける電車に揺られていた。車窓に映るネオンはカボチャのランタンや飛び交う蝙蝠のシルエットを飾り付け、街全体が巨大なテーマパークにでもなったかのようだ。世間はハロウィン一色。無論、俺の目的地も、その祝祭の渦中に在る。  部活を終え、汗を流した身体に纏わり付く夜風が、少し肌寒い。だけど、これから逢う恋人のことを想うだけで、心臓の奥からじわりと熱が込み上げる。苗字名前。同じクラスで、俺の隣の席で、時折、現実から数センチだけ浮遊しているような、不思議な雰囲気を纏う少女。俺が生まれて初めて、本気で焦がれた相手。  名前の住むマンションは、この辺りでは一際高く、夜空を突き刺すように聳え立っていた。エントランスの重厚なガラス扉を抜ければ、外の喧騒が嘘みたいにぴたりと止み、静謐な空間が広がる。管理人でもない限り、住人の気配を殆ど感じさせない不思議な建物だ。エレベーターの示す数字が最上階に近づくにつれ、逸る気持ちを抑え切れなくなる。思春期特有の、などと云う言葉で片付けるには、この感情は余りにも切実で厄介だった。  呼び鈴を鳴らすと、間もなくして、微かな足音と共に扉が開かれた。 「いらっしゃい、鉄朗くん」  そこに立っていたのは、いつも通りの名前だった。だが、ハロウィンの夜がそうさせるのか、彼女の背後に在る部屋の照明がそう見せるのか、普段よりもずっと妖艶な趣を醸しているように思えた。宵の淵を切り取って仕立てたみたいな、滑らかな黒いワンピース。布地の上を滑る明かりが、彼女の輪郭を淡く縁取る。人形めいた顔立ちの中で、深い海の底を想起させる眼差しだけが、確かな熱を帯び、俺を射抜いていた。 「お邪魔します」  招き入れられたリビングには、案の定、先客が居た。名前の兄、兄貴さんと、弟のだ。 「やあ、鉄朗君。今宵の主役の登場だね」  ソファで寛いでいた兄貴さんは、胸元に『愛は締切を超越する』と極太の明朝体でプリントされた奇抜なTシャツを着て、にこやかに片手を振る。その傍らでは、が携帯ゲーム機から顔も上げずに「……ちわ」とだけ呟いた。相変わらずの塩対応だが、少し赤い耳が見え、僅かに口許が緩む。 「さて、鉄朗君。君には、最高の舞台衣装を用意したよ」  兄貴さんが芝居がかった所作で差し出したのは、紫色のリボンで飾られた黒い箱だった。名前に「開けてみて」と静かだが、有無を言わせぬ響きを持った声で促される。  蓋を開けた俺は、数秒間、思考を停止させた。中に入っていたのは、黒猫の耳とふさふさの尻尾、血のように赤い裏地が付いた吸血鬼のマントと、やけにリアルな血糊を滴らせた、白い付け牙。 「……なんスか、この悪趣味なキメラは」 「音駒の黒猫と、ハロウィンの吸血鬼。君にぴったりの組み合わせじゃないか」 「拒否権はないよ」  悪戯っぽく煌めく兄貴さんの瞳と、物静かに微笑む名前の顔。この兄妹の前では、俺の主将としての威厳も、策略家としての一面も、殆ど意味を成さない。俺は観念して溜息を吐くと、その混沌とした衣装を手に取った。  鏡に映った自分の姿は、我ながら滑稽極まりなかった。寝癖の鶏冠頭に、ちょこんと生えた猫耳。腰からは頼りない尻尾が垂れ下がり、肩には大仰なマント。仕上げに例の付け牙を装着すれば、見事なまでに胡散臭いキャラクターの完成だ。  リビングに戻ると、兄貴さんは腹を抱えて笑い、は「……似合ってんじゃん。詐欺師みたいで」と褒めているのか貶しているのか分からない感想をくれた。 「役者は揃ったね。喋る黒猫の吸血鬼さん、今宵の獲物は、どのお嬢さんにするんだい?」  兄貴さんの煽りに乗ってやるのが、この場の正解だろう。俺はニヤリと口角を吊り上げ、マントを翻しながら、名前の前に跪いた。 「勿論、この世で最も愛らしい、薄幸の美少女、名前お嬢さんの白い首筋一択でしょうよ」  付け牙の所為で、サ行の発音が、微かに空気の抜ける音を立てる。どうにも締まらない。  名前は相変わらず感情の読めない双眸で、俺を見下ろしている。表情の奥に在るものを探ろうと、じっと目を凝らすが、深い水面に遮られているかのように、何も見通せなかった。 「わたしの血は、そんなに美味しいのかな」 「そりゃもう、極上の年代物ワインみたいなもんだろうね。毎晩でも味わいたいくらいには」  軽口を叩きながら立ち上がり、名前との距離を詰める。甘い香りが鼻腔を掠めた。華奢な肩に手を掛け、白い首筋に顔を寄せようとした、正にその瞬間だった。  カコッ。  口中に、何かが決定的に固定されたような、実に嫌な感触が伝わった。なんだ? 訝しんで口を開閉してみると、上顎の犬歯に装着した付け牙が、まるで最初からそこに生えていたかの如く、びくともしない。 「……あれ?」  素っ頓狂な声が漏れた。指で触れても、舌で押しても、外れる気配は皆無。焦りが背筋を駆け上がる。 「ど、どうしたんだい、鉄朗君。獲物を前にして、固まってしまうなんて」  俺の異変に気づいた兄貴さんが、笑いを堪え切れないと云った様子で問い掛ける。もゲームの手を止め、こちらを見て肩を震わせていた。  マズい。これは最高に格好悪い。 「先頭文字名前の平仮名……助けてくれ……」  牙の所為で、呂律すら怪しくなりながらも助けを求めると、名前は黙って、俺の顔を覗き込んだ。その静謐な諸目の奥が、ほんの少しだけ楽しそうに揺らめいたのを、俺は見逃さなかった。
 わたしの眼前で、音駒高校排球部を率いる頼もしい主将が、一本のプラスチックを相手に、必死の格闘を繰り広げている。普段の余裕綽々な表情が崩れ、眉間に皺を寄せて焦る姿は、庇護欲を掻き立てられると云うか、何と云うか……とても愛らしい。 「はっはっは、傑作だ! 『牙の抜けなくなった吸血鬼』、ハロウィンの物語のプロットにしよう!」  兄貴兄さんはそう言って、背中に『生きること=ネタ』と書かれたTシャツでソファに転がり、スマートフォンに文字を打ち込んでいる。傍らでは、が「だっせぇの」と毒づきながらも、自分の端末で『付け牙 外し方』などと検索しているのが見えた。存外、鉄朗くんのことを気に入っているらしい。 「名前の平仮名……こへ、まじで、取れない……」  哀れな声を出す彼の桑染色した双眼が、潤んで映るのは照明の所為だろうか。まるで、雨に濡れながらも飼い主を待つ、大きな黒猫のようだ。この状況を、困り果てた彼の顔を、もう暫く味わっていたい。そんな、些か意地の悪い気持ちが芽生えてしまうのを自覚する。 「兄さん、。少し、席を外してくれるかな」  わたしが静かに告げると、二人は全てを察した様子で、ニヤニヤと笑いながらリビングを出ていった。嵐のような兄と弟が去り、室内には気まずい沈黙と、鉄朗くんの微かな呻き声だけが流れる。  わたしは彼をソファに座らせると、その脚の間へ跪くようにして屈み込んだ。下から見上げる彼の表情は、不安と羞恥で染まっている。鉄朗くんの心臓が、常よりもずっと速く鼓動しているのが、緊張した空気を通して伝わってくるようだった。 「鉄朗くん、口を開けて」  端的に促すと、彼は戸惑いながらも、言われた通りにそっと唇を開いた。赤い牙が、街灯りのように鈍く光る。  わたしはローテーブルに置かれていた、南瓜型のクッキーを一つ手に取ると、表面に塗られた粘着質なアイシング部分を、問題の付け牙に沿って、慎重に押し付けた。 「こへは?」 「おまじない」  囁きながら、指先で牙をくい、と捻る。梃子の原理を応用するように、僅かな力を加えて。すると、あんなに彼を苦しめていたプラスチックの塊が、ぽろりと簡単に外れてしまった。  呆然とする彼を尻目に、わたしは取れた付け牙をローテーブルにことりと置いた。クッキーはそのまま頬張り、アイシングの甘味を愉しむ。 「……なんで、外れたんだ?」 「さぁ、どうしてだろう。ハロウィンの魔法、かな」  本当は、兄さんが買ってきたこの玩具の接着剤は、体温と糖分で弛む性質を持っていると、付属の説明書を読んで知っていただけ。けれど、今は秘密にしておく。  解放された安堵で、鉄朗くんの思考は一時的に停止しているようだった。その隙を見逃さず、彼の耳元に唇を寄せる。吐息が触れるくらい、近くまで。 「牙がなくても、鉄朗くんに噛み付かれたい」  彼の肩が小さく跳ねた。見れば、首筋から耳に掛け、熟れた果実みたいに染まっていくのが、オレンジ色の照明の下でも、手に取るように視認できた。  次の瞬間、鉄朗くんの逞しい腕が、わたしの腰を反撃とばかりに強く引き寄せた。先程までの焦燥はどこへやら、いつもの食えない笑みを浮かべた彼に、ソファの座面へゆっくりと押し倒される。 「……お望み通り、骨の髄までしゃぶり尽くしてやんよ、名前」  囁きと共に、鉄朗くんの唇が、わたしのそれを俄かに塞いだ。甘いクッキーの香りと、少し汗ばんだ匂いが混じり合って、くらりと意識が蕩けそうになる。窓の外からは、子供達の「トリック・オア・トリート!」と云う楽しげな声が、遠くに聞こえていた。  わたしにとって、最高のトリートは、このお喋りな黒猫がくれる、些か糖分過多の乱暴なキス。  来年のハロウィンは、どんな悪戯で驚かせてあげようか。そんなことを考えながら、わたしは彼の広い背中に、そっと両腕を回した。