魔女がお菓子をばら撒く路地裏にて
十月三十一日。町は熱に浮かされ、オレンジ色と黒の魔法に掛かっていた。ジャック・オー・ランタンがそこかしこで空洞の瞳を光らせ、仮装した子供達の甲高い笑い声が、冷たくなり始めた夜風に乗って、鼓膜を擽る。誰も彼もが浮き足立ち、年に一度の祝祭を謳歌している。
そんな喧騒の只中で、私は一人、現実と幻想の境界線みたいな路地裏にしゃがみ込んでいた。祖父が営むブックカフェ『雨滴文庫』の裏口。湿ったアスファルトと、微かに漂う古紙の匂いが混じり合う、私の聖域。
海外の古書に挟まっていた押し花を取り出す作業。祖父に頼まれた仕事だが、ハロウィンの熱狂から身を守る、細やかな儀式でもあった。
人混みは些か苦手だ。沢山の視線に晒されると、自分が水彩絵の具みたいに滲んで、輪郭が曖昧になってしまう心細さに襲われる。誰も、私のことなんて、ちゃんと見ていない。その他、大勢の背景として、只、そこに存在しているだけ。そう思えば、少しは息がし易くなるのだけれど。
「名前。こんなとこで、何しとん?」
不意に澄んだ声音が鼓膜を揺らした。聞き間違える筈もない、私の心をいとも容易く凪がせる、世界で一番好きな声。顔を上げると、視線の先に、部活帰りなのだろう、稲荷崎高校のジャージに身を包んだ、信くんが立っていた。町を彩る非日常的な意匠の中、彼の見慣れた姿は、逆に強烈な程の現実感を伴い、私の目に映る。黒い髪先が、外灯の光を吸い込みながらも鈍く沈んでいた。
「信くん。お帰りなさい」
「うん、ただいま。風邪引くで。上、着とき」
彼はそう気遣いつつ、ジャージの上着を肩に掛けてくれた。彼の気配に、ふわりと包み込まれる。練習後の汗と、柔軟剤の清潔な香りが混じり合い、思考を甘く麻痺させる。これは、私の弱味だ。信くんの匂いを嗅ぐと、途端に頭が働かなくなる。
「ありがとう。でも、信くんが寒くなってしまう」
「俺はええ。鍛えとるからな」
彼は事もなげに言って、私の隣に腰を下ろした。狭い路地裏、コンクリートの壁に背を預ける。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離は、心臓に悪い。私は、彼の弱点が静電気であることを知っている。冬が近づくにつれ、彼はニットやマフラーに警戒を強める。そして、私の弱点は、間違いなく彼自身だ。接触しただけで、思考回路がショートして、使い物にならなくなる。
「町、凄いね。お祭りみたい」
「せやな。名前は行かんでええの? 仮装とか、興味ないんか」
「ううん、見るのは好き。でも、自分がやるのは……。信くんは、もし仮装するなら、何になりたい?」
私の問いに、彼は宙を見てから、真面目な顔で「……米農家、やな」と呟いた。予想の斜め上を行く答えに、思わず噴き出してしまう。
「ふふっ、どうして?」
「実用的やんか。それに、バァちゃんが喜ぶ」
信くんはいつだってそうだ。奇を衒わず、誰よりも深く物事の本質を捉えている。彼の隣に居ると、世界の解像度が、ぐんと上がる気がした。今まで見過ごしていた、道端の小さな花や、雲の形や、季節の移ろい。一つひとつを、彼は"ちゃんと"見つけて、私に教えてくれる。
その時だった。路地の奥から、わあっ、と云う年少者の歓声と、軽快な音楽が聞こえ始めたのは。
「始まったみたいやな」
信くんが呟く。視線の先、建物の屋根上に、黒い三角帽子を被り、マントを翻す人影が現れた。地元の商店街の有志が企画した、ハロウィン限定のサプライズイベント。『路地裏の魔女』が、子供達にお菓子をばら撒くのだ。
魔女が高らかに笑うと、キラキラと光る包装紙に包まれた洋菓子が、夜空を舞う星屑みたいに降り注いだ。キャンディ、グミ、チョコレート。幼子が我先にと駆け寄り、小さな手を伸ばしては、夢中で拾い集めている。私達は少し離れた場所から、目の前の微笑ましい光景を眺めていた。
「綺麗だね」
「せやな。けど、足下危ないから、気ぃ付けや」
信くんがそう注意した、正にその瞬間。一際強い風が吹き抜け、他のお菓子とは違う形をした包みが、くるくると回転しながら、私達の足許へと着地した。それは銀色の砂糖が塗された、大きな星形のアイシングクッキーだった。まるで、空から本物の星が一つ、落ちてきたみたいに。
「わぁ……!」
吸い寄せられるように、私はクッキーに手を伸ばした。屈み込み、銀に輝く包装へ指が触れる、寸前。イベントに熱中した小さな男の子が、私の背中にどすんとぶつかった。
「あっ」
短い悲鳴を上げ、私の重心がぐらりと傾ぐ。拙い、転ぶ。そう覚悟した瞬間、背後から伸べられた力強い両腕が、私の身体をぐっと引き寄せ、倒れ込むのを防いでくれた。ジャージ越しに感じる胸板の硬さと、確かな体温。耳元で、信くんの落ち着いた声がする。
「大丈夫か、名前」
大丈夫なわけがなかった。彼の腕の中にすっぽりと収まってしまった私の心臓は、今にも破裂しそうな程の激しさで、鼓動を打っている。一気に血が集まり、耳まで熱くなるのが分かった。信くん、近い。近過ぎる。彼の吐息が髪を揺らすだけで、全身の力が抜けてしまいそうだった。
信くんは体重を支えたまま、片方の手で、アスファルトの上に落ちている星形のクッキーをすっと拾い上げた。私の掌をそっと取り、静かに載せてくれる。
「これ、名前が取ろうとしとったヤツやろ」
触れた指先が熱い。信くんの指は、バレーボールの練習で少し硬くなっているけれど、私に接する時はいつも、壊れ物を扱うように優しい。穏やかな温度が手の平を焼き、心まで溶かしていく。
「……ありがとう」
辛うじて、お礼を伝えるので精一杯だった。信くんはゆっくりと身体を離し、何でもないように立ち上がる。だけど、外灯の明かりに照らされた耳が、僅かに赤らんでいるのを、私の目は見逃さなかった。
路地裏の喧騒が、いつの間にか遠ざかっている。子供達の声も音楽も、分厚い硝子を一枚隔てた、向こう側の出来事みたいだ。世界に、私と信くんの二人だけしか居ないような、静かで満たされた沈黙。
「髪、伸びたな」
信くんが、私の髪にそっと触れた。彼の指が、慈しむように髪糸を梳く。手つきが余りに優しくて、泣きそうになるのをぐっと堪えた。
"自分のことは、誰もちゃんと見てない"なんて、信くんに失礼だった。この人は、こんなにも真っ直ぐに、私のことだけを見てくれている。私が髪型を変えたことも、新しい服を下ろしたことも、偶に元気がないことも、いつだって真っ先に気づいてくれるのは、彼なのだから。
「……信くん」
「ん?」
「好きだよ」
衝動的に、口から言葉が零れ落ちていた。彼は少しだけ双眸を見開いた後、ふは、と柔らかく笑った。笑顔が、私の胸をぎゅっと締め付ける。
「俺もやで、名前」
信くんは、私の片手を取り、指を絡めた。繋がれた手指から、彼の体温がじんわりと伝わる。
「店、入ろか」
私達は並んで、オレンジ色に染まる路地裏を歩き始めた。古書の上に置いて運ぶ星形のクッキーは、まだ仄かに熱を残して、甘い香りを放つようだった。冬が、直ぐそこまで来ていることを知らせる冷風が、私達の隙間を吹き抜ける。けれど、繋いだ手はちっとも冷たくならなかった。
信くんの弱点は静電気。私の弱点は、信くん。
だったら、これから訪れる冬季は、私にとって、一寸だけ試練を齎す季節になるのかもしれない。それでも、信くんの為に編んだ手袋をプレゼントすれば、きっと大丈夫。そんなことを考えながら、隣を行く彼の横顔を、そっと盗み見た。
ハロウィンの魔法が解けても、この温もりだけは絶対に消えない。そう確信していた。