橙色が笑う
十月最後の日は、どうにも落ち着かない空気を孕んでいた。
部活を終えた俺は、自販機でぐんぐんヨーグルを買い求め、ピースサインでボタンを押し込む。がこん、と鈍い音が立ち、落ちたパックを引き抜きながら見上げた空は、既に深い藍色に染まり始めている。外灯がぽつりぽつりと燈り、家路を急ぐ人々の間を、やけに浮かれた色彩が通り過ぎる。黒と橙。紫と緑。頭に奇妙な飾りを着けた連中が、けたけたと甲高い笑い声を漏らしている。ハロウィン、とか言ったか。テレビでそんな特集をやっていたのを、ぼんやりと思い出す。俺にとっては、全国大会を前に、貴重な練習時間を一日消化した、只の水曜日に過ぎない。
「……浮かれてるな」
誰に言うでもなく呟き、飲むヨーグルトを一気に呷る。甘ったるい液体が咽喉を滑り落ちる感覚だけ、妙に現実的だった。バレーのこと以外、どうでもいい。全国で勝つこと。最強のセッターになること。俺の脳内は、二つの目標へ向かう最短経路を探すことで、常に満杯だ。他の奴らが、季節の行事に現を抜かしている間、俺は一本でも多くトスの練習ができる。それでいい。それがいい。そう思考を締め括った瞬間、ポケットの中で携帯電話が短く震えた。
画面に表示された名前を見て、心臓が一つ跳ねる。苗字名前。俺の思考回路に唯一、バレーボールと同じ熱量で割り込むことを許された存在。
『飛雄くん、今、どこ?』
『部活終わりかな。逢いたいな』
短い二つのメール。それだけで、頭の中に構築されていた最強セッターへの最短経路図は、いとも容易く、ぐしゃりと丸められてしまう。断る、と云う選択肢は初めから存在しない。指が勝手に返信を打ち込んでいた。
『終わった。今から行く』
直ぐに『待ってる』と云う返事と、小さなカボチャの絵文字が送られる。にんまりと笑う口許がどうにも、名前の悪戯っぽい笑みと重なって見えた。
スポーツバッグを担ぎ直し、苗字家のマンションへと足を速める。道すがら、増々奇っ怪な格好をした集団と、何度か擦れ違った。血糊を付けた白衣の女、背中に黒い羽を生やした男、顔を白く塗ったピエロ。異世界に迷い込んだような心許なさに、無意識に眉間の皺が深くなる。こいつらは一体、何が楽しいんだ。
見慣れた高級マンションのエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。この建物には、名前と彼女の兄、それから管理人しか住んでない。静寂に包まれた廊下を進み、一番奥まった部屋のチャイムを鳴らすと、直後に扉が開かれた。
「やあ、飛雄くん。よく来たね」
そこに立っていたのは、名前の兄である、兄貴さんだった。いつも通り、柔和な笑みを浮かべている。だが、俺の視線は胸元にプリントされた、達筆な毛筆体の文字に釘付けだった。
『南瓜大明神』
「……ウス」
「名前なら、奥だよ。さあ、入って。今日は、俺も腕に縒りを掛けて、南瓜の冷製ポタージュを作ったんだ。もう食べたけどね。きっと物語の神も、南瓜の神も、君達の恋を祝福してくれる」
一方的に語って、俺の肩をにこやかに叩く兄貴さんの思考は、名前と同じくらい、よく分からない軌道を時々描く。苗字家の血筋は、皆、こうなのか。曖昧に会釈してリビングへ向かうと、ソファに座って本を読んでいた名前が、顔を上げた。
「飛雄くん、お帰り」
「……おう」
彼女がそう挨拶するだけで、町中で感じていた得体の知れない居心地の悪さが、すうっと霧散する。夜の海を想起させる静かな双眸が、俺を捉える。白い頬が、ほんのりと上気しているように見えた。普段と変わらない、俺の名前だ。安堵したのも束の間、彼女は徐に立ち上がると、俺の前に仁王立ちした。
「トリック・オア・トリート」
凛、と響いた声は、言葉の意味を教えてはくれなかった。
「……あ?」
「お菓子をくれないと、悪戯しちゃうよ」
くすくすと悪戯っぽく笑う顔は、メールのカボチャの絵文字そのものだ。訳は分かったが、納得はできない。抑々、お菓子を持ってるワケがない。
「菓子なんか持ってねえ」
「そう。じゃあ、悪戯だね」
名前はそう言い返すと、どこからか取り出した黒いカチューシャと、同じ色のフサフサした何かを、俺に突き付けた。カチューシャには、ピンと立った三角形の耳が二つ。
「……なんだ、これ」
「猫」
「は?」
「飛雄くんは黒猫。わたしは魔女。そう云うことにしよう」
名前は有無を言わさぬ口調で、俺に猫耳カチューシャを装着しようと、背伸びをする。全力で抵抗した。俺は烏野のセッターだぞ。猫になって堪るか。
「やめろ!」
「どうして? きっと似合うよ」
「似合うとかの問題じゃねえだろ!」
「じゃあ、何の問題?」
「……っ!」
純粋な瞳で問われ、言葉に詰まる。何の問題かと問われれば、プライドの問題であり、羞恥心の問題であり、そして何より、バレーに関係ないと云う最大の問題だ。だが、この状況で、どう説明すればいい。俺が押し黙った一瞬の隙を突き、名前はひょいと、俺の頭にそれを載せた。腰の辺りには、針金の入った尻尾らしきものが器用に巻き付けられる。
「……うん。凄くいい」
満足気に頷く名前の手には、いつの間にかスマートフォンが握られていた。無慈悲なシャッター音が、静かなリビングに響き渡る。
「消せ! 今直ぐ消せ!」
「わたしの宝物にするから、駄目」
「ボゲェ!!」
ぷい、とそっぽを向く彼女を捕まえようと伸ばした腕も、ひらりと躱される。一連の動きは、コート上のリベロみたいにしなやかだった。暫く続いた攻防は、キッチンから漂う香ばしい匂いに因って、呆気なく終止符が打たれた。
「……カレーか?」
「うん。ポークカレー温玉載せ、南瓜入りの特別仕様」
そのメニューに、俺の腹がきゅう、と鳴る。抗議の声も、猫耳への羞恥心も、全て食欲と云う巨大な本能の前に掻き消えた。大人しくテーブルに着くと、湯気の立つカレーライスが眼前に置かれる。橙色のカボチャがゴロゴロと入ったカレーは、名前がいつも作ってくれるそれより、少しだけ甘くて優しかった。夢中でスプーンを口に運ぶ俺の姿を、名前は頬杖を突きながら、物静かに、只嬉しそうに眺めていた。
目の前で、わたしの黒猫が熱心にカレーライスを食べている。頭に生えた耳が、飛雄くんの動きに合わせ、ぴこぴこと揺れるのが堪らなく愛おしい。普段は誰よりも鋭い眼差しで、コート上に君臨する厳しい王様が、今は腹を空かせた只の少年の顔をしている。このギャップを知っているのは、世界でわたしだけならいいのに、なんて独占欲が鎌首を擡げる。
飛雄くんがハロウィンなんてものに、興味を示す筈がないことは分かっていた。季節の行事、古代の収穫祭が形を変えた、異国の風習。そんなお祭りより、彼にとっては一本のトス、一回の練習の方が、ずっと価値がある。でも、どうしてもやりたかったのだ。
幼い頃、わたしは身体が弱く、四季が巡るのを、いつも病室のベッドの上から眺めていた。友達が仮装をして、お菓子を貰いに回る話など、遠い国の物語のように聞いていた。だから、こうして大切な人と一緒に、細やかでも雰囲気を味わってみたかった。わたしの世界に、飛雄くんと云う鮮やかな彩りが加わってから、今まではモノクロだった催し物が意味を持ち始めたのだ。
カレー皿を空にして、満足気な息を吐いた彼に、わたしは声を掛ける。
「飛雄くん」
「あ?」
「少し、付き合ってほしいな」
わたしはリビングの照明を消し、部屋の隅に並べておいた幾つものジャック・オー・ランタンに、一つずつ火を灯す。兄が彫ってくれたもの、わたしが初めて刻んだ歪なもの。大小様々な南瓜のランタンが、刳り抜かれた目や口から、柔らかな橙色の光を放ち出した。
室内は瞬く間に幻想的な光彩で満たされる。揺らめく炎が、飛雄くんの端正な顔立ちに深い陰影を落としていた。青みがかった黒い諸目が燈火の色を映し、きらきらと燃えている。その美しさに、わたしは息を呑んだ。
「綺麗だね」
「……おう」
ぶっきら棒な返事。でも、声が常よりも一寸だけ穏やかなことに、わたしは気づいている。飛雄くんはきっと、この光景を脳裏に焼き付けているのだろう。セッターとして、コートの全てを把握するように。
不意に、強い衝動に駆られた。
橙色の光の中で、飛雄くんの微笑みが見たい。
飛雄くんは笑顔を作るのが、破滅的に下手だと云うことは承知している。チームメイトとコミュニケーションを取る為に練習しているらしい、不気味に引き攣った笑みではない。本当に、心が動いた瞬間にだけ垣間見える、ほんの僅かな表情の変化。それが見たい。
「ねぇ、飛雄くん」
「なんだ」
「笑って」
わたしの唐突なお願いに、彼は怪訝そうな顔をした。しかし、直ぐに何かを察した様子で、ぎこちなく口角を引き上げようと努め始める。ぐ、ぐぐ、と音がしそうな程の不自然さで歪む唇。必死な面持ちに、思わず、くす、と笑声が漏れてしまった。
「なっ、なんだよ!」
「ふふ、ごめん。飛雄くん、面白い顔」
「てめっ……!」
ムキになって怒る彼の形相が、余りにも可愛らしくて、わたしの笑いは止まらない。暫く肩を震わせて笑壺に入っていると、些か呆れたような、困ったような彼の相好が、ふ、と崩れた。
気の所為程度に口許が綻ぶ。鋭い目つきが、微かに和らぐ。
満面の笑みとは到底呼べない、極小の変化。
それでも、揺らめく橙色の煌めきに照らされた一瞬は、わたしの目には、何よりも輝いて見えた。
橙色が笑う。
刳り抜かれた南瓜のランタン達が、一斉に笑っている。
そして、わたしの王様も、今、確かに笑った。
わたしは彼の隣に寄り添い、肩に頭を預ける。猫耳にそっと指で触れると、びくりと身体が強張った。
「……悪戯は、まだ終わってないよ」
「……もういいだろ」
「良くない。お菓子を貰っていないから」
「……早くやれよ」
拗ねたようでいて、全てを許容する声色。わたしは彼の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。オレンジ色の発光の中で、二つの影が一つに重なった。唇から伝わる不器用な熱が、甘いお菓子よりもずっと、わたしの心を満たしていく。
「来年も、こうしてくれる?」
「……憶えてたらな」
きっと、飛雄くんは忘れない。橙色の夜を、コート上の記憶と同じくらい、鮮明に刻み込むだろう。
窓の外では、どこかで祭りの喧騒が続いている。けれど、その音はもう、わたし達だけの深閑な世界には届かなかった。