全裸の兄、散らかった思考。君が来るまでは、ここはただの混沌だった。

「……行くか」  誰に言うでもなく、僕は静かにそう呟いた。息が白く見える程ではないが、夜風は確実に肌を刺す。日がとっぷりと暮れた道を、外灯の頼りない光だけを頼りに歩く。今日はバレー部の練習が予想以上に長引き、体育館の熱気とは裏腹に、身体は芯から冷え切っていた。シャワーで流した汗の代わりに、重たい疲労が肩に圧し掛かっている。  しかし、そんな倦怠感など、今の僕にとっては些末な問題だった。  何故なら、僕には今、どうしても行かなければならない場所があったからだ。  それは、僕の恋人――苗字名前が住む家。  彼女の住むマンションは、僕の家から少しだけ離れた閑静な住宅街にひっそりと建っている。エントランスには住人の名を示すプレートすらなく、訪問者を試すかのように無機質なインターホンがあるだけ。まるで、彼女自身のミステリアスな雰囲気をそのまま体現したような、どこか秘密めいた場所だった。  僕と名前は、紛れもなく恋人同士だった。互いにとって、恐らくこれが初めての恋愛であり、単に"付き合っている"という言葉だけでは言い表せない、もっと深く、静かな繋がりを築き上げてきたつもりだ。僕の合理的な世界観は、彼女と出会ってから確実に、そして心地よく歪み始めている。  だけど、僕らの関係には、常に一つの予測不可能な変数が存在する。  それは―― 「お邪魔しまーす……」  合鍵でエントランスを抜け、エレベーターで目的の階へ。玄関の鍵も静かに開け、リビングへと続くドアに手を掛けた瞬間、僕は文字通り、思考を一時停止させられた。目の前の光景が、脳の処理能力の限界を軽々と超えてきたのだ。  そこに居たのは、苗字兄貴さん。名前の兄であり、時折、突拍子もない言動で、僕を困惑させる人物。彼がリビングのソファに座っていること自体は想定の範囲内だ。問題は、その姿だった。 「……兄貴さん。あの、なんで……全裸、なんですか?」  僕の眼鏡越しの視界に映っているのは、リビングの主照明を一身に浴びながら、堂々とした態度で足を組み、ソファの上に鎮座する兄貴さんの姿だった。威厳がある、と言えなくもない。まるで古代ローマの彫刻が、何故か現代日本のリビングに迷い込んだかのような、或る種の荘厳さすら漂わせて。  但し、その彫刻は、服を着るという概念を完全に忘れているようだった。 「おお、蛍くん。ようこそ。待っていたよ」  悪びれる様子もなく、寧ろ歓迎の意を示すかのように、彼は穏やかに微笑む。 「ようこそ、じゃなくて」 「うん?」 「……なんで裸?」  僕は努めて冷静に、しかし内心の動揺を隠し切れない声で指摘した。  彼は心底不思議そうに小首を傾げる。 「……え? 服、着ていなかった?」 「着てないですけど」  無自覚で全裸になる状況とは一体。  僕はこめかみを押さえた。疲れている所為だろうか。もしかしたら、これは過度の疲労が見せる幻覚なのかもしれない。いや、しかし、目の前には紛れもない現実として、リビングのど真ん中で王様のように(或いは、もっと別の何かのように……いや、考えるのはよそう)鎮座する全裸の義兄(未来の予定)が、堂々とこちらを見ているのだから。 「兄貴兄さん……」  その時、背後から静かな足音が聞こえた。振り返るまでもなく、名前だとわかる。彼女は軽やかにリビングへと姿を現し、柔らかな髪がさらりと肩を滑り落ちた。  その美しい、夜の湖面のような瞳が、まず僕を捉え、次にソファの上の兄へと向けられる。数秒の沈黙。場の空気を読むかのように、彼女は状況を冷静に分析しているようだった。  そして、彼女は矢張り、動じることなく口を開いた。 「……蛍くん。兄貴兄さんは、どうして裸なの?」 「いや、僕が聞きたいんだけど」  思わず、即座にツッコミを入れてしまった。何故、僕が説明を求められる流れになっているのか。  当の兄貴さんは、妹の登場にも全く動じず、寧ろ待ってましたとばかりに口を開く。 「名前。これには非常に深く、哲学的な理由があってね……」 「理由はどうでもいいから、今すぐ服を着てほしいな」  名前の声は、何の抑揚もない、平坦なものだった。しかし、その静かな響きには、有無を言わせぬ奇妙な圧力が込められている。 「あ、ああ、わかった」  意外なほど素直に、兄貴さんは立ち上がった。  いや、待て、急に立ち上がるな。視界に入る情報量が増えるだけだ。 「待って、せめて、何か……前を隠すとか……」  僕の悲鳴に近い懇願に、彼は「おっと、すまないね。配慮が足りなかった」と、悪びれずに言い放つ。 「『おっと』で済む問題じゃないですよね?」  僕が抗議しても、名前は隣で黙り込んでしまっている。いや、君の兄でしょ? もっとこう、危機感と言うか、羞恥心と言うか、そういうものはないの?  そんな混沌とした状況の中、兄貴さんは近くに置いていたらしい上質なカシミアのブランケットを手に取り、それを体に巻き付けた。古代ローマのトーガのように見えなくもないが、根本的な問題は解決していない。 「よし、これでいいだろう」  彼は満足げに頷く。 「良くないです」  僕は心の底から、人生でこれほど明確に否定の言葉を発したことがあっただろうかと自問した。  その後、名前が「説明して」と静かに促すと、兄貴さんは少しだけバツが悪そうな顔をしながらも、渋々といった体で口を開いた。 「いや、何。風呂上がりに少し考え事をしていたら、インスピレーションが湧いてきてね。そのままの勢いでソファに座って、思考の海に深く潜っていたんだ」 「……?」  僕の脳は、その説明を理解することを一瞬拒否した。 「いや、どういう理屈でそうなるんですか」 「俺は今、新しい物語の構想を練っているんだ」 「はあ、それは、まあ、知ってますけど」 「タイトルは、『全てを失った男が、リビングのソファで己と対峙する時、そこに何を見るのか』。その孤独と虚無感をリアルに表現する為には、まず自らが無垢なる状態、つまり……」 「何を思おうが、服は着てください。話はそれからです」  僕のツッコミが、疲労した身体に鞭打って炸裂する。しかし、当の兄貴さんは依然として真剣な表情を崩さない。 「それで、蛍くん。君はこの状況について、客観的にどう思う?」 「何がですか」 「"全裸でリビングのソファに座り、深遠なる思索に耽る男"というモチーフについて、だ」 「控え目に言って、最悪ですね。通報されても文句は言えないレベルかと」 「そうか……。矢張り、読者に訴え掛けるには、絶望感がまだ足りない、ということか……。もっとこう、社会からの疎外感とか……」 「いや、そういう問題じゃないです。根本的に間違ってます」  なんだ、この不毛なやり取りは。  部活でクタクタになるまでボールを追い駆けた挙句、何故、僕は恋人の家で、全裸(今はブランケット一枚)の男性と芸術論まがいの問答を繰り広げなければならないのか。誰がこんな展開を想像しただろうか。
「……ふぅ、これで良し、と」  漸く上下スウェットに着替えた兄貴さんが、先程まで身に纏っていたブランケットを丁寧に畳み始めた時点で、僕の心臓の鼓動も正常値に近いところまで落ち着いてきた。一体なんなんだ、この精神的な負荷は。春高予選のフルセットの方が、まだマシかもしれない。 「やれやれ、なんだか頭がすっきりしたよ。ありがとう、蛍くん。君のお陰だ」  彼は晴れやかな顔で、僕に礼を言う。 「僕、何もしてないですけど。寧ろ、精神的に削られました」 「いやいや、君が居るだけで、凝り固まっていた思考が解きほぐされ、新たなアイデアが泉のように湧き出てくるんだ。矢張り、君は"物語に導かれる存在"なんだよ。ミューズ、とでも言うべきか」 「導かれた先が、全裸の男が鎮座するリビングだったんですが、それは」  何故、僕の人生には、こうも頻繁に"真顔で的確なツッコミを入れなければならない不条理な瞬間"が発生するのだろうか。  全く、名前と付き合うようになってからというもの、僕の緻密で理性的な人生設計には、常にどこかしらで予定外の、そして、大概は理解不能なイベントが組み込まれ続けている。 「じゃあ、俺はそろそろ執筆部屋に戻ることにするよ。邪魔者は退散だ」 「はあ……お疲れ様です」  にこやかに微笑む兄貴さんは、矢張り最後までよくわからない人だった。  だが、少なくとも"妹の恋人に対して、全裸で応対する"という常軌を逸した奇行に、罪悪感や羞恥心といった感情を抱くタイプの人間ではないらしい。いや、そもそも、妹の恋人でなかったとしても、普通にアウトなのだが。  兄貴さんが書斎に引っ込んで暫く、リビングには心地よい静寂が戻ってきた。  僕と名前、二人きり。間接照明が落とす柔らかな光が、部屋全体を落ち着いた雰囲気で包んでいる。まるで、高級ホテルのラウンジにでも居るかのような、穏やかで満たされた空気感。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。 「……ごめんね、蛍くん」  ぽつりと、彼女が小さな声で謝罪の言葉を口にした。 「兄さん、いつもはあんな風じゃないのだけれど。今日は……ちょっと、変なモードに入ってしまっていたみたい」 「いや、大丈夫。最初は流石に面食らったけど、もう慣れてきたから」 「慣れないでほしいな」  名前が小さく呟く。その言葉と、少し困ったような、それでいて可笑しそうな表情に、僕は思わずふっと笑ってしまった。  肩の力が抜け、張り詰めていたものが緩やかに解けていく。彼女の唇に浮かんだ柔らかな笑みが、それだけで今日一日の疲労とストレスを、魔法のようにすーっと溶かしていくようだった。 「ねぇ、蛍くん」 「ん?」  名前が遠慮がちに、僕の服の袖を小さく引いた。その無言の合図に従って、僕は彼女の隣に腰を下ろす。  上質なソファが、僕の体重を受け止めて、少しだけ軋む。二人の距離が縮まり、彼女の纏う独特の、甘くも切ないような香りがふわりと鼻腔を擽る。 「蛍くんがここに来てくれると、散らかっていた世界がちゃんと整う気がするの」 「また、詩的なこと言って……」 「だって、本当のことだから」  名前の声は囁くように静かだったけれど、その響きには確かな芯が通っていた。  僕を見つめる真っ直ぐな瞳に、部屋の灯りが小さく反射している。それは静かな水面に映る月のように繊細で、深く、そして、少しだけ怖くなる程に綺麗だった。 「……僕だって、君が居るから、どうにかこうにか整ってられるんだよ。逆に、君が居なかったら、多分、僕はすぐにどこか決定的に壊れると思う」 「ふふ、そう。なら、わたし達、お互いにちゃんと補完し合っているってことなんだね」 「うん。まあ、端的に言えば、完全に依存し合ってるってことだね」  それは世間一般で言うところの健全な関係性とは、少し違うのかもしれない。けれど、僕らにとっては、これが疑いようもなく最適解なのだと確信していた。  恋とか、愛とか、そういうありふれた簡単な言葉では到底括り切れない、もっと静かで、深くて、そして、ずっしりと重たい結び付き。それが、僕らの形だった。  不意に、名前がこてん、と僕の胸に頭を預けた。  その、予想外の重みと温もりが、信じられないほど心地良い。彼女の柔らかな髪が、僕の顎の辺りを擽る。 「……今日は、泊まってくれる?」  耳元で囁かれた声は、少しだけ甘えていた。 「うん、そのつもりで来た」  名前の髪を優しく指で梳きながら、僕は静かにそう呟いた。  心の奥底の、自分でも気づかなかったどこかが、ほっと安堵する。言葉を交わさなくても、ただこうして傍に居るだけで、互いの存在の輪郭が、ふわりと温かく溶け合っていくような感覚。  これで、あの全裸の義兄(仮)が齎した強烈なインパクトも、少しは帳消しになる……筈だ。多分。きっと。そう願いたい。  窓の外は、もう完全に夜の帳が下りていた。  宮城の澄んだ空に浮かぶ月は、今夜は少しだけ欠けていて、それでも冬の空気の中で、やけに凛と明るく輝いていた。  僕らはきっと、こんな静かで、少しだけおかしな夜を、これからも何度となく重ねていくのだろう。  この、誰にも邪魔されない、二人だけの穏やかな部屋の中で。