青春、全裸、そして白檀。角名倫太郎と彼女の日常。

Title:白檀の香りに誘われて
 白檀の香りが漂うマンションのエントランス。  ガラス越しに差し込む初夏の日差しが、広々としたロビーの観葉植物を艶やかに照らしていた。  角名倫太郎は、インターホンに手を伸ばす。 『……はい』  すぐに聞こえてきたのは、名前の声。 「俺。着いた」 『うん、開けるね』  小さな電子音と共に、オートロックの扉が開く。  角名は軽く伸びをしながら自動ドアの向こうへと足を踏み入れ、エレベーターへ向かった。 (相変わらず静かなマンションだな)  広々としたロビーには、他に誰の姿もない。  エレベーターのボタンを押し、ゆっくりと上昇する箱の中で、角名はポケットに手を突っ込んだ。  扉が開くと、目の前で待っていたのは名前の弟――苗字だった。 「……よ」 「倫太郎、遅い」 「いや、普通の時間だろ」  そう言いながら、角名は彼の後ろにあるプライベートポーチを通り抜け、玄関のドアを潜る。  途端に、ふわりと白檀の香りが鼻を擽った。 「姉ちゃんは?」 「多分、リビング」 「ありがと。邪魔するよ」  角名が靴を脱ぎ、スリッパを履くと、はわざわざリビングの扉まで先導することもなく、すぐに自室へ戻ってしまった。 (まぁ、相変わらず愛想はないな)  そう思いつつ、角名は廊下を進んでいく。 (今日は、名前ちゃんとゆっくり過ごせるといいけど……)  リビングの扉の前で、角名は足を止めた。  何か違和感があった。普段と異なる空気が、扉の向こうから漏れてくる。 (気のせいか)  そう思い直し、扉を押し開けた。  そして、すぐにその考えを撤回することになる。  苗字兄貴が、全裸でソファに鎮座していた。  白檀の香りが漂う、上品な雰囲気のリビングの中で、それは異様な光景だった。  まるでギリシャ神話の彫像が間違えてリビングに降臨してしまったかのような――いや、ただの全裸の男だった。 「……」 「……」  沈黙の中、兄貴は微動だにせず、悠然と脚を組み、世界の理を悟った聖人のような表情を浮かべていた。  対する角名は、思考が一瞬フリーズした。 (……俺、間違えて別の世界線に迷い込んだか?) 「倫くん、いらっしゃい」  と、何事もなかったように名前が現れた。  手には氷の浮かぶグラスを持っている。  グラスの表面に細かな水滴が浮かんでいて、ひんやりとした感触が伝わってきそうだった。  どうやら、キッチンで飲み物を用意していたらしい。  彼女はゆっくりとソファに近づき、兄を一瞥する。 「兄さん、どうして裸なの?」 「……人は皆、生まれた時は裸だろう?」 「そういう話じゃないね」 「……風呂上がりに、ついダラダラしてしまったんだ」 「つい、で裸のままソファに座るもの?」 「時間の流れとは残酷なもので、気が付いたらこうなっていたんだ」 「……」  角名は目を閉じ、深く息を吸い込む。  白檀の香りが鼻腔を擽る。 (落ち着け。これは、名前ちゃんの家では日常なのかもしれない……いや、んなわけない) 「兄さん、もう昼過ぎだよ」  淡々と言い放つ名前に、角名は軽く吹き出しそうになった。 「……本当に?」  兄貴は壁掛け時計を見上げるが、特に焦る様子もない。  寧ろ、時間の概念そのものに疑問を抱いたような顔をしている。 「……まぁいいか。そろそろ準備しないと」 「準備?」 「今日は劇場で演劇を観る予定があるんだ。開演までに行かないと」 「待って」  即答だった。  角名は思わず目を細める。  この兄妹の会話は、どこか独特なテンポがあって、不思議と面白い。 「いや、でも約束が……」 「兄さん、演劇を観に行くのは構わないけれど、その前に服を着て」 「……」  兄貴は静かに頷き、隣に置いてあった黒いシャツを羽織った。 (あるんかい、服……)  心の中でツッコミを入れながら、角名はスマホを取り出し、パシャリと写真を撮る。  この奇妙な光景を記録しておかなければ、後で自分の記憶を疑いそうだったから。  すると、隣で名前が小さく微笑む。 「倫くん、今の撮ったの?」 「ああ、撮った。証拠写真としてな」 「ふぅん、それなら……」  名前は手に持っていたグラスをテーブルに置き、そっと角名の耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。 「わたしの写真も、たくさん撮って?」  その瞬間、角名の思考は一瞬で飛んだ。 (……こっちの方がヤバい)  名前の声は、白檀の香りと同じくらい甘く、強く心を揺さぶる。  いつもミステリアスで淡々としている彼女が、こうしてさり気なく攻撃を仕掛けてくるのだから、本当に油断ならない。 「……後でね」  誤魔化すように呟き、スマホをポケットにしまう。  テーブルの上のグラスが、ゆっくりと結露を落としていた。  角名の手の温度とは対照的に、それはひんやりと冷たく、そして確かに現実のものだった。 「倫くん?」  名前がじっと見上げてくる。  深海のような双眸に捕らえられると、どうしても逃げられなくなる。 「……」  角名は静かに名前の手を握った。 「……撮るのは後でって言ったけど」  低く囁き、名前の耳元に顔を寄せる。 「本当は、今すぐ撮りたい」  その言葉に、名前の長いまつ毛が僅かに揺れた。 「……倫くんは、時々大胆だね」 「名前ちゃんが、時々攻めてくるからな」  名前はふっと微笑むと、そっと角名の頬に触れた。  彼女の指先はひんやりとしていて、それが妙に心地よい。 「……そういうところも、好き」  その一言で、角名の理性が完全に崩壊しそうになった。 (マジで、この子……無自覚で言ってんなら、天性の小悪魔過ぎる)  白檀の香りが、静かに二人を包み込む。  その後、兄貴が「行ってくる」と言いながら劇場へと旅立ち、角名と名前はリビングに二人きりになった。  ソファに並んで座ると、名前がふと小さく息をつく。 「倫くん」 「ん?」 「……わたしの写真、本当に撮ってくれる?」  彼女は角名のスマホをそっと取り上げ、自分の膝の上で弄る。 「俺のカメラロール、ほぼ名前ちゃんの写真で埋まってるけど」 「ふぅん、それなら」  名前はゆっくりと、角名の方に身を寄せた。髪が彼の肩に触れる。 「もっと増やして」  その言葉は、深い井戸に落とした小石のように、角名の心の中で静かに反響した。  名前の瞳に映る自分を見つめながら、彼は思わず喉を鳴らす。 「……名前ちゃん、ほんと、時々ヤバい」 「わたしはいつも通りだよ」  そう言いながら、名前は穏やかに微笑んだ。  角名はスマホを構え、シャッターを切る。  画面に映る彼女の瞳は、夜の海のように深く、どこまでも引き込まれるようだった。 (俺、こいつに一生勝てる気がしねえ……)  そんなことを思いながら、角名はもう一度、シャッターを切った。  白檀の香りが、ふわりと空気に溶けていく。  その香りの記憶と共に、彼の心に刻まれたのは――名前の、どこまでも魅力的な微笑みだった。