君と見る、遮られた景色。

Title:ガスマスク越しに空を眺める
 俺は今、自分の人生において、恐らく最も理解不能な状況の渦中に居る。  視界を覆うのは、呼気で微かに曇る分厚いレンズ。鼻腔を満たすのは、ゴムと活性炭フィルターの独特な匂い。 「……なんで俺、ガスマスクなんて着けてんの?」  絞り出した声は、マスク内部でくぐもり、どこか間抜けに響いた。  目の前では、元凶である筈の女――名前が、何事もなかったかのように優雅な手つきで紅茶を淹れている。ここは彼女の部屋のベランダだ。夜の帳が降り始めたばかりの、まだ青みが残る薄闇の中、白い指先がティーカップの縁を滑る様は、それだけ切り取れば古い西洋画の一場面のようにも見える。揺れる絹糸のような髪が、その幻想的な雰囲気を助長していた。  だが、現実は非情だ。その美しい光景の中で、俺だけが物々しいガスマスクを装着させられているのだ。このアンバランスさ、シュールレアリズムも大概にしてほしい。 「臣くんの為だよ」  事もなげに、それが世界の真理であるかのように、名前は言う。その涼やかな声には、悪びれる様子など微塵もない。 「お前は着けないのか?」 「うん、わたしは平気だから」  何がどう「平気」なのか、皆目見当もつかない。俺の理解が追いつく前に、名前はティーカップに琥珀色の液体を注ぎ終えた。ふわりと、ベルガモットの香りが漂う。……フィルター越しにかすかに、だが。  そもそも、何故、俺がこんな場所に居るのか。話は数分前に遡る。彼女のマンションを訪れ、リビングへ向かおうとした、正にその瞬間。「待って、臣くんはこっち」と有無を言わさず手を取られ、半ば強引にベランダへと押し出されたのだ。そして、そこに用意されていたのが、この旧ソ連製と思しき、やけに本格的なガスマスクだったというわけだ。装着を拒否する間もなかった。 「生物兵器でも蔓延してるみたいな扱いだけど、リビングに何があるんだ」 「特に何も。ただ……敢えて言うなら、兄さんが居る」  名前は少しだけ視線を泳がせ、そう付け加えた。 「……成る程な」  その一言で、全てを察した。いや、察してしまった。  つまり、またアイツは――苗字兄貴は、生まれたままの姿で寛いでいる、と。そういうことだろう。 「あの人、本当に服を着るっていう基本的な生活習慣がないのか?」 「ううん、あるよ。ちゃんとクローゼットにたくさん持っている。ただ、時々、その存在を忘れるだけ」  大問題だ。それはもう「習慣がない」と同義ではないか? 俺の衛生観念が警鐘を鳴らしている。 「でも、大丈夫。臣くんの方が、わたしにとっては大事だから、こうして安全な場所に避難させているんだよ」 「その心遣いはありがたいが、避難場所の選定に問題がある。せめて普通にお前の部屋の中とか、もっとマシな場所はなかったのか」 「それだと面白くないでしょう?」  悪戯っぽく笑うな。こっちは真剣なんだ。俺はフィルター越しに、重たい息を吐き出した。ゴホッ、と乾いた音がマスク内で反響する。 「名前、俺はもう、お前の家のリビングの扉を開けるという行為自体を、人生の選択肢から除外した方がいいのかもしれない」 「どうだろう? 開けてみないと分からないこともあると思うけれど」 「お前の家のリビングって、"開けたら即死トラップ"か何かが仕掛けられてるの?」 「そんなことないよ。大丈夫、臣くんはもう、兄さんには認められているから」  彼女が言うのは、数日前の出来事だろう。あの夜、苗字兄貴がきちんと衣服を身に着けた状態で現れ、「妹のことを、頼むよ」と、世界の秘密でも打ち明けるかのような神妙な面持ちで俺に言ったのだ。あの瞬間、俺はこの常識外れの家における何らかの"試練"を乗り越え、或る種の平穏を手に入れたのだと、そう思っていた。  ……なのに、何故だ。何故、俺は今、ガスマスクを着けてベランダに立たされているんだ? 試練はまだ終わっていなかったと言うのか。 「臣くん、見て」  ふと、名前が細い指で空を示した。促されるままに視線を上げる。  そこには、都会の夜景が広がっていた。  夜の帳が完全に降りる直前の、マジックアワー。空の最も高い場所は深い藍色に染まっているが、地平線の近くにはまだ燃えるような夕焼けの残滓が細く長く横たわり、その鮮やかなオレンジ色が徐々に紫へ、そして夜の黒へと溶け込んでいく美しいグラデーションを描いている。眼下には、無数のビル群の灯りが星屑のように瞬き始め、ヘッドライトを点灯させた車列が、光の川となって地上を流れていた。 「綺麗だね」  そう呟く名前の声は、夜風に溶けるように柔らかく、儚げだった。 「……そうだな」  俺は、ガスマスクの視界制限の中で、その広大なパノラマを眺める。  レンズ越しに見える景色は、どこか現実感を欠き、妙に遠く感じられた。まるで、分厚いガラス一枚を隔てた別世界を見ているようだ。  それでも、隣に名前が居る。その事実だけで、この奇妙で息苦しい状況すら、不思議と受け入れられるような気がした。この不条理すら、彼女と共有する時間の一部なのだと思えば、悪くないのかもしれない、と。 「臣くん、ガスマスク越しの空はどう? いつもと違う?」 「最悪だ。視界は狭いし、息は苦しいし、お前の横顔もよく見えない」 「そう。でも、臣くんのことを有害なものから守る為だから。我慢して」 「……俺はこれから、毒ガスを吸わされる予定でもあるのか?」 「ううん、ただ、全裸の兄さんの存在そのものが、臣くんにとって精神衛生上有害かなって判断しただけ」  その判断は、悲しいかな、的確だ。否定できない自分が居る。 「名前、お前は本当に俺のことを考えて、これを着けさせているのか。それとも、単にこの状況を楽しんでるだけなのか。正直に言って、どっちだ?」 「両方かな」  即答だった。清々しい程の迷いのなさだ。 「ふふ、でもね、臣くんがこうして、ちょっと不機嫌そうにしながらも、ちゃんとわたしの隣に居てくれるだけで、わたしは凄く嬉しいんだよ」  そう言って、名前が俺の手にそっと自分の手を重ねた。グローブ越しではない、素肌の感触。ガスマスクを着けている所為か、他の感覚が鋭敏になっているのかもしれない。彼女の指先の、驚くほど滑らかな感触と、確かな体温が、じんわりと伝わってくる。 「……俺は?」  思わず、問いが口をついて出た。自分でも意図しない、掠れた声だった。 「?」  名前が小首を傾げる。その仕草が、やけに鮮明に見えた。 「俺は、お前の隣に居ることで、ちゃんとお前を守れているのか? こんな状況で、ガスマスクなんか着けさせられてる、俺が」  潔癖で、人付き合いが苦手で、不器用な俺が。お前の隣に立つ資格があるのか。そんな不安が、ふと胸を過った。  名前は少しだけ驚いたように、大きな瞳を瞬かせた。それから、ゆっくりと、慈しむような、それでいて全てを見透かすような、複雑な微笑みを浮かべた。 「うん。わたしはいつも、臣くんに守られているよ。臣くんが隣に居てくれる、ただそれだけで、どんなものよりも心強い盾になってる」  その言葉が、フィルターを通した呼吸よりも深く、俺の肺腑に染み渡った。マスクの中で、強張っていた表情が僅かに緩むのを感じる。 「じゃあ……そろそろ、これ、外してもいい? 流石に限界だ」  俺はガスマスクのラバー製の生地に手を掛ける。今度こそ、この息苦しい拘束から解放される筈だ。 「うーん……もうちょっとだけ、ダメかな」 「何故だ。もう兄貴も引っ込んだかもしれないだろ」 「そういう問題じゃなくて。もう少しだけ、このままでいてほしいの」  名前はそう言うと、俺の腕に、まるで猫がするように、そっと自分の額をこすり付けてきた。夜風が、彼女の髪を優しく揺らす。マスク越しでなければ、その匂いも感じられただろうか。  ガスマスク越しの空は相変わらず息苦しくて、視界も狭い。都会の喧騒もどこか遠い。  けれど、隣には名前が居る。彼女の温もりが、確かに伝わってくる。  それだけで、この奇妙な状況すら悪くないと思えてしまうのは――いや、寧ろ、この状況だからこそ際立つこの親密さを心地よく感じてしまうのは――  俺が、この厄介で、愛しくて、どうしようもない恋に、骨の髄までどっぷりと浸かっているからなのかもしれない。  そんな結論に至り、俺は再び、フィルター越しに重たい息を吐き出すしかなかった。