リビングに閉ざした心。

Title:心の扉
「お邪魔します」  そう告げて、苗字家のリビングの扉を開けた瞬間、俺の直感が警告を発した。この世には、決して開けてはならない扉が存在する――今まさに自分がその禁忌を犯したのだと。  リビングの中央。  黒髪の男が堂々と足を組み、骨董品のような高級感漂うコーヒーカップを片手に持ちながら、古城の主の如く偉そうな姿勢でソファに鎮座していた。問題は、その男が全裸だったことだ。肌の露出が放つ衝撃は、真夏の直射日光のように、俺の網膜を焼いた。 「……」 「……」  俺は一歩、本能的に後退った。スリッパを履いた足の裏から伝わる床の感触だけが、これが現実であることを残酷に主張していた。 「お帰り、名前」  全裸のまま、まるで高級レストランで料理を評する美食家のような落ち着いた声色で、名前に声を掛ける男。その余裕が逆に恐ろしかった。 「ただいま、兄貴兄さん」  名前、お前は動じろ。動揺しろ。何かリアクションをしろ。  目の前の異常事態に対し、日常の一コマを切り取ったかのように自然に返事をする彼女に、俺の思考回路はショートし掛けた。寒気と同時に熱が背中を駆け上がる。 「……ちょっと待て」  耐えられず、乾いた唇を開く。声が予想より高く出た気がした。 「何故、お前は服を着ていない?」 「俺の家だからだ」  言葉の間にある「当然だろう」という無言の主張が、更に状況を非現実的にしていく。 「いや、俺の知る限り、ここは名前のマンションだろう」 「俺の家でもある」 「……そうなの?」  思わず、名前に確認の視線を送る。彼女の瞳には困惑の色は一切なく、寧ろ楽しむような光が宿っていた。 「うん。ここは父が用意してくれたマンションで、今は兄さんと二人暮らしなんだ」  その説明は以前から聞いていた。だが、今、目の前の状況とリンクして、別の意味を持ち始めていた。 「それは知ってる。でも、だからって全裸で寛いでいい理由にはならない」  論理的に反論しようとする自分が、この状況では滑稽にさえ思えた。 「まぁ、風呂上がりだからね」  兄貴さんは肩を竦め、更にゆったりとソファに深く腰を沈めた。その仕草が妙に優雅で、状況との不釣り合いさが頭痛を誘発する。 「タオルくらい巻け……!!」  俺の叫び声が、静かなリビングに木霊する。俺の中では、窓ガラスが震えたかと思う程の声量だった。しかし、当の兄貴さんは、まるで季節の変わり目を眺めるような無関心さで、微動だにしない。 「成る程……君が聖臣くんだね」 「そうだが、それより服を着ろ」  服の着用を促す言葉が、雨の中で放つマッチの火のように無力に思えた。 「ふむ」  兄貴さんはじろりと俺を見つめ、瞳の奥で何かを計算するように観察した後、満足げに頷いた。 「清潔感がある。いいね」  その評価は、試験官から優秀な成績を告げられるような感覚を一瞬だけ呼び起こした。しかし、直後に現実に引き戻される。 「褒められても嬉しくない……」  声に込めた皮肉は氷の表面を滑るように、彼の上を通り過ぎていった。 「俺は妹の恋人には厳しくするつもりだったが、君はなかなか良い。潔癖らしいし、余計な菌を妹に付ける心配もない」 「全裸のお前にだけは言われたくない」  俺の精神は限界を迎えていた。頭の中では非常ベルが鳴り響き、逃げ出したい衝動と、名前を置いていけないという責任感が相克していた。 「なぁ名前、普通、こういう状況なら、驚いたり呆れたりしないのか?」  最後の望みを託して、名前に訴える。彼女の表情には不思議そうな色が浮かんだ。 「兄さんは昔からこうだからね」 「納得するな」  名前の言葉は砂漠に消える水滴のように、状況の異常さを少しも潤さなかった。 「臣くん、兄さんの裸を直視して平気?」  その言葉に秘められた意地悪さに気づかない振りをしながら、俺は必死に視線を天井に固定した。 「平気なわけないだろうが……!!」  恐らく人生で初めて、声帯の限界を超えた叫びを上げた。それは怒りと言うより、理不尽な現実に対する哀願のようだった。  兄貴さんはそんな俺を科学実験の被験体でも観察するかのように面白そうに見つめると、コーヒーを一口啜り、咀嚼するように味わってから、ゆっくりと立ち上がった。  やめろ、立つな。その動きは一切必要ない。 「俺はそろそろ服を着るとしよう。実は物語のアイデアを考えていてね、『裸の王様』をモチーフにした話を書こうと思っていたんだ」  その言葉には、一瞬だけ彼の職業に対する尊敬が生まれ掛けたが、すぐに消え去った。 「俺を巻き込むな」  兄貴さんは微かな勝利の色を浮かべ、漸く自室へと消えていった。ドアが閉まる音が、解放の鐘のように心地よく響いた。 「……」  俺は肺の底から深く息を吐き、緊張から解放された筋肉の痛みを感じながら呟いた。 「名前、俺はもう二度と、このリビングの扉を開けたくない」 「臣くん、それは心の扉も含めて?」  彼女の問いには、思いがけない深みがあった。一瞬、哲学的な議論に誘われそうになる。 「当たり前だ」  しかし、名前は月明かりに照らされた水面のように静かに微笑み、俺の腕にそっと指先を這わせた。その仕草には、どこか神秘的な儀式のような意味合いを感じた。 「ふふ、開けてもいいのに」  名前の囁きは耳の奥で反響し、背筋に電流を走らせた。 「絶対に嫌だ」  断固として拒絶の言葉を吐きながらも、名前の体温が腕を通して伝わると、思春期の男子特有の生理現象が静かに始まる。血流の変化が心音を早め、呼吸を浅くする。 「……取り敢えず、リビング以外の場所で過ごそう」  俺は疲労感と混乱を隠し切れない声でそう提案し、名前の手を引いた。彼女の指先は意外なほど温かく、その感触だけが現実を繋ぎ止めているかのようだった。  心の扉は少しずつ開いてもいいが、リビングの扉は二度と開けないと誓った夜。記憶の中に永遠に刻まれた、苗字家との最初の邂逅の日だった。