浮かびながら、堕ちていく。君と作った宇宙の中心へ。
年が明けて、吐く息の白さが、冬の厳しさを物語る一月。俺は最寄り駅の改札を抜け、マフラーに顔の下半分を埋めた。空気が硝子のように澄み渡り、突き刺すような冷たさが思考を明瞭にさせる。部活帰りの身体は心地良い疲労感に満ちているが、この道の先に待つ温もりを思うと、足取りは驚く程に軽かった。
ワインレッドの夜以来、俺と
名前の関係は、また一つ新しい局面を迎えた気がする。それは単に身体を重ねたと云う事実以上に、互いの心の最も柔らかな部分に、躊躇いなく触れることを許し合った、と云う感覚に近い。俺の知らない彼女の顔、彼女の知らない俺の顔。その一つひとつを暴き、受け入れ、慈しむ。その行為は、どんな試合の駆け引きよりもスリリングで、どうしようもなく甘美だった。
見慣れた要塞のようなマンションのエントランスに辿り着き、俺はポケットからスマートフォンを取り出す。そして、最早、慣例行事となった儀式を執り行うべく、彼女の名前をタップした。数回のコール音が響いた後、涼やかな声が鼓膜を揺らす。
『もしもし、鉄朗くん?』
「おう、俺だ。今、下に着いた」
『うん、お疲れ様。待っているよ』
「なあ、
名前。一つ、確認なんだが」
『何?』
「……今日、お兄さん、服、着てるか?」
一瞬の沈黙。電話の向こうで、
名前が小さく息を吐く気配がした。
『うん。今日は大丈夫。ちゃんと着ているよ』
「そっか。なら良かった」
安堵の息を漏らし、通話を切る。全裸の哲学者との邂逅は、一度で充分だ。あれは、俺の精神に回復不能なダメージと、妙な畏敬の念を同時に刻み込んでいた。合鍵で重厚なドアを開けると、ひんやりと静かな空気が、俺を迎える。シン、と静まり返った廊下を進み、リビングのドアノブに手を掛けた。
「お邪魔します」
声を出しながらドアを開けると、上質な黒革のソファに、案の定、
名前の兄である
兄貴さんが鎮座していた。その身に纏うは、漆黒のTシャツ。胸元には、金色の糸で『〆切は概念』と、やけに荘厳な刺繍が施されている。以前、『〆切厳守』と云う信念を掲げていた男の変わり身の早さに、俺は心の中でそっとツッコミを入れた。
「おお、鉄朗くん。来たのか。見てくれ、この荘厳な刺繍を。俺の担当編集者への、静かなる反逆の狼煙だ」
「こんにちは、
兄貴さん。その狼煙、火種が大きくなり過ぎないことを祈ってます」
「ふむ。君は本当に良い子だね」
何がどう良い子なのかは不明だが、気に入られているのは確からしい。
兄貴さんは満足気に頷くと、ノートパソコンの画面に向き直った。その横で、
名前が「いらっしゃい」と微笑みながら立ち上がる。彼女が淹れてくれた温かいココアのマグカップを受け取り、その隣に腰を下ろした。
ふと、
兄貴さんがこちらを振り返る。その瞳は、新たな物語の断片を見つけた子供のように、きらきらと輝いていた。
「鉄朗くん。君は、成層圏と云う場所に興味はあるかい?」
「成層圏、ですか? バレーボールの届かない、遥か上の世界ってくらいの認識ですけど」
「そう、その遥か上の世界だ。次の物語の主人公はね、地上のしがらみの一切から解放されて、成層圏で恋人とランデブーするんだ。どうだい、ロマンチックだろう?」
「……はあ。随分と、スケールの大きい逢い引きですね」
俺が曖昧に相槌を打っていると、隣の
名前が、窓の外の夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「成層圏で、ランデブー……」
その声には、どこか夢見るような響きがあった。
兄貴さんが自室に籠もり、リビングが静寂に包まれた後も、
名前はどこか上の空だった。彼女の視線は屋外、都会の光害で数える程しか見えない星々に注がれている。
「成層圏って、どんな場所なんだろうね」
「さあな。空気が薄くて、めちゃくちゃ寒くて、青を通り越して、宇宙の黒が見え始める場所、とかじゃねぇの」
「……誰にも邪魔されない、静かな場所。世界の音が、全部、聞こえなくなるような」
名前の言葉に、俺は息を呑んだ。それは、このマンションの、この部屋そのものを言い表しているかのようだった。二人きりで居る時の、この満たされた平穏。互いの心音だけが響く、世界から切り離されたような感覚。
「わたし達は、もう、そこに行っているのかもしれないね」
意味深な科白と共に、
名前がこちらを振り返る。夜の海を想起させる瞳が、俺の心の奥底まで見透かそうとするように、じっと見つめてくる。その引力に抗えず、俺はゴクリと喉を鳴らした。
不意に、
名前はすっと立ち上がると、部屋の隅に置かれた、球体のスイッチに指を伸ばした。カチリ、と小さな音がした瞬間、世界が一変する。
室内の明かりが消え、壁と天井一面に無数の星々が映し出されたのだ。手の届きそうな距離に瞬く天の川、ゆっくりと流れる流星群。そこは日常から完全に隔絶された、静謐で、荘厳な宇宙空間だった。
「……プラネタリウムか。すげぇな」
「うん。これが、わたしの成層圏」
吐息と共に紡がれた言葉が、星屑の光に溶けていく。俺はただ呆然と、その光景に見入っていた。彼女が創り出した、この小さな宇宙。その美しさと、そこに招き入れられたと云う途方もない特別感に、胸が締め付けられる。
名前が、俺の隣にそっと戻る。そして、俺の肩に頭を預け、囁いた。その声は、星々の瞬きのように繊細で、蠱惑的だった。
「ねぇ、鉄朗くん。ランデブー、しようか」
その一言が、俺の中で最後の引き金になった。
駆け引きも、ポーカーフェイスも必要ない。この宇宙空間では、地上のルールなど、何の意味も持たないのだ。俺は彼女の提案に、ただ頷くことしかできなかった。
「……お手柔らかに頼むぜ、
名前」
いつもの軽口を叩いたつもりだったが、自分でも驚く程に甘く震えていた。
名前は嬉しそうに目を細め、その薄桃色の唇をそっと、俺のそれに重ねる。
それは、これまでのどんなキスとも違った。
激しい熱を伴うものではない。所有印を刻むような獰猛さもない。無重力空間を漂うように、ゆっくりと、どこまでも優しく、互いの魂の輪郭を確かめ合うような口づけだった。銀河を閉じ込めたような彼女の瞳が、至近距離で、俺を映している。その中に吸い込まれて、永遠に溶けてしまいたいと本気で思った。
唇が離れても、その余韻が、星の光のようにきらきらと漂い続ける。俺は
名前の華奢な身体を、壊れ物を扱うように、そっと抱き締めた。
「……降参だ。お前の創る世界には、到底敵わねぇよ」
「ふふ。違うよ、鉄朗くん」
腕の中で、
名前が擽ったそうに身動ぎする。そして、顔を上げて、真っ直ぐに俺を見つめた。
「鉄朗くんが居るから、わたしの世界は完成するんだよ」
その言葉は、どんな愛の告白よりも強く、深く、俺の心臓を撃ち抜いた。
ああ、そうか。俺達は互いの宇宙を創造し合う、唯一無二の共犯者なのだ。
手の平に残る合鍵の、冷たい感触。これが、この果てしない宇宙への扉を開く、たった一つの鍵。
俺は満天の星々の下、この腕の中に在る温もりこそが、俺の世界の恒星なのだと確信しながら、ゆるりと瞼を閉じた。成層圏のランデブーは、まだ始まったばかりだ。