全裸に凍る視線。
北信介は、今まさに目の前に広がる光景に思考が停止した。
いつものように
名前のマンションへと足を運び、リビングへと入った瞬間、北の視界を埋めたのは―― 堂々と脚を組み、王座に君臨するかのような姿勢で鎮座する
苗字兄貴。
しかも、一糸纏わぬ全裸で。
「……」
北は言葉を失った。この状況を説明できる言葉など存在しない。思考回路がショートし、頭の中が真っ白になる。なんやこれは。どうなっとるんや。現実とは思えない光景に、彼は静かに混乱していた。
「おぉ、信介くん。いらっしゃい」
軽やかな声音が、妙に張り詰めた空間に響き渡る。
兄貴は最も普通の状況であるかのように振る舞っていた。そんな調子で言うことか、と北は心の中で叫んだが、声に出す勇気はなかった。
「……すみません、状況の説明を頼んでもええですか?」
北は必死に冷静さを装いながら言葉を絞り出した。視線は意地でも
兄貴の顔から動かさない。目線を下げれば、見てはならないものが見えてしまう。
「うん? 風呂上がりにそのまま考え事をしていたら、気づいた時にはこうなっていたんだ。いやあ、無意識とは怖いね」
兄貴は当然のように答えた。その表情には困惑の欠片すらも見られない。
「いや、怖いんはこっちです」
北は反射的にツッコんだ。もはや怖いを通り越して、理解の埒外だった。常識が通用しない異世界に迷い込んだような感覚。
そんなシュールなやり取りの最中、キッチンの奥から足音が近づいてきた。
「信くん?」
透き通るような涼やかな声が聞こえ、北は思わず顔を向ける。そこには、シルクのように滑らかな髪をさらりと揺らしながら近づいてくる
名前の姿。薄い光に包まれたような、儚げで美しい佇まい。
――と、そんな詩的感想に浸っている場合ではない。北は現実に引き戻された。
「なぁ、
名前。お前の兄貴、全裸なんやけど」
言葉を選ぶ余裕もなく、北は率直に状況を指摘した。
「そうだね」
余りにもあっさりとした返答に、北は軽い眩暈を覚えた。なんや、この兄妹。いや、そこは驚くところちゃうんか。なんでそんな落ち着いとんねん。彼らの常識と自分の常識は、どこかでずれているのではないかという疑念が湧き上がる。
「
兄貴兄さん、服を着て」
名前はそっと提案した。その口調は、まるで「お茶でも飲む?」と聞くような自然さだった。
「うーん、そうだな。信介くんが来たことだし、そろそろ着るとしようか」
のそのそと立ち上がる
兄貴に、北は慌てて視線を天井に固定した。
「……俺、見てへんからな」
人生で初めて、他人の裸を見たくないと心から願った瞬間だった。額に冷や汗が浮かぶのを感じながら、北は必死に天井の模様を観察した。
兄貴が漸く服を着てリビングに戻ってくると、北は深い溜め息を吐き出した。緊張が解けた所為か、突然の疲労感が全身を覆う。
「なぁ、
名前。お前の家、いつもこんなにカオスなんか?」
北は本気で疑問に思った。これが
名前の日常なら、彼女の不思議な言動にも納得がいく。
「普段はそうでもないけれど……兄さんは時々、突拍子もないことをするんだ」
名前は少し申し訳なさそうに答えた。その表情には、兄への呆れと愛情が混在している。
「突拍子もないのレベル超えてるやろ……」
北は疲れ切った表情でソファへ腰を下ろした。どうにもならん状況というのは確かに存在する。だが、まさかこんな形で遭遇するとは思いもよらなかった。
すると、隣にちょこんと何かが降り立つような気配を感じた。横を見ると、
名前がこちらをじっと見つめていた。月光を閉じ込めたような瞳が、北の心を揺さぶる。
「信くん、嫌だった?」
その問い掛けに、北の思考はぐらりと揺らいだ。
名前の澄んだ双眸を見た瞬間、先程までの混乱や疲労が霧散するような感覚。混乱を洗い流す清涼剤のようだった。
兄貴の全裸という非日常が、彼女の瞳の奥に吸い込まれていく。
――あかん。
この子の前では、何もかもがどうでもよくなる。不思議な魔力を持っているとしか思えない。
「いや……まぁ、驚いたけどな」
北は正直に答えた。怒りや不満よりも、驚きが勝っていた。
「そう。わたしは、信くんが来てくれて嬉しいよ」
そう言って、
名前は少しだけ北に身を寄せた。僅かな距離の縮まりに、北の鼓動は急速に高まる。ミントと桜の混ざったような香りが鼻腔を擽る。
――やめろ。
そういう仕草をされると、思春期特有の現象が起きてしまう。北は慌てて心を落ち着かせようと深呼吸した。
なんとか平静を装いながらも、北は微かに距離を取った。焦りを悟られまいと、さり気なく体勢を変える。
「お前、無意識にそういうことするん、ほんま罪やぞ」
思わず本音が漏れた。
「?」
首を傾げる
名前の表情には、純粋な疑問が浮かんでいる。自分の言動が北にどんな影響を与えているか、本当に気づいていないようだった。
――どうにもならんのに、どうにもできん。
北は大きく息を吐いた。この不可解な状況、
名前への複雑な感情、すべてを飲み込むような溜息。今日という日は、或る意味で忘れられない一日になりそうだった。
翌日、学校の廊下で、北は窓から見える中庭の木々を眺めながら溜め息をついた。昨日の出来事が頭から離れない。
「どうしたんや、北?」
同じバレー部の尾白アランが、面白そうにこちらを覗き込んできた。常に好奇心に満ちた眼差しで、北の表情を読み取ろうとしている。
「……なんかもう、疲れたわ」
北は肩を落として答えた。
「また
名前ちゃん関連か?」
尾白の洞察は的確だった。北が溜息をつく理由の九割は
名前絡みだということを、周囲は既に把握していた。
「そうや」
北が短く答えると、尾白は興味津々といった表情で身を乗り出してきた。
「いやぁ、北の話聞いとると、
名前ちゃんってほんま不思議やな。で、今度は何があったん?」
尾白の期待に満ちた様子に、北は少し躊躇した。昨日の出来事は簡単に話せるものではない。だが、溜め込んでいても仕方がない。
「……お前、彼女の兄貴の全裸、見たことあるか?」
思い切って核心を突いた質問をした。
「は?」
尾白は目を見開き、次の瞬間、抑え切れない笑いが廊下に響いた。
「なんやそれ!? まじで? いや、北も大変やなぁ!」
予想通りの反応に、北は更に肩を落とした。
「笑い事ちゃうねん……」
北はげんなりとしながら、窓枠に突っ伏した。腕を組んでその上に額を乗せると、風が心地よい。
「まぁまぁ、そういうのも含めて、
名前ちゃんと付き合おうとるってことやろ?」
尾白の言葉には、友人としての優しさと揶揄が混ざっていた。
「はぁ……せやな……」
北はぼんやりと返事をしながら、脳裏に
名前の微笑みを思い浮かべた。不思議な行動、理解できない言動、そして予測不能な日常。それでも、彼女の隣に居たいと思う自分が居る。
――やっぱり、好きなんやろな。
どんなに振り回されても、結局、彼女の透明な瞳には敵わない。その事実を、北は静かに受け入れていた。
そう悟った北は、窓から差し込む春の陽光を浴びながら、静かに目を閉じた。これからも続くであろう
名前との不思議な日々に、密かな期待を抱きながら。