- 心臓だけやたら忙しい、宮侑の一日 -
「お邪魔しまーす」
俺の声は、物音一つしない大理石の床に吸い込まれて消えた。
苗字家のマンションは、いつ来ても生活感が希薄で、まるでモデルルームへ忍び込んだ気分にさせられる。管理人以外は、
苗字兄妹しか住んでいないと云う、
一寸した城みたいな場所だ。オートロックを抜けて、エレベーターで最上階へ。玄関の鍵は、預かっているそれを捻った。
リビングに入ろうとした瞬間、俺は己の目を疑い、静かに扉を閉めた。一回、深呼吸。うん、気の所為や。最近、練習がハードやったから、幻覚でも見たんやろ。そうに違いない。俺はもう一度、今度は勢いよくドアを開け放った。
「……気の所為ちゃうかったわ」
ソファの真ん中。そこには古代ローマの彫刻が如き威風堂々とした格好で、
名前の兄、
兄貴さんが鎮座していた。但し、身に纏っているのは神々しいオーラと、僅かな羞恥心の欠片もないと云う、絶対的な自信のみ。つまり、全裸だった。
「おや、侑君。よく来たね」
兄貴さんは最高級のガウンを羽織っていると錯覚する程に落ち着き払った声音で、俺を迎えた。手にはブランデーグラスが握られ、中では琥珀色の液体が優雅に揺れている。いやいや、状況と所作が全然噛み合っとらんて。あんた、今、生まれたままの姿やぞ。
「……
兄貴さん、あの、風邪引きますよ」
「ふむ。確かに、この部屋の空調は最新式だが、肌の乾燥が気になる年頃ではある」
論点、そこちゃうねん。俺が言葉に詰まっていると、パタパタと軽い足音がして、キッチンから、
名前が現れた。
「あ、侑。来てくれたんだね」
「
名前……いや、うん、来たけど……その、兄貴」
「ああ、
兄貴兄さん? 今、新しい物語の構想を練っているところなんだよ」
名前は事もなげに言って、俺の隣を擦り抜け、全裸の兄の前にガラスピッチャーを置いた。
「
兄貴兄さん、麦茶。ちゃんと、水分補給しないと」
「
名前、気が利くね。新作の主人公はね、己の権威を示す為に、"敢えて"全ての衣服を脱ぎ捨て、民の前に立つ、王様の物語なんだ。布切れ一枚の力にも頼らず、自身の存在だけで世界を平伏させることが可能なのか、と云う壮大なテーマで……」
壮大過ぎるわ。早よ、服着てくれ。俺は心の中で盛大にツッコミを入れながら、リビングの隅、観葉植物の陰へ隠れるようにして、腰を下ろした。視界の端に映る
兄貴さんの姿が、目に毒過ぎる。
「侑、こっちにおいでよ」
名前が手招きする。手には、彼女が焼いたらしいクッキーの載った皿。甘く香ばしい匂いが鼻腔を擽る。クッキーは食べたい。せやけど、全裸の王様の隣には座りたない。俺の葛藤を見透かしたように、
名前はくすりと笑った。その笑みは、冬の澄んだ空気に溶ける粉雪めいた儚さで、俺の心臓をいとも容易く鷲掴みにする。
「大丈夫だよ。兄さんは一度物語の世界に入ると、周りのことなんて見えなくなるから」
「そう云う問題ちゃうねんけど……」
結局、俺は引力に逆らえない惑星の如く、
名前の隣にノロノロと座った。
兄貴さんは麦茶をブランデーのように味わいながら、虚空に向かって、何やらブツブツと呟いている。本当に、俺のことなんか見えてへんらしい。
「はい、これ。昨日、侑が食べたいって言っていたから」
差し出されたのは、些か歪な星型のジンジャークッキーだった。一口齧ると、ぴりりとした生姜の刺激と、バターの優しい甘みが口中に広がる。めちゃくちゃ美味い。
「ん、美味いわ。サンキュ」
「良かった」
名前は嬉しそうに目を細めた。海底を想起させる深い色の瞳が、ほんの少しだけ和らぐ。この瞬間の為に、全裸の王様が支配するリビングに来たんやと思える程、彼女の笑顔は、俺にとっての全てだった。
暫く、二人でクッキーを摘まみながら、他愛もない話をした。次のバレーの試合のこと、クラスの変な奴のこと、新しく出たゲームのこと。俺との会話を、
名前はいつも楽しんでくれる。彼女のミステリアスな雰囲気は、俺の前でだけ、僅かに薄まる。それが堪らなく誇らしかった。
不意に、
名前が窓の外へ視線を移した。西に傾いた太陽が、雲の切れ間から、オレンジ色の光を投げ掛けている。
「ねぇ、侑」
「ん?」
「海へ行かない?」
「……海? 今から?」
時計を見れば、もう午後四時を回っている。冬の日は短い。今から海へ向かったところで、直ぐに陽は落ちてしまうだろう。それに、この時季の海なんか、凍えるレベルで寒いに決まっとる。
「うん、今から。行こう」
彼女は有無を言わせない、子供が悪戯を思い付いた時のような顔で笑った。俺の返事なんて、初めから関係ない、そんな表情。こう云う時の
名前には、誰も逆らえない。
「……しゃーないなあ。ほな、行こか」
俺が立ち上がると、
名前は満足気に頷いた。リビングを出る間際、ちらりと振り返れば、
兄貴さんはソファに寝そべり、天井に向かって、高らかに演説をぶっていた。「朕は裸の王ではない! 朕こそが、王そのものなんだ!」……もう、勝手にせい。
電車に揺られ、俺らは海を目指した。がたがたと規則的な振動が心地良い。窓から流れる景色を、
名前は黙って見つめている。その横顔は整っていて、精巧に作られた人形のようだ。こいつは本当に、俺の隣に居るんやろかと、時々不安が過る程に綺麗だった。
「何で、急に海なん?」
「ふふ、秘密だよ」
名前は悪戯っぽく笑い、俺の肩に頭を預けた。ふわりと甘い香りが漂い、俺の心音がどきりと跳ねる。電車の中やぞ、アホ。平静を装いながらも、耳が熱くなるのを感じた。こいつは、いつもこうだ。俺を予測不能な行動で振り回し、かと思えば、こんな風に不意打ちで甘える。心臓が幾つあっても足りん。
最寄り駅で下車し、潮風が吹き付ける道を歩く。空は既に茜色と深い藍色が混じり合うグラデーションを描き始めていた。オフシーズンの海は、世界に二人だけしか居ないんじゃないかと錯覚する程、静かで広大だった。
「うわ、さっむ……」
浜辺に降り立つと、容赦ない海風が頬を叩いた。思わず身を縮めると、隣で小さく笑う気配がした。
「侑、手」
俺が分厚い上着のポケットから手袋を取り出すより先に、
名前が冷たい指先に、自分の指を絡めた。彼女の手指は驚く程に温かかった。
「……お前、手ぇ温いな」
「侑が冷たいだけだよ」
繋がれた手を引かれるまま、波打ち際へと歩く。寄せては返す波の音が、ざあざあと耳元で響いていた。水平線の向こうに、太陽の光が名残惜しそうに沈んでいく。世界から色彩が失われる、魔法のような時間だった。
名前は不意に立ち止まり、俺を解放した。濡れて固くなった砂浜に、徐にしゃがみ込む。何する気やろ。そう思って見ていると、彼女は細い流木を拾い、砂の上に何かを書き始めた。
それは文字だった。一文字、また一文字と、大切な宝物を扱うかのように、ゆっくりと丁寧に綴られていく。俺は息を呑んで、その光景を見守った。
軈て完成した文章を読み、俺は思わず目を見開いた。
『宮侑と云う恒星の引力に捕らえられた、わたしは名もなき惑星。貴方の光を受け、漸く呼吸の仕方を知った。この軌道を外れることは、もうできない』
「……は?」
悪気なく、素っ頓狂な声が出た。ラブレター、か? 多分、そうやな。しかし、壮大過ぎて、意味が分からん。恒星? 惑星? 軌道? 俺、国語の成績、あんま良くないねんけど。
宇宙規模の告白に、どう反応すればいいか悩んで固まっていると、
名前は満足気に立ち上がり、砂の付いた枝先を眺めた。
「どう? 中々、詩的で良いでしょう」
「いや、詩的とか、そう云うレベルちゃうやん! 何かもう、SF小説の冒頭みたいやん!」
「ふふ、そうかな」
名前は楽しそうに笑う。その時だった。ざっぱーん、と一際大きな波が、俺らの足許まで押し寄せたのは。
「うわっ!」
慌てて飛び退いたが、時既に遅し。俺のスニーカーはぐっしょりと濡れ、
名前が時間を掛けて書いた壮大なラブレターは、あっと言う間に波に攫われ、跡形もなく消え去ってしまった。
「あ」
俺が呆然と呟く間に、
名前は洗い流された文字の跡を名残惜しそうに見つめ、悪戯が成功した子供のように、くるりと振り返った。
「これで、この想いは、わたしと侑と海だけの秘密になったね」
夕闇に溶ける直前の、柔らかな光の中で微笑む彼女は、この世のものとは思えない程に綺麗で、どこか悪魔的ですらあった。
「……お前、ほんまに……」
言葉が出てこない。呆れのような、愛しさが込み上げるような、ぐちゃぐちゃの感情が胸中で渦を巻く。俺は濡れたスニーカーのことなんかどうでもよくなり、
名前の肩を掴んだ。
「俺は恒星とか惑星とか、難しいことはよう分からん」
「うん」
「せやから、今度は、俺の言葉で言わせろ」
俺は彼女の冷たくなった手をもう一度握り締め、コートのポケットに突っ込んだ。
「
名前、好きやで。お前が居らんと、俺は息もできんくなる。それだけは、ほんま」
砂に書いたラブレターみたいに、波に消えたりせんように。風に飛ばされたりせんように。俺は有りっ丈の想いを込めて、目の前の、俺だけの惑星にそう告げた。
名前は一瞬だけ双眸を見開いたけど、直ぐにふわりと破顔した。
「うん。わたしも、大好きだよ、侑」
その返事だけで、俺の宇宙は完璧になった。全裸の王様が居る城に帰るのは、少し億劫だが、この温かい手を離さないでいられるなら、まあ、それも悪くないか。俺はポケットの中で、
名前の指をきゅっと包み込んだ。冬の海の匂いが、二人の間を優しく通り過ぎていった。