十二月二十四日。世間が浮足立つこの日、俺は致命的なカロリー消費を強いられていた。
気温は氷点下に迫り、呼気は白く濁る。街を行き交う人々は、赤や緑の包装紙に包まれた"幸福の具現化"みたいな箱を抱え、無駄に広い歩幅で歩いている。
俺、国見英にとって、クリスマスと云うイベントは"効率"の対極に位置する。人混み、騒音、強制されるハイテンション。全てが、俺のライフスタイル――如何に燃費良く、平穏に生きるか――に反している。
だけど、例外と云うバグは、常に存在する。
俺はその間違いの為に、北風が吹き荒れる中を進み、高級マンションのエントランスに立っていた。
このマンション、
苗字家が所有してるらしいけど、住んでいるのは、
名前と兄、管理人だけだと云う。俺は無機質なオートロックの盤面を操作し、エレベーターで最上階へと向かった。
ピンポーン、と電子音を鳴らす。
数秒後、扉が開いた。
「やあ、英君。メリー・クリスマス!」
現れたのは、
名前の兄、
苗字兄貴さんだ。
端正な顔立ちをしているのに、スウェットシャツの胸元には『原稿は燃やせば灰になる』と云う、作家としての業を煮詰めたような筆文字がプリントされている。この人の思考回路は、俺の理解の範疇を軽く超えてる。
「今晩は、お邪魔します」
「いらっしゃい。さあ、入って。今日は飛び切りの演出を用意しているんだ。『聖夜に迷い込んだ狩人と、囚われの珍獣』と云うテーマでね」
「……はあ」
珍獣、と云う単語に一抹の不安を覚えつつ、俺は室内へと足を踏み入れた。
広い。無駄に広い。バスケットコートが半面取れそうなリビングには、天井へ届きそうなクリスマスツリーが鎮座している。
そして、その傍らで、ソファに踏ん反り返っている少年が一人。
「よう、国見。遅かったじゃん」
「……
弟。お前も居たのか」
「当たり前だろ。姉貴の彼氏が、どんなツラして来るか、見定めてやる必要があんだよ」
名前の弟、
弟だ。カーディガンを羽織った生意気な中学生は、俺を見るなり、ニヤリと笑った。俺とこいつは、顔を合わせれば、低レベルな小競り合いをする仲だ。正直、あのテンションで相手をするのは、燃費が悪い。
「で、肝心の
名前は?」
「キッチンだよ。……見たら、腰抜かすぜ」
弟が親指で、奥を指差す。
腰を抜かす?
名前の可愛さに、と云う意味なら、日常茶飯事だ。彼女は、俺のクラスメイトであり、恋人だけど、その容姿は時々現実感を喪失させる程に整っている。
俺は溜息を一つ吐いて、キッチンの方へと歩を進めた。
「英くん」
鈴を転がすような、透明度の高い声が、俺の名前を呼ぶ。
視界に飛び込んだのは、確かに「腰を抜かす」光景だった。
そこに居たのは、普段の制服姿でも、私服の清楚なワンピース姿でもない
名前だった。
彼女は豪奢なベルベットの赤いドレスを身に纏っていた。それだけなら「気合が入ってるな」で済む。
問題は、
名前の頭部だ。
サラサラとした綺麗な髪の間から、立派な"角"が生えていた。
トナカイのカチューシャ、とか云う可愛らしい次元じゃない。
本物の樹木を加工したような、複雑に枝分かれした鹿の角みたいなオブジェが、
名前の頭に装着されているのだ。しかも、枝先には、小さなオーナメントや金色のリボンが絡み付いている。
「……
名前、それ」
「どう? トナカイの概念を構築してみたの」
彼女は真顔で、少し誇らしげに言った。
白い肌、硝子細工のように繊細な顔立ち、巨大な角。その姿はクリスマスと云うより、北欧神話の森の精霊か何かに見える。
「重くないの?」
「重いよ。首の筋肉が鍛えられそう」
「……今直ぐ、外した方がいいんじゃないか?」
「駄目だよ。これが、今日のメインなんだから」
名前はふわりと微笑み、ダイニングテーブルに置かれた、オードブルの器を視線で示した。
色とりどりの料理が並んでるけど、手に取ろうとはしない。
「英くん、お腹が空いた。あれ、食べたい……」
「ん? ああ、取ってほしいのか?」
手許に皿を寄せようとしたが、
名前は首を横に振った。そして、自分の両手を少し持ち上げてみせた。
「違うの。手が塞がっているから……英くん、食べさせて?」
「……手が塞がってる?」
よく見ると、
名前の両手首には赤いリボンが結ばれており、反対側は頭の"角"に繋がっていた。つまり、手を大きく動かせば、トナカイの角が引っ張られると云う、謎の拘束システムが出来上がっているのだ。
名前は、俺を上目遣いに見つめ、小さく口を開けながら待っている。
「……何の修行?」
「自分をプレゼントに見立てる、梱包術の一種だよ。
兄貴兄さんのアイデア」
「あの人のアイデアを採用するなよ……」
俺は頭痛を堪えつつ、フォークでローストビーフを刺し、
名前の口許へ運んだ。
彼女はハムっと口に含み、幸せそうに咀嚼する。
……可愛い。
悔しいけど、猛烈に可愛い。でも、状況がカオス過ぎる。
背後では、
兄貴さんが「素晴らしい! その背徳感と滑稽さの同居こそが芸術だ!」と叫び、
弟は「姉貴、マジでそれ、不便じゃねーの?」と呆れている。
俺は効率主義だ。無駄なことはしたくない。
だけど、目の前で頬を染め、不自由な格好で甘える彼女を見ていれば、不思議と「まあ、いいか」と云う諦めにも似た感情が湧く。
名前の為なら、多少のカロリー消費も、理解不能な演出も、許容範囲内になってしまう。これが"惚れた弱み"ってヤツなのだろうか。ほんと非効率的だ。
「英くん、次はこれ。塩キャラメル味のムースだよ」
「……好物だけどさ。それ、お前が食べるの?」
「うん。わたしが味見してから、英くんにあげる。……口移しで」
突然の爆弾発言に、俺の手が止まる。
名前は柔らかく笑い、俺の耳元で囁いた。
「……後で、わたしの部屋に来てね。このリボン、英くんに解いてほしいの」
要望に含まれた熱量に、俺の心拍数が跳ね上がる。
名前の瞳は、深海の底みたいに暗く、静かで、俺を捕らえて離さない引力を持っていた。
俺は無言で頷くことしかできなかった。
リビングの喧騒を抜け出し、わたしは自室のベッドに腰掛けていた。
頭上の"角"が、シャンデリアの光を受け、影を落としている。
兄貴兄さんが「これこそが現代アートだ」と言い張り、手渡されたこの角。正直、首が痛いし、リボンが絡まって動き難いけれど、英くんの反応見たさに着け続けてしまった。
英くん。わたしの、初恋の人。
英くんはいつも眠そうで、やる気がなさそうで、省エネを信条にしている。でも、わたしは知っている。本当は誰よりも周囲を観察していて、ここぞと云う時には、一番に頼れることを。
そして、わたしに対してだけ示す、独占欲の強さを。
――コンコン、と控え目なノックの音がした。
「……
名前。入るよ」
「うん、どうぞ」
ドアが開き、英くんが入室する。
彼は部屋に入るなり、カチャリと鍵を掛けた。手つきはスムーズで、無駄がない。
英くんは、わたしの前に立つと、呆れながらも、どこか愛おしそうな目つきで、頭の角を見下ろした。
「……まだ着けてたのかよ、それ」
「うん。英くんに飾り付けてもらおうと思って」
「飾り付ける?」
「そう。この角、まだ未完成なの。英くんの手で、好きなものをぶら下げて、やっと完成するんだよ」
わたしが答えると、彼は眉を顰め、わたしの隣に座った。
彼の体温が伝わる。体育館と制汗スプレーの清潔な香り。二つが混ざり合った、英くんの匂いが鼻腔を掠める。
「俺が好きなものって……塩キャラメルとか?」
「それでもいいけれど、もっと別のもの」
わたしは上目遣いに、彼を見た。
英くんの大きな手が、手首のリボンに触れる。
「……これ、解いていいんだよな」
「うん。解かないと、何もできないから」
英くんは器用な指先で、結び目を解き始める。するりと赤い紐が落ち、わたしの両手が自由になった。
けれど、頭部の角は、まだそのまま。
「重くない?」
「重い。……英くんの肩、借りてもいい?」
「……どうぞ」
わたしは、英くんの肩口に頭を預けた。彼の頬に角が当たらないよう、慎重に角度を調整する。
英くんの肩は広く、少し骨張っていて、とても安心する。
彼は、わたしの腰に手を回し、引き寄せてくれた。
「
名前」
「何?」
「その服、下はどうなってんの」
核心を突く質問。流石、観察眼に優れたバレーボーラーだ。
わたしは
一寸だけ顎を上げ、英くんの耳元で答えた。
「……英くんの好きな、面積の少ない下着だよ。今日は、黒のレースだったかな」
「……ッ」
息を呑む気配がした。
普段は冷静な彼が、わたしの言葉一つで動揺してくれる。それが堪らなく嬉しい。
わたしは、英くんの胸元に掌を当てた。トクトクと、やや速いリズムを刻む、心臓の鼓動。
「ねえ、英くん。この角、邪魔?」
「……邪魔だね。抱き締める時に刺さりそうだし」
「じゃあ、外してくれる?」
わたしが頼むと、彼は「最初から、着けるなよ」と呟きながら、わたしの頭上に手を伸ばした。
カチリ、と留め具の外れる音がして、重たい角が取り払われる。
フッと、頭が軽くなるのと同時に、ベッドへ押し倒されていた。
「……わぁ」
「これで、邪魔なものはなくなった」
英くんの顔が、直ぐ近くに在る。
垂れ気味の大きな双眸が、今は獲物を狙う肉食獣のように鋭くなっている。
いつもは"効率"を重要視する彼が、少しだけ乱暴に、わたしの髪を梳いている。
「英くん、怒ってる?」
「怒ってない。……只、呆れてるだけ」
「呆れているの?」
「何か変な角生やして、あんなリボンで縛られて……。他の男に見せたくないんだけど」
「家族だよ?」
「兄弟でも嫌だ」
拗ねたような口調が可愛い。
わたしは彼の首に腕を回し、唇を合わせた。
浅く重ねるだけの口づけ。でも、それだけで、英くんのスイッチが入ったのが分かる。
「……
名前」
「ん……」
二度目のキスは深く、長かった。
英くんの手が、背中のファスナーに移動する。冷たい指先が肌に触れ、ぞくりと背筋が震えた。
「……飾り付け、変更」
「え?」
「角じゃなくて、
名前自身に飾り付ける」
「……どうやって?」
英くんは意地悪く笑った。その表情はコート上で、相手の裏を掻いた時の顔に似ている。
「キスマークで。……赤くて目立つヤツ、沢山付けてやるよ」
「……英くん、それって」
「何? 嫌なの?」
「ううん。……嬉しい」
わたしは正直に答えた。
独占欲の強いわたしにとって、彼に"所有の印"を刻まれることは、至上の喜びだ。
英くんは満足そうに咽喉を鳴らすと、わたしの首筋に鼻を埋めた。
「……明日、部活休みだし。体力温存しなくていいから」
「ふふ、英くんが本気を出すの?」
「常にガムシャラなのは嫌いだけど……お前相手なら、例外」
ドレスが、床に滑り落ちる音がした。
窓の外では、雪が降り始めたかもしれない。
けれど、部屋の中は熱帯みたいに熱い。
取り外された"トナカイの角"が、ベッドサイドで寂しそうに転がっている。
でも、今のわたしには、最早、必要ない。
だって、わたしを捕まえてくれる"狩人"は、もうここに居るのだから。
英くんの指が、わたしの肌をなぞる。
その軌跡は、どんなクリスマスイルミネーションよりも鮮烈で、わたしを内側から輝かせてくれる。
わたしは彼に抱き付きながら、ぼんやりと考えた。
来年のクリスマスは、どう趣向を凝らそうかな。
兄貴兄さんが言っていた『全身リボン人間』も、悪くないかもしれない。
「……
名前、余計なこと考えてないで、俺に集中して」
「……うん。大好きだよ、英くん」
「……知ってる」
彼の低い声が、わたしの思考を溶かしていく。
メリークリスマス。
世界で一番燃費が悪くて、愛おしい夜が始まった。