夜の内に


 十二月二十四日の夜。  『Bakery Cotorie Anベーカリー コトリ庵』の看板に灯っていた小さなランプが消え、オリーブグリーンの扉に『CLOSED』と札が掛けられてから、もう一時間程が経っただろうか。オーブンの余熱がじんわりと空気を暖める店内は、シュトーレンやパネトーネを求めるお客さんでごった返していた昼間の喧騒が、嘘のように静まり返っている。棚に残ったパン達が放つ、小麦の焼けた甘さと、微かに混じる酵母の酸っぱさ。それが、コトリ庵の夜の匂いだった。  私は店の奥、日没からカフェスペースになる一角で、一人の訪問者を待っていた。テーブルの上には、コトコトと煮込んだビーフシチューと、この日の為に焼いた、特別なパン。コンパクトなツリーの置物と、控え目に瞬く豆電球が、ささやかな祝祭の雰囲気を醸し出している。壁に掛けられた古時計の秒針が、カチ、カチ、と静寂に律動を刻んでいた。  飛雄くんの誕生日は、二日前の二十二日。けれど、春高が目前に迫るバレー部は、一日たりとも気が抜けず、彼は追い込み練習に明け暮れていた。うちのお店もクリスマス商戦の真っ只中で、私は文字通り、パンの山に埋もれて過ごしていた。お互いに『おめでとう』や『頑張って』と云う、短いメッセージを交わすのが精一杯。漸く二人きりで逢える時間が取れたのは、聖なる夜の、こんな深い時刻だった。 「……遅いな」  ぽつりと漏れた独り言は、暖かな空気に溶けて消えた。部活が長引いたのかもしれない。もしかしたら、雪が強くなってきたのかも。窓の外に目を遣ると、外灯の明かりの中で、白い綿雪がはらはらと舞い落ちていた。積もる程ではないけれど、夜気の冷たさがありありと伝わる。  落ち着かなくて、ポケットから柚子のフレーバーのリップバームを取り出し、唇に薄く滑らせる。このフレーバーは、安心のスイッチ。大丈夫、と言い聞かせる為のおまじい。飛雄くんに用意したプレゼントは、カウンターの裏に隠してある。喜んでくれるかな。彼の好みについて、バレーボールとポークカレーの温玉載せ以外、今一掴み切れていない自分に、些か自信がなくなる。思考がマイナスに傾き掛けた、その時だった。  カラン、と。  静寂を破り、ドアベルが澄んだ音を奏でた。  弾かれたように顔を上げると、飛雄くんが息を切らしながら、ドアの所に立っていた。黒いダウンジャケットの肩や、ニット帽の天辺に、小さな雪の結晶を乗せて。吐息は真っ白で、普段から鋭い目つきは寒さの所為か、一層険しく見える。けれど、私を捉えた黒い瞳が、ほんの少しだけ和らぐ瞬間を見逃さなかった。 「お疲れ様、飛雄くん。寒かったでしょう」 「……おう」  ぶっきら棒な返事。でも、飛雄くんのそれが照れ隠しだと云う事は、もう知っている。彼はぎこちない足取りで中へ入ると、きょろきょろと店内を見回した。その視線が、テーブルの上に置かれたミニツリーで、ぴたりと止まる。 「早く、こっちにおいで。シチュー、温めてあるから」 「……サンキュ」  ダウンを脱いだ彼の姿に、思わず息を呑んだ。下に着ていたのは、見慣れた黒のTシャツ……ではなくて、黒地のスウェット。前身頃には、堂々と白抜きで『セッター魂』の五文字。  ……うん。知ってた。知っていたけれど。クリスマスだよ、飛雄くん。と云うか、スウェットバージョンもあったんだ……。心の中で、そっとツッコミを入れる。でも、そんな彼らしさが愛おしくて、口許が綻ぶのを止められなかった。  テーブル席に向かい合って座る。湯気の立つビーフシチューを、飛雄くんは初めて見る生き物でも観察するかのように、じっと凝視している。 「人参、星形になってる」 「ふふ、クリスマスだから」 「……すげえ」  何が「すげえ」のかは分からないけれど、飛雄くんはそう呟き、スプーンを手に取った。先の展開は、いつも通り圧巻だった。試合前のエネルギー補給みたいに、凄まじい勢いでシチューとバゲットが口の中へ吸い込まれていく。時々、「んまい」とか「このパン、うめえ」などと、ぽつりぽつりと単語が零れる。その度に、私の胸は焼き立てのパンみたいに、ふっくらと膨らんで温かくなった。 「合宿、どうだった?」 「! おう」  待ってました、とばかりに、飛雄くんの顔が輝く。そこからはもう、独壇場だった。全日本ユース強化合宿の為に、全国から集まった凄い人達の話。自分と同じ、セッターの話。今まで見たこともないような高さで跳ぶ選手の話。彼の言葉が、超高速のトスみたいに、次から次へと繰り出される。私は相槌を打ちながら、熱っぽく語る彼の面差しを眺めていた。バレーボールと云う、彼の世界の中心で燃え盛る太陽。この熱に触れていると、こちらまで心臓が熱くなる。  飛雄くんの話を聴くことは、好き。  でも、ほんの少しだけ。バレーに嫉妬してしまう夜があるのも、事実だった。  食事が終わり、デザート用のシュトーレンを切り分けていると、ふと、飛雄くんの様子がおかしいことに気づいた。先程までの饒舌さが、嘘のように口を噤み、何やら落ち着きなく視線を彷徨わせている。右手を何度もスウェットのポケットに突っ込んでは、また出す。その繰り返し。  眉間に寄せられた皺が、一段と深くなる。瞬きの回数も、心成しか増えているような。保健委員としての観察眼が、飛雄くんの些細な変化を拾い上げてしまう。 (もしかして、シチュー、本当は口に合わなかったのかな……)  不安が冷たい染みのように、胸に広がる。ううん、でも、あんなに綺麗に完食してくれたじゃない。じゃあ、何? ユース合宿で、何か嫌なことでもあったのかな。私が彼の話を、もっと引き出してあげるべきだった? 「あの、飛雄くん……?」 「っ、何だ」  びくり、と肩を揺らして、私を見る。その過剰な反応に、更に懸念が増していく。心臓が冷水に浸されたような、きゅっと縮こまる感覚。どうしよう。地雷を踏んでしまったのかもしれない。 「……ううん、何でもない」  これ以上、飛雄くんの機嫌を損ねるのが怖くて、そう誤魔化した。シュトーレンを皿に載せる。気まずい沈黙が、暖かな部屋の空気を徐々に冷やしていくようだった。  プレゼント、今、渡してもいいのかな。こんな雰囲気で。  迷ったけれど、このまま黙っている方がもっと苦しい。意を決して、カウンターの裏から紙袋を取り出した。 「あのね、これ。二日遅れちゃったけど、お誕生日おめでとう。それと……メリークリスマス」  差し出したのは、肌触りの良いスポーツタオルと、こっそり編んでいた濃紺のネックウォーマー。飛雄くんは大きく双眸を見開き、硬直した。不意を突く、クイック攻撃でも喰らったように。 「…………サンキュ」  長い沈黙の後、飛雄くんはそう言って、引っ手繰るように紙袋を受け取った。照明の所為ではないと分かる程、耳が真っ赤に染まっている。お陰で多少は安堵したけれど、彼の奇妙なそわそわは、更なる悪化の一途を辿った。  ポケットの中の何かを、命綱みたいに握り締めている。目が合うと、慌てて逸らす。挙動不審な様相に、私の心は完全に迷子になってしまった。  ネックウォーマー、色が気に入らなかったのかもしれない。手編みなんて、重かったのかな。  ぐるぐると巡る思考が、きりきりと胃を締め付ける。楽しい筈の夜が、着々と灰色に塗り潰されていく。窓の外の雪だけが、何も知らないと云うように、しんしんと降り続いていた。
 ヤバい。  めちゃくちゃ嬉しい。  名前から貰った、プレゼント。タオルは、直ぐにでも使える。手触りが良い。それと、ネックウォーマー。……手編み、だと? 信じられねえ。柔らかくて、温かい。鼻を埋めたら、きっと、名前の匂いがする。心臓が、ドクドクうるせえ。試合の最終盤より、速く脈打ってる。顔に血が集まって、沸騰しそうだ。  だが、問題はそこじゃねえ。  俺の右ポケットに入ってる、この小さな袋。これを、どうやって渡せばいいんだ。  ミッションは単純明快。クリスマスプレゼントこれを、名前に贈る。只、それだけ。なのに、その単純なことが、ブロックをち抜くより難しい。  今日、部活が終わった後、街のファンシーショップとか云う、名前と付き合ってなければ、一生足を踏み入れることがないであろう領域に侵入した。きらきらした物と、甘ったるい匂いで満ちた空間。完全にアウェイだ。女性客の視線が、背中に突き刺さる。 「彼女さんへのプレゼントですか?」  にこやかに訊いてきた店員に、声が裏返るのを止められなかった。 「……っス」  情けねえ。  何を選べばいいのか、全く分からん。店内を一時間近く、不審者みたいにうろついた。日向に相談したら、『寒いし、肉まん一択だろ!』と自信満々に言われ、月島には『王様が選んだものなら、どんなガラクタでも、憐れみで喜んでくれるんじゃない?』と煽られた。どいつもこいつも、役に立たねえ。  最終的に、藁にも縋る思いで、菅原さんに電話した。 『名前ちゃん、いつも手、綺麗にしてるだろ? それに、パン屋の手伝いで、水仕事も多いだろうし。ハンドクリームとか、いいんじゃないか?』  神か。菅原さんは神だった。 『確か、柚子の香りのリップ、よく使ってなかったっけ? 同じ系統のヤツなら、きっと喜ぶぞー』  ……やっぱ神だ。観察眼がえげつない。先輩として、格の違いを見せ付けられた。  そうして手に入れたのが、この小袋だ。俺にとっては、全国大会への切符と同じくらい、価値があるものだ。  だが、渡すタイミングが、全く、これっぽっちも、分からねえ。  シチューを出された時は、食うのに必死だった。あんな美味いもんを前にして、他のことなんか考えられるか。  じゃあ、デザートの時か? いや、名前が何か話してる。途中で遮るのは、違うだろ。セッターはスパイカーにとって、一番打ち易い状況を作るのが仕事だ。会話だって、同じ筈だ。  名前がプレゼントをくれた後。そこだ。それが、最高のセットアップ。最良のタイミング。  ……の筈だった。  いざ、その時になったら、声が出ねえ。右手がポケットの中で、縫い付けられたみたいに動かない。全身がガチガチに固まって、まるで、小心者が初めての公式戦に出る時みたいだ。  名前が不安そうな顔をしてる。  何でだ? 俺が、何かしたのか? ああ、俺が真顔だからか。笑顔だ。ここで、笑顔を作らねえと。  口角を、ぐ、と引き上げる。練習した、不気味じゃない方の笑顔。  名前の顔が、さっきより曇った。  違う、これじゃねえ! ボゲェ、俺の表情筋!!    マズい。俺が黙ってるからだ。何か言わねえと。何か……。 「……この、手刀練しゅとうれんってヤツ、美味いな」  言えた。完璧な一言だ。  名前が泣き出しそうな顔で、こくりと頷いた。  何でだ!?!?!?  ダメだ。このままじゃ……こんな空気は最悪だ。チームが全く噛み合わねえ時の、コート上の雰囲気みたいだ。息が詰まる。  こうなったら、もう、やるしかねえ。  日向へのトスと同じだ。余計なことは考えるな。ドンピシャで持っていけ。  俺はポケットから、小袋を勢いよく取り出すと、テーブルの上を滑らせるようにして、名前の目の前に突き出した。 「これ!!!!」  思ったより、デカい声が出た。静かな店内に、切羽詰まった声音が響き渡る。  名前は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、目をぱちくりさせている。その視線が、俺の手から放たれた、小さな袋に注がれている。  息を止めて、名前の反応を待つ。心臓が、及川さんのジャンプサーブをレシーブする瞬間のリベロみてえに、喉元までせり上がってきてる。 「…………開けて、いいの?」  か細い声で、名前に訊かれた。  俺は何も発することができず、只、壊れた人形みたいに頷いた。  名前の白い指がリボンを解き、小袋の口を開ける。中から現れたのは、小さなチューブ。菅原さんの情報に基づいた、柚子の香りのハンドクリーム。  名前が、ゆっくりと顔を上げた。  照明を反射して、きらきら光る瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、気の所為じゃねえ筈だ。 「……飛雄くん」 「……何だよ」 「……ありがとう。とっても嬉しい」  名前は礼を述べ、ふわり、と。  硬い蕾が綻んで、花が咲くみたいに笑った。  その笑顔は完璧なAクイックや、鉄壁のブロックを打ち破るスパイクよりも、鮮やかな力強さで、胸のど真ん中に突き刺さった。  全身の緊張が、すうっと解けていく。  早速、名前はチューブから少量のクリームを出し、手の甲に伸ばしている。ふわ、と、よく知ってる匂いがした。爽やかで、ほんのり甘い、柚子の香り。名前の傍に居る時に香る、俺を安心させる匂いだ。 「飛雄くんも」  名前はそう言って、俺の右手にハンドクリームを塗ってくれる。セッターとしての矜持が詰まった皮膚に、滑らかなクリームと、名前の温かさが広がっていく。  その感触に、全身の力が抜けて、椅子に深く沈み込みそうだ。 「いつも頑張っている手だから。大切にしてね」 「……おう」 「これで、ボールの感触、変わったりしない?」 「……多分、もっと良くなる」  俺がそう返すと、名前はもう一度、嬉しそうに笑った。  窓の外では、いつの間にか、雪が強くなっていた。音もなく降り積もる白が、世界中の雑音を吸い込んでいくみたいだ。  俺はハンドクリームが塗られた掌を、名前の手の甲に重ねて、そっと握った。彼女の指が驚いたように震え、それから優しく握り返してくれる。  夜は、まだ始まったばかりだ。  そして、この温もりが在る限り、どんなに寒い冬の晩だって、きっと乗り越えていける。  繋いだ手の体温を感じながら、俺は確信していた。