月色ギミック ∟限定版フィギュアを前に、不可解な世界に放り込まれた。

 人生において、最も理解に苦しむものの一つに、"姉と弟"と云う関係性がある。  僕と、兄の明光との間にあるのは、幼少期の憧憬と、それが故の拗れた反発心、そして、血を分けた者同士の言葉にはし難い奇妙な連帯感だ。それはそれで複雑怪奇な方程式だが、解を求める道筋は辛うじて見える。  でも、僕の恋人である苗字名前と、その弟である苗字の関係は、僕の乏しい観測データでは解析不能な領域にあった。  或る晴れた土曜の午後、僕はその未知なる方程式のど真ん中に、何の予告もなく放り込まれることになったのだ。 「蛍くん。弟の買い出しに付き合ってほしい」  事の発端は、名前からのそんな一言だった。  部活が休みだったその日、僕らは駅前のカフェで、来週に迫ったテストの範囲を確認していた。窓から差し込む柔らかな陽光が、彼女の夜色の髪を淡く照らしている。その穏やかな光景に気を許していたのが、僕の慢心だった。 「買い出し? 別にいいけど、僕が行く必要あるの」 「うん。蛍くんの理知的な意見が聞きたいから」  名前はこう云う時、人の性質を的確に言い表す単語を絶妙な響きで使う。まるで、自尊心を心地良く擽る呪文のようだ。僕がその呪文に滅法弱いことを、彼女はきっと知っている。  僕らはカフェを出て、駅前のとある商業ビルへと向かった。一歩足を踏み入れると、眩暈がする程の電子音や、あらゆる色彩が氾濫する情報の洪水、そして、独特の熱気が渦巻く空間が広がっていた。僕の日常とは縁遠い、所謂、サブカルチャーの専門店が軒を連ねるフロアだ。  待ち合わせ場所に立っていたのは、名前と似た雰囲気の整った顔立ちを持ちながら、その瞳に姉とは違う、どこか挑戦的な光を宿した少年だった。苗字名前の一つ下の弟。 「……遅い」  彼は開口一番、僕の顔を値踏みするように一瞥し、不機嫌そうに呟いた。そのカーディガンの袖から覗く指先が、携帯ゲーム機のボタンを苛立たしげにタップしている。 「ごめんね、。道が混んでいたから」 「別に。……で、そいつが、姉貴の彼氏?」  「そいつ」と云う代名詞に、僕の眉間に皺が刻まれる。対するは悪びれる様子もなく、僕の頭の天辺から靴の爪先までを、品定めでもするかのように眺め回した。 「月島蛍です」 「……ふーん」  僕の自己紹介を、は鼻先で軽くあしらい、くるりと踵を返した。 「行くぞ。時間が惜しい」  その背中を、僕と名前は黙って追い掛ける。その時点で既に、僕の精神力ゲージは急速に削られ始めていた。  が僕らを導いたのは、フロアの奥にある、巨大なホビーショップだった。  店内に踏み込んだ刹那、未知の惑星に降り立った、宇宙飛行士のような気分になった。プラスチックと印刷インクの混じった、独特の匂い。棚と云う棚に、ぎっしりと詰め込まれたフィギュア、プラモデル、キャラクターグッズの箱。その全てが、僕の日常とは完全に断絶された世界の法則で動いているように見えた。 「今日の目当ては、これ」  が足を止めたのは、一際派手な装飾が施された一角だった。そこに掲げられたポスターには、『クロノ・アーティファクト -終焉の聖女と七つの遺産-』と云う、何とも壮大なタイトルが躍っている。どうやら、これが彼の好む"マニアックなゲーム"らしい。 「黎明の魔剣士ゼファーの、1/7スケールフィギュア。先月、発売されたばかりの、グリムシェードカンパニー製だ。けど、個体差が激しいってレビューが上がってる。特に顔のアイプリントと、魔剣"レヴァンテイン"の塗装に」  は、僕には到底理解できない言語で、流れるような説明を続ける。その瞳は、獲物を前にした猛禽類のように鋭い。  その鋭利な眼差しが、不意に僕を捉えた。 「で、月島。お前、どれが"アタリ"だと思う?」  来た。予測はしていたが、余りにも理不尽なパスだ。ガラスケースの中にずらりと並んだ、同じ顔、同じポーズのフィギュア。僕に言わせれば、どれも等しく現実味のない、派手な衣装を纏った人形に過ぎない。 「……さあ。どれも同じに見えるけど」  正直な感想を口にすると、は心底呆れたと云うように、盛大な溜息を吐いた。 「だから、素人は困る。よく見ろ。一体一体、全然違うだろうが」  隣で、名前がくすくすと楽しそうに笑っている。どうやら、この状況を特等席で観劇するつもりらしい。僕のSOSを込めた視線は、彼女の悪戯っぽい微笑みによって、いとも容易く弾き返された。  僕は観念して、ガラスケースに顔を近づけた。こうなれば、ヤケだ。恐竜の化石を鑑定する古生物学者のように、徹底的に観察してやる。 「……まず、このマントの靡き方。空気抵抗を無視し過ぎじゃない? こんな布量なら、もっと重力に引かれて垂れ下がる筈だけど」 「は?」 「それから、この剣。装飾は細かいけど、柄と刀身のバランスがおかしい。重心が完全に先端に寄ってる。こんなの、実戦じゃ手首を痛めるだけデショ」  僕が理屈っぽいケチを付け始めると、の眉がピクリと動いた。 「……何言ってんだ、お前。これはファンタジーなんだから、物理法則とか関係ないだろ」 「ファンタジーにも、それをそれらしく見せる為の説得力は必要だと思うけど。例えば、こっちの限定版。ポーズは派手だけど、体幹が確りしてる。踏み込んだ左足の母指球に、ちゃんと体重が乗ってるのが分かる。背中から腰に掛けての筋肉のラインも、こっちの方が自然だ」  僕が指差したのは、通常版より数千円は高い、豪華な台座付きのフィギュアだった。その瞬間、の双眸が僅かに見開かれる。 「……お前、なんで……」 「別に。見てれば分かるし」  僕は、そのフィギュアの頬をガラス越しに目で追った。滑らかな曲線を描く、陶器のような肌。作り手の執念すら感じる造形美に、思わず見入ってしまう。  その時だった。 「……わたしの蛍くんの滑らかな指先が選んだものなら、きっと素晴らしいに違いないよ」  静かな、しかし、店内の喧騒の中でも明瞭に届く声で、名前が言い放った。  僕の思考が、瞬時にフリーズする。  が、ぎょっとした表情で、僕と彼女を交互に見た。僕の顔面に、じわりと熱が集まっていくのを感じる。 「……姉貴、今、なんて……」 「だから、この限定版にしよう、。蛍くんのお墨付きだからね」  名前は、僕の羞恥心など意にも介さず、にこやかに結論づけた。  僕はもう、何も言えなかった。ただ、燃えるように熱い顔を俯かせることしかできない。この姉弟は二人揃って、僕の理性を破壊する為に生まれてきたのかもしれない。  は何か言いたげに口を開き掛けたが、結局は「……ふん。まあ、見る目だけは、あるみたいだな」と、小さな声で呟くだけだった。その耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、僕は見逃さなかった。  結局、は限定版フィギュアの方を購入したが、精神的に疲弊し切った僕は、帰りの車内で殆ど口を利けなかった。  最寄りのバス停に着き、と別れる間際、彼がぼそりと言った。 「……今度、新しく出るDLCのボス攻略、手伝えよ。お前、頭だけは良さそうだし」  それは、彼なりの最大限の歩み寄りなのだろう。僕は「え? 嫌だけど」と返したが、その声に、もう刺々しさは残っていない。  の背中を見送った後、僕の手にそっと、名前の手指が絡められた。 「ありがとう、蛍くん。、凄く嬉しそうだった」  名前の指が、僕の指に優しく触れる。その温かさが、ささくれ立っていた心をゆっくりと癒していく。 「……君が、楽しんでただけでしょ」 「うん。わたしの好きな人達が、わたしの知らない一面で話している姿を見るのは、とても面白かった」  その悪びれない物言いに、僕はもう笑うしかなかった。  そうだ。僕はどうしようもなく、彼女の不可解さに弱いのだ。  この精神的拷問と引き換えに、名前の嬉しそうな顔が見られるのなら、まあ、偶には悪くないのかもしれない。 「……ショートケーキ。奢ってくれるなら、赦してあげなくもない」  繋がれた手に少しだけ力を込めると、名前は花が綻ぶように、幸せそうに微笑んだ。その笑顔の前では、どんな精巧なフィギュアの造形も色褪せて見える。僕だけの、世界でたった一つの宝物。  今日の出来事が、後に別の形で、僕に更なる精神的拷問を齎すことになるとは、この時の僕は、まだ知る由もなかった。



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