半透明のクラゲが教えてくれた | Title:募る思い
肩口に感じる、
名前ちゃんの小さな頭の重みと、柔らかな髪の感触。シャンプーの甘い香りが脳の奥まで溶けて、さっきまでの心臓を鷲掴みにされるような緊張がゆっくりと解けていく。俺のTシャツを掴む指先に込められた、僅かな力。その一つひとつがどうしようもなく愛おしい。
ああ、本当に敵わない。
この子には、一生勝てる気がしない。
心の中で何度目かの白旗を揚げながら、俺は彼女の温もりを確かめるように、そっと抱き寄せる腕に力を込めた。ポケットのスマホがまた震えた気もするけれど、もうどうでもいい。
兄貴さんの幻影を追い払い、今はただ、この瞬間に身を委ねていたかった。
壁の時計が、カチ、コチ、と静かに時を刻む。永遠に続きそうな、穏やかで満ち足りた時間。
その静寂を破ったのは、腕の中に居る、この世界で一番予測不可能な女の子だった。
ふ、と
名前ちゃんが身動ぎし、俺の肩から顔を上げる。夜の海を閉じ込めたような瞳が直ぐ間近で、俺を見つめていた。その潤んだ眼差しに、また心臓が妙な音を立てる。
「倫くん」
「……ん?」
「やっぱり、一つだけ開けてみない?」
……は?
今、なんて?
思考が数秒間、完全に宇宙の彼方へ飛んだ。聞き間違いかと思ったが、
名前ちゃんの視線は真っ直ぐに、ローテーブルの上に転がっている例の箱へと注がれている。その表情は悪戯を思い付いた子供のように無垢でありながら、同時に何かを探るような真剣さも湛えていた。
「……開けるって……マジで?」
「うん。どんなものなのか、ちゃんと見ておきたいなって。……二人で、一緒に」
二人で、一緒に。
その言葉の響きが、聖なる儀式の誘い文句みたいに、俺の耳に届いた。断る、という選択肢が脳内から綺麗さっぱり消去される。この子のこういう真っ直ぐな探究心と、何でも共有しようとしてくれる純粋さが、俺の理性をいとも簡単に麻痺させるのだ。
「……分かった」
観念して頷くと、
名前ちゃんは嬉しそうに目を細めた。そして、宝箱を開けるみたいに慎重な手つきで、箱から銀色の個包装を一つ取り出した。
俺の手の平に収まってしまいそうな、小さな四角い袋。それがやけに重たい意味を持っているように思えて、ゴクリと喉が鳴った。
二人して、ソファの上で身を寄せ合い、その銀色の袋を無言で見つめる。照明の光を鈍く反射するそれに、一体、どれだけのドラマが詰まっているっていうんだ。
「……わたしが開けてもいい?」
名前ちゃんが囁くように尋ねる。俺はもう、こくりと頷くことしかできない。ロボットかよ、俺は。
彼女は説明書きにあった通り、袋のギザギザした端に白くて細い指を掛けた。その指先が本当に僅かに、微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
なんだ。この子も緊張してんのか。
その事実に、ほんの少しだけ安堵している自分が居た。
ピリリ、と静かな部屋に場違いな程、クリアな音が響く。
世界がスローモーションになったみたいだった。
裂け目から現れたのは、半透明で、くるりと丸まった、輪っか状の物体。
名前ちゃんはそれを、壊れ物を扱うかのように、そっと指先で摘まみ上げた。
……出た。
現物、だ。
俺は息を呑んだ。目の前の光景は余りにも非現実的で、それでいて強烈に生々しい。
名前ちゃんは指で摘まんだそれを、照明に翳すようにして興味深そうに眺めている。その真剣な横顔は、初めて顕微鏡を覗き込む科学者のようだ。
「……ふぅん。こうなっているんだね。クラゲみたい」
「……クラゲ……」
その突拍子もない感想に、俺の緊張の糸がぷつりと音を立てて切れ掛けた。いや、確かに、言われてみれば見えなくもないけど。でも、この状況でその発想は、お前しか居ないよ、
名前ちゃん。
こんな場面、普通ならもっと気まずいと言うか、妙に生々しい空気になる筈だ。なのに、この子と居ると、全てがファンタジーに変換される。未知の生物の生態を観察しているような、不思議な清らかささえ漂っている。
募る思い、か。
それは、ただ単に身体を重ねたいっていう、そういう単純な欲望だけじゃない。この子の考えていること、感じていること、その全てを知りたい。このミステリアスな頭の中を覗いてみたい。俺の知らない世界を、この子と一緒に見てみたい。
そういう、どうしようもない好奇心と独占欲が、俺の中で渦巻いている。
ふと、
名前ちゃんが、俺の方を向いた。
その瞳は、さっきまでの好奇心とは違う、もっと深い色をしていた。
「倫くん」
「……なに」
名前ちゃんは手にしていたそれを、俺に差し出すでもなく、そっとローテーブルの上に置いた。役目を終えた小道具みたいに。そして代わりに、俺の手を取った。ひんやりとした彼女の指先が、熱を持った俺の手の平をなぞる。その感触に背筋がぞくりとした。
「倫くんの手、やっぱり大きいね。……熱い」
「……
名前ちゃんの手は、冷たい」
「うん。だから、丁度いい」
そう言って、彼女は自分の指を、俺の指に一本ずつ絡めた。繋がれた手から、彼女の微かな緊張と、それ以上の温かい何かが、直接流れ込んでくるようだった。
「……これがどんなものか分かったから、もう大丈夫」
「……」
「いつか、本当にこれを使う日の為に……心の準備が、少しだけできた気がする」
その言葉はどんな甘い囁きよりも、俺の心を強く揺さぶった。
ああ、クソ。
なんだよ、それ。
募っていたのは、
名前ちゃんだけじゃない。俺の方こそ、とっくの昔に限界なんだ。この子への愛しさがどうしようもないくらいに、日々、募っていく。
「……俺も」
自分でも驚く程、素直な声が出た。
「え?」
きょとんと目を丸くする
名前ちゃんに、俺は繋いだ手に力を込めて、もう一度言った。
「俺も、
名前ちゃんと一緒なら。……心の準備なんて、とっくにできてる」
俺の言葉に、
名前ちゃんの瞳が見る見るうちに潤んで、そして、ふわりと花が綻ぶように、今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
その笑顔だけで、俺の心臓はもう滅茶苦茶だ。
二人を包む、甘くて、少しだけ切ない空気。テーブルの上では、開封された一つのコンドームが、俺達の募る思いの証みたいに静かに転がっていた。
その余りにもシュールな光景に、俺はふと我に返る。
「……で、これ、どうすんの? このクラゲ」
俺の現実的なツッコミに、
名前ちゃんは一瞬ぽかんとした後、遂に堪え切れないといった様子で、くすくすと肩を震わせて笑い出した。
「ふふ、そうだね……。記念に取っておく?」
「いや、やめとけ。絶対、やめとけ」
そのやり取りに、部屋の空気が一気に和らぐ。
ああ、本当に。
このどうしようもなく愛しい、俺だけのクラゲ姫様と、これから先もずっと、こうやって振り回されながら生きていくんだろう。
それもまあ、悪くない。
いや、最高に幸せだ。