瞬きに溺れる倫太郎の感情 ∟夕陽と潮風の中、セルフタイマーが刻む二人の宝物。

 水槽の青い光に溶けてしまいそうな理性を辛うじて手繰り寄せた俺は、名前の手を引いて、光の中へと戻った。深海の静寂から一転、土産物屋の喧騒と明るさが、意識を現実へと無理矢理に引き上げる。繋いだままの彼女の手が熱を持っているのか、それとも、俺の手が冷たいのか、もう判別が付かなかった。 『…………今の、なし』  柱の影で、照れ隠しに吐き出した俺の言葉は、未だ二人の間に気まずい残響として漂っている。名前が潤んだ瞳で「……どうして?」と首を傾げた光景が、網膜に焼き付いて離れない。あの表情は反則だ。完全に、俺のキャパシティを超えている。 (なしじゃ、ない。全然、なしじゃない)  心の中でも繰り返し訂正する。なしどころか、あり過ぎて困るくらいだ。あの瞬間の、名前の唇の感触、驚きに揺れた睫毛、俺の服を掴んだ、指先の力。全てがスローモーションで脳内再生され、その度に心臓が煩く存在を主張する。  水族館の出口を抜けると、西に傾き掛けた太陽が放つ、オレンジ色の柔らかな光が世界を包んでいた。潮の香りを孕んだ風が、火照った頬を優しく撫でる。 「……あ」  隣で、名前が小さく声を上げた。彼女の視線の先には、海沿いに整備されたウッドデッキの遊歩道が続いている。その奥には、水平線に沈みゆく夕陽。空は燃えるような橙から、淡い藤色へのグラデーションを描き、海面は金色の鱗粉を撒いたようにきらきらと輝いていた。圧巻、と云う単語しか見つからない。 「……ここで撮ろっか。記念」  俺は先程の約束を思い出し、努めて平静を装って言った。声が少し掠れたのは、きっと潮風の所為だ。そうに違いない。 「うん」  名前はこくりと頷くと、俺のやや前を歩き、手摺の近くで立ち止まった。夕陽を浴びて、彼女の白いワンピースがきらりと光る。普段の不思議な雰囲気に、どこか神聖さすら加わって、俺は息を呑んだ。 (……ダメだ、直視できない)  俺は誤魔化すようにスマホを取り出し、カメラを起動する。まずは、この光景に溶け込む彼女の姿を、ライブビュー越しに切り取っておきたかった。レンズを向けると、名前はふとこちらを振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。 「倫くんは入らないの?」 「……俺は、撮る側だから」 「ふぅん? わたしは、倫くんと一緒に写りたいな」  その言葉に、心臓がぐ、と鷲掴みにされたような衝撃を受ける。やめろ、そう云う真っ直ぐなヤツ。俺のライフは、もうゼロに近い。 「……じゃあ、セルフタイマーで」  辛うじて絞り出した声でそう答え、近くにあったベンチにスマホを立て掛ける。画面に映る、二人の姿。夕陽を背にして、逆光になった俺達のシルエットは、まるで映画のワンシーンのようだ。 「……十秒で撮るから。ちゃんと、こっち見てて」 「うん」  タイマーのボタンを押し、急いで名前の隣に戻る。後、十秒。九、八、七……。カウントダウンが心臓の鼓動と重なっていく。傍らに佇む名前から、甘い香りが漂った。 (どんな顔すればいいんだよ、こう云う時……)  ぎこちなく口角を上げようとした、その瞬間だった。  ふわり、と。  俺の左腕に、しなやかな感触が寄り添った。驚いて横を見ると、俺の腕に自分の腕を絡めた彼女が、ぴたりと身体を寄せていた。それだけじゃない。名前は少しだけ背伸びをして、俺の肩に頭を預けたのだ。 「……っ、名前の平仮名、ちゃん……!?」  パニックで声が裏返る。なんだ、この、なんだ。予想外過ぎるコンタクト。間近に感じる彼女の髪の柔らかさ、肌に伝わる体温、耳元で聞こえる微かな呼吸音。情報量が多過ぎて、脳の処理能力が完全にショートした。  カシャッ。  無情にも、スマホのシャッター音が鳴り響く。写真アプリにはきっと、俺の人生で一番締まりのない、驚愕に固まった顔が記録されたことだろう。 「……な、……今の、ワザと?」  俺は腕を絡められたまま、なんとか質問を紡いだ。心臓はドラムロールを通り越して、工事現場の騒音レベルだ。胸が震えている。物理的に。 「うん。ワザとだよ」  名前は顔を上げて、悪戯が成功した子供のように、くすくすと笑った。夕陽に照らされたその笑顔が、これまで見たどんな景色よりも鮮やかで、綺麗で、俺は何も言えなくなってしまった。 「もう一枚、撮ろう?」  名前はそう提案すると、今度は俺の腰に両腕を回し、ぎゅっと抱き着いた。 「ちょ、待っ……!」  カシャッ。  抵抗も虚しく、二度目のシャッター音が響く。もうダメだ。降参。白旗だ。名前には、絶対に勝てない。俺の省エネも、平静も、彼女の前では何も機能しない。 「……もう、好きにして……」 「ふふ、じゃあ、お言葉に甘えて」  観念して溜め息を吐くと、名前は満足そうに微笑み、スマホを確認しにベンチへ駆け寄った。俺は、その場にへたり込みたい衝動を必死に堪え、燃え尽きたように空を仰ぐ。 「倫くん、見て。凄く、良い写真が撮れた」  名前が嬉しそうな声で手招きする。のろのろと近寄って画面を覗き込むと、そこには、驚きと照れで顔面を真っ赤にした俺と、そんな俺に抱き着いて、幸せそうに目を細める名前の姿が写っていた。  一枚目は、俺の腕に寄り添い、悪戯っぽく笑う彼女。  二枚目は、俺に抱き着いて、心から嬉しそうに微笑む彼女。  どちらの俺も、情けないくらいに動揺している。だけど、その隣で頬を緩める名前は、どうしようもなく愛おしかった。 「……これ、写真立てに入れようね」  名前が二枚目の写真を指差して言った。その瞳は、夕陽の光を映して、琥珀色に煌めいている。 「……ん」  俺は短く頷くのが精一杯だった。この感情を、何と呼べばいいのだろう。胸の奥から込み上げる、熱い塊。それは羞恥心でも、喜びでも、愛おしさでもあって、その全てが混ざり合い、俺の心を激しく震わせる。  帰り道、俺達はどちらからともなく手を繋いだ。さっきまでの喧騒が嘘のように、今は只、寄せては返す波の音だけが聞こえる。繋いだ手から伝わる、名前の体温。それが、このどうしようもない幸福感が夢ではないと教えてくれていた。 (……アー。もう、ほんと敵わない)  この震えはきっと、一生止まらない。  このミステリアスで、掴みどころがなくて、時々、とんでもなく大胆な恋人に、俺はこれからもずっと振り回され続けるのだろう。  それも、まあ、悪くないか。  俺は隣を歩く彼女の小さな手指を、もう一度、確りと包み込んだ。空っぽの写真立てに収まる、たった一枚の宝物が、今、この手の中に在った。



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