乙女心ノート | 乙女心、解読不能 | Title:ちっちゃな乙女心

 午前八時半。初夏の兆しを含んだ朝の光が、まだ少し重たい遮光カーテンの隙間を縫って、細長い光の筋を教室の床に描いていた。埃がきらきらと舞い踊るその光の帯を横目に、窓際の席に座る国見英は頬杖をついたまま、ぼんやりと教室の景色を眺めていた。と言うより、景色はただそこにあるだけで、彼の意識は別の場所にあった。  やけに上擦った声で昨夜のアニメの話をしている男子グループ。きゃらきゃらと鈴を転がすような女子達の笑い声。ノートのページを捲る乾いた音。それらが混ざり合い、教室特有の喧騒を作り出している。けれど、国見の耳には、それらの音は遠い国の出来事のようにしか届かない。彼の注意はただ一点、教室の入り口に吸い寄せられていた。  まだ、その姿はない。  苗字名前。  国見の、恐らくは人生で最初の、そして唯一になるだろう恋。今は世間一般で言うところの"恋人"という関係にある。けれど、国見にとって名前は、そんな有り触れた言葉の枠に収まる存在ではなかった。明け方の夢の続きを見ているような、掴もうとすると指の間からすり抜けてしまいそうな儚さ。それでいて、ふとした瞬間に触れる肌の温度や髪から漂う清潔な香りは紛れもない現実だと告げている。相反する感覚が同居する、不思議な存在。彼女が居るだけでモノクロだった世界に色が灯るような、そんな感覚。 「……おはよう」  凛と澄んだ、けれど、どこか柔らかな声。その声が鼓膜を震わせた瞬間、国見の視線はまるで磁石に引かれるように声の主へと向いた。  入り口に、名前が立っていた。艶やかな髪が肩のラインに沿って滑らかに流れている。教室の蛍光灯の光を吸い込んでいるかのように白い肌は上質な白磁のよう。そして、吸い込まれそうなほど深い、夜の海の色を湛えた双眸。その瞳が真っ直ぐに、国見を捉えていた。 「おはよう」  やや掠れた声で、国見はそう返した。心臓が普段より、少しだけ大きく脈打つのを感じる。名前は音もなく、国見の隣の席――彼女の定位置に静かに腰を下ろした。使い込まれた革の鞄は、まだ形はしっかりとしているものの、表面には細かな傷や擦れが目立ち始めていた。入学してからの短い期間で付いたそれらの傷は、名前が毎日、この鞄と共に学校生活を送っている証拠のようだった。丁寧に扱われていることがわかる艶と、時折見せる小さな傷のコントラストが、彼女の几帳面さと、少しだけ見え隠れする日常の忙しさを物語っている。その中からハードカバーの本を取り出し、指先でそっとページを開く。タイトルは難解そうな海外文学。彼女らしい、と思った。  何気ない、いつもの朝の光景。けれど、国見にとっては他のどんな時間とも比べられない、特別な瞬間だった。彼女が直ぐ隣に居る。ただそれだけで胸の奥がじんわりと温かくなり、欠けていた何かが満たされるような、不思議な充足感に包まれる。世界が、彼女を中心に回っているような気さえした。  不意に、名前が本から顔を上げた。長い睫毛が影を落とす瞳が、じっと国見を見つめる。 「英くん、夜のこと……憶えている?」  その一言は静かな水面に落とされた小石のように、国見の心に波紋を広げた。思わず、頬杖を突いていた指先がぴくりと微かに震える。 「……何のこと?」  努めて平静を装い、恍けたように聞き返す。だが、名前の視線は揺るがない。国見の心の内側まで見透かしているかのように、ただ静かに彼を見つめ続けている。その真っ直ぐな視線に射抜かれ、国見は内心で小さく息を吐いた。降参だ、と白旗を上げるような気分だった。  夜のこと――正確には、数日前の夜のこと。  あの夜、二人はお互いにとって、初めての世界に足を踏み入れた。  衝動的なものではなかった。けれど、頭の中で漠然と描いていた想像よりも、それは遥かに鮮烈で、息を飲むほど繊細で、そして、少しだけ切ない時間だった。触れた肌の熱さ、吐息の近さ、言葉にならない感情の交錯。全てがまだ生々しい感覚として、国見の中に残っている。 「英くん?」  名前が不思議そうに小さく首を傾げる。その仕草が、妙に国見の心臓を締め付けた。  堪らず、国見は彼女から視線を逸らし、自分の机の木目に目を落とした。意味もなく、指でその木目をなぞる。 「……別に、忘れてないけど」  口にした言葉は素っ気ない響きを帯びていた。年頃の男子特有の照れ隠し――自分でそう認識していることが、余計に気恥ずかしさを増幅させる。平静を装おうとすればする程、意識してしまう。まったく、厄介なものだ。  名前は、そんな国見の不器用な反応を興味深いものを見るかのようにじっと観察していたが、やがて、くすりと小さな笑い声を漏らした。花が綻ぶような、柔らかな笑み。 「ふふ……」 「……何」  拗ねたような響きが自分の声に含まれていることに気づき、国見は更に眉根を寄せる。 「英くんって、わかり易いね」 「……そう?」  あくまで素っ気なく返すが、耳の付け根辺りがじんわりと熱を持っているのを、国見自身、自覚していた。きっと、彼女にはお見通しなのだろう。こういう時、名前は決まって、どこか嬉しそうに、そして、少しだけ悪戯っぽく微笑むのだ。国見の反応を楽しんでいるかのように。 「英くんは、わたしのことが好き?」  囁くような、小さな声。けれど、その問いは教室の喧騒を切り裂いて、真っ直ぐに国見の胸に届いた。  国見はゆっくりと顔を上げ、再び名前を見た。深い瞳が答えを待っている。  当たり前だろ、そんなの――喉まで出掛かった言葉を、国見は飲み込んだ。そんな在り来たりな言葉では、この胸の内にある複雑で、けれど確かな想いを伝え切れない気がしたからだ。  代わりに、国見はそっと手を伸ばし、机の上に置かれていた名前の左手を取った。彼女の指は少しひんやりとしていて、その感触が国見の火照った指先に心地よかった。触れた瞬間、また少し心臓が大きく跳ねる。 「……好き」  短く、けれど、有りっ丈の想いを込めて。それは単なる好意を示す言葉以上の、国見にとっての誓いのような響きを持っていた。  名前の白い頬が、ふわりと淡い桜色に染まる。その変化を見ているだけで、国見の胸の奥が甘く疼いた。 「……そう」  名前はそう呟くと、ほんの少しだけ握られた指先に力を込めた。そのささやかな反応が、国見には何よりも雄弁な答えのように感じられた。  国見英は繋がれた手の温もりを感じながら、ふと考えた。  ――乙女心、か。  名前が、あの夜のことをどう感じているのか。今、この瞬間、どんな想いで隣に居るのか。その全てを正確に理解することは、きっと自分にはできないのだろう。彼女の内面は、彼女が読む難解な文学のように深遠で、容易には解き明かせない。  けれど、それでいいのかもしれない、と国見は思う。  全てを分かろうとしなくても、言葉を尽くさなくても、確かなことはここにある。  彼女が、こうして隣に居ること。  繋いだ手から伝わる、確かな温もり。  朝の光の中で静かに微笑む彼女の存在そのものが、国見にとっての揺るぎない答えだった。  世界は、今日も彼女を中心に、静かに、そして美しく回っている。



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