肌色のインティマシー | 抗えない引力。彼女は海で、彼は溺れる。
授業の終わりを告げるチャイムが、気怠い午後の空気を震わせた。他の生徒達が解放感に騒めく中、国見英は指先でゆっくりと教科書の最後のページを辿り、静かに閉じた。重たい硝子板の向こう、窓の外では、まるで巨大な獣の腹のように灰色の雲が低く、重たく垂れ込めている。空気が湿り気を帯び、今にも泣き出しそうな気配を漂わせていた。ああ、傘を持ってくるんだったか。そんな実用的な思考の片隅で、無意識に隣の席へと視線が滑る。
苗字名前は、彼と同じように、しかし彼とは全く異なる種類の静けさの中で、ノートを閉じていた。艶やかな髪が、ブラウスの肩から滑らかな曲線を描いて流れ落ち、細く、陶器のような指先がノートの表紙を名残惜しむかのように、さらりと撫でる。その一つひとつの所作が、古い絵画の一場面のように、周囲の喧騒や時間の流れから切り離されて、不自然な程に美しく、国見の目に焼き付いた。彼女だけが、異なる時間の法則の中に生きているかのようだ。
「……英くん」
不意に、鈴を転がすような、それでいてどこか芯のある声が鼓膜を打った。呼ばれた名前に、国見の肩が意識しない内に微かに跳ねる。視線を戻すと、
名前がじっと、その底の知れない瞳で彼を見つめていた。
「今日は、部活が終わった後、うちに来ない?」
僅かに小首を傾げながら、
名前はそう問い掛けた。その仕草は計算されたあどけなさを感じさせ、国見の警戒心を揺さぶる。
国見は小さく瞬きを繰り返した。彼女の誘いは、いつも唐突だ。
「……別に、構わないけど」
断る理由も、特に思い付かない。いや、本当は、
名前の誘いを断るという選択肢が、自分の中に存在しないことに気づいている。
「なら、決まりだね」
名前はふわりと、花が綻ぶように微笑むと、音もなく席を立った。軽い身の熟しで教室を出ていく彼女の、すらりとした背中と揺れる髪。その横顔に残る微かな笑みの残滓を眺めながら、国見は胸の奥深く、心臓のすぐ隣辺りが、じわりと不可解な熱を帯びていくのを感じていた。
最近、こういうことが増えた。
名前は、気紛れな猫のように、ふとした瞬間に国見を呼び出し、異世界への入り口のような、重厚な門構えのマンションへと誘うのだ。彼女がそこで多くを語るわけではない。ただ静かに隣に座っていたり、窓の外を眺めていたりするだけだ。それでも、その沈黙や、ふとした視線の中に、言葉にならない何らかの意図が含まれているのだと、国見は肌で感じ取っていた。
それが、一体何なのか。
何故、自分なのか。
国見には、まだその答えが分からない。
ただ、分かっているのは、彼女の引力に逆らえない自分が居るということだけだった。まるで、見えない糸で手繰り寄せられるように。
名前の自室に通されると、甘く、それでいてどこか退廃的な古い薔薇の香りが、ふわりと鼻腔を擽った。それは生花の瑞々しさではなく、ドライフラワーか、或いは上質なポプリのような、凝縮された時間の香りだった。
名前は慣れた手つきで、遮光性の高い重厚なカーテンを静かに引き、部屋を外界から遮断する。差し込む外灯の光が遮られ、室内が薄闇に包まれた。ソファに深く腰を下ろした彼女のシルエットが、その薄闇に溶け込むように見える。
国見は、どこか居心地の悪さを感じながら、広々とした部屋の中で自分の置き場を見つけられず、結局、
名前が座るソファの足元、柔らかな絨毯の上に直接腰を下ろした。自然と視線は、彼女の細い足首辺りに落ちる。
「……英くん」
再び、静寂を破って名前が呼ばれる。その声には、先程とは違う、僅かな揺らぎが含まれているように感じられた。
国見はゆっくりと顔を上げた。薄闇に慣れた目が、ソファに座る
名前の姿を捉える。
「わたしね……」
名前は、少しだけ言い淀むように目を伏せた。長い睫毛が影を作り、その表情を読み取り難くさせる。
「面積の少ない下着を、愛用しているの」
一瞬、国見の思考回路が完全に停止した。
窓の外で風が唸る音が、閉め切られた部屋の中にまで微かに響く。カーテンが内側から、まるで生き物のようにゆっくりと揺れ、部屋の中の空気を静かに撫でていく。薔薇の香りが、その空気の流れに乗って、より濃密に感じられた。
「……」
言葉が、出てこなかった。喉が渇き、張り付いたようだ。
「え?」
聞き間違いかと思った。或いは、何か別の、比喩的な表現なのかと。だが、
名前の表情に冗談めかした様子はない。
「面積の少ない下着を、愛用しているの」
ゆっくりと、しかしはっきりと、先程と同じ言葉が繰り返された。その声は、淡々としているのに、妙な熱を帯びている。
それは、一体どういう意図なのか。
国見の脳裏に、堰を切ったように様々な情景が、鮮明な色彩と質感を持って駆け巡り始めた。繊細なレースで縁取られた、布地の少ないランジェリー。白く細い
名前の指が、そのレースの感触を確かめるように滑る様子。淡い色のシルクが、彼女の滑らかな肌の上で光を反射する様。隠されているからこそ、より強く意識させられる、柔らかな曲線――。
思わず息を詰める。心臓が、肋骨の内側で不規則に、そして力強く跳ね始めた。どく、どく、と耳元で自分の血流の音が聞こえるようだ。
「……なんで、そんなこと、言うんだよ」
漸く絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていて、弱々しかった。
「ん……?」
名前は、本当に、心の底から不思議だと言うように、再び小首を傾げる。その無垢に見える仕草が、今の状況では国見の混乱を助長するだけだった。
「英くんは、こういう話、嫌い?」
「いや……そういう、問題じゃ……」
嫌いか、好きか。そんな単純な二元論で片付けられる話ではない。
名前は本当に、この言葉が持つ意味合いや、それが引き起こすであろう反応を理解していないのだろうか。それとも、全てを分かった上で、確信犯的にこの言葉を口にしているのだろうか――。
いや、後者だろうな。
この、
苗字名前という少女に限って、何も考えずにこんな爆弾を投下する筈がない。
国見は内心で結論付け、深く、長い息を吐いた。乱れた呼吸を整えようとしたが、上手くいかない。
「……
名前」
努めて冷静に、名前を呼ぶ。
「なに?」
名前の声は、すぐ傍で囁かれたかのように近く感じられた。
「そういうことを、そんな……無防備に言うなよ。男の前で」
それは懇願に近い響きを持っていたかもしれない。
「ふぅん?」
名前は面白そうに片方の眉を軽く上げると、音もなくソファから立ち上がり、するりと国見の目の前に移動した。そして、ゆっくりと、彼の前にしゃがみ込んだ。
突然縮まった距離に、国見の身体が硬直する。
「……英くん?」
顔が、近い。
名前の瞳が、すぐそこにある。吸い込まれそうなほど深い、暗い色の瞳が、真正面から国見の目を覗き込んでいる。長い睫毛の影が、彼女の白い頬に落ちていた。吐息が掛かる程の距離で、先程よりも強く、彼女自身の甘い肌の匂いと、微かな薔薇の香りが混じり合って漂ってきた。
「ねぇ、英くんは……」
名前の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたしに、触れたい?」
その問い掛けは、余りにも直接的で、何の比喩も隠喩も含まれていなかった。
喉の奥が、ごくりと鳴る。
心臓が、破裂しそうなほど激しく高鳴り、痛みすら感じる。
国見英は、普段は極力エネルギーの消費を抑え、効率を重んじ、感情的な波に身を任せることを嫌う。冷静で、省エネで、それが彼の処世術であり、アイデンティティの一部ですらあった。
でも――。
この、
苗字名前という存在の前では、その全てが全く通用しない。制御が効かない。
その夜、自室のベッドに横たわった国見は、ぼんやりと天井の木目を眺めながら、何度目か分からない溜め息をついた。
名前の部屋からどうやって帰ってきたのか、記憶が少し曖昧だ。ただ、降り始めた冷たい雨に打たれたことだけは憶えている。
身体の芯に残った奇妙な熱が、まだ燻っている。シャワーを浴びても、冷たい水を飲んでも、それはなかなか引いてくれなかった。
彼女の肌の白さ、髪の艶、瞳の深さ、そして、あの言葉。あの問い掛け。
触れたい。強く、抱き締めたい。もっと、彼女の温度を、存在を、この腕で確かめたい――。
衝動的な欲求が、波のように寄せては返す。
でも、それを言葉にすることも、行動に移すことも、今の自分にはできなくて。あの時、
名前の問いに、自分は何と答えたのだったか。或いは、何も答えられなかったのか。それすらも、靄が掛かったように思い出せない。
「……俺、めっちゃ思春期じゃん」
ぽつりと呟くと、その余りに陳腐な自己分析に、自分でも呆れてしまった。もっと的確な言葉がある筈なのに、思考が上手く働かない。
苗字名前。
彼女は、夜の海のようだ、と国見は思った。
どこまでも暗く、深く、凪いだ水面の下には一体何が潜んでいるのか、全く見当もつかない。美しい月明かりを反射して誘うように煌めくけれど、一歩踏み込めば、冷たくて暗い底へと引き摺り込まれてしまいそうな、抗い難い引力を持っている。
目を離すことができなくて、気づけば足を取られ、沈んでいく。
名前が「面積の少ない下着を愛用している」と告げた真意は、矢張り分からないままだった。自分を試しているのか、誘っているのか、それとも、もっと別の、想像もつかない理由があるのか。
だけど、一つだけ確かなことがある。
――俺は、彼女に、確実に溺れていっている。
この抗い難い感情の奔流は、きっともう、止められない。
天井の木目が、いつしか夜の海の揺らめきのように見えていた。