ゲームオーバーの前の温もり |「このコートの下が下着だけだったら、どうする?」

 研磨の部屋の空気は、小さな暖房器具から放たれる熱が緩やかに広がり、柔らかな安らぎを纏っていた。窓の外では冬の厳しさが日に日に増し、ガラス面には繊細な氷の模様が描かれ始めている。その窓から時折入り込む冷気さえも、この部屋の居心地の良さを際立たせるようだった。  PSPの画面は既にスリープ状態へと落ちている。先程までレベル上げに没頭していた研磨の意識は、今や全く別の対象へと向けられていた。  それは目の前に座る名前。  彼女の深みのある髪は、僅かな室内の空気の流れに合わせて毛先がさらりと揺れ、その仕草すらも計算されたかのような優雅さを醸し出している。夜の海のような瞳がじっと研磨を見つめ、その瞳の奥には何かが隠されているようで、研磨は無意識の内にその深みに引き込まれそうになる。  彼女はいつものように寡黙ながらも、その静けさの中に秘められた思わせぶりな雰囲気を漂わせていた。研磨が熟知している『名前の静寂』には、常に何かが宿っている。今日のそれは、特に読み取り辛い色合いを帯びていた。 「研磨」  名前の声は、部屋の温かな空気を切り裂くように鮮明だった。 「……ん?」  研磨は慣れた手つきで髪の一部を指で弄びながら、視線だけを名前に向ける。 「このコートの下が下着だけだったら、どうする?」  ……。  ……え?  研磨の脳が、いきなりフリーズした。過負荷が掛かったシステムのように、思考処理が完全に停止する。 「…………」  どれほど難解なゲームの謎解きに直面しても、ここまで思考が停止することはなかった。何百時間とプレイしてきたゲームでの予測不能なイベントでさえ、研磨は常に冷静に対処できた。にもかかわらず、今、研磨の思考回路は一時停止ボタンを押されたかのように完全に機能を失っていた。  え? どうするって?  ――いや、どうするも何も、それは……その……。 「……」  研磨はそっと視線を泳がせ、名前の表情を探った。心拍数が上がり、部屋の温度が急に高く感じられる。  名前は外見上は普段と変わらない表情をしていた。儚げで静かで、けれど確実にこちらの反応を一つひとつ記録するように、楽しんでいる顔だった。その微かな口角の上がりが、彼女の内なる満足を物語っている。 「……え、ちょっと待って」  漸く言葉を取り戻した研磨に、名前はくすっと微笑んだ。その笑みには、いつもの彼女にはない、何か新しい輝きがあった。 「待つの?」  その言葉には、明らかな挑発が含まれていた。 「いや、違……え、うーん……」  研磨は頬を確実に赤く染め、無意識の内に手元の毛布を胸に引き寄せる。寒さを凌ぐ為ではない。純粋に、自分の動揺を隠す為だった。毛布の感触が、僅かに震える指先に伝わる。 「……もしかして、冗談?」  最後の望みを託すように、研磨は問いかけた。 「ううん、本当に下着だけ」  名前の答えは、淡々としていながらも、どこか確信に満ちていた。  ……。  ゲームで予測不能なイベントが発生した時、研磨はまず冷静に選択肢を探る。そして最適なルートを見極め、効率的な攻略法を組み立てる。だが、今回は攻略本もない。選択肢すら、頭の中で形を成さない。 「……どうしよう」  思わず漏れた本音に、名前の目が微かに輝いた。 「ふふ、研磨の顔、凄く面白い」  名前が愉しげに言う。その声には、優しさと好奇心が混ざり合っていた。 「おれのこと、からかってる?」  少し責めるような口調で、研磨は尋ねた。 「そんなことない。ただ、研磨がどうするのかなって」  名前の声は、いつもより少しだけ柔らかく、仄かに期待を含んでいるように聞こえた。  その瞬間、名前はゆっくりとコートの前を開こうとした――その指の動きは、まるで時間が引き延ばされたかのように、研磨の目には映った。 「待った!!!」  研磨は条件反射で名前の手を掴んでいた。彼の指先は、ほんの少し震えている。その感触が、二人の間に新たな緊張を生み出した。 「……名前、本当に、そうなの?」  研磨の声は、いつもより低く、かすかに震えていた。 「うん」  名前の答えは単純だが、その瞳は複雑な感情を湛えていた。  研磨はごくりと喉を鳴らした。  心臓の音が、やけに大きく響く。その鼓動は、きっと名前にも聞こえているだろう。
「……名前、寒くない?」  研磨は取り敢えず、冷静な振りをして尋ねた。その声には、取り繕おうとする無駄な努力が滲んでいた。 「少し寒い」  名前の返答は正直で、その言葉に含まれる脆さが研磨の保護本能を刺激する。 「じゃあ、コートの下に何か着よう」  研磨は、事態を少しでも正常化しようと試みた。 「着ているよ」 「え?」 「下着」  ……。  研磨の頭の中で、もう一度時間が止まる。 「名前」  研磨の声は、思ったより落ち着いていた。 「何?」 「……なんでそんなことしたの」  真剣な表情で、研磨は尋ねる。その目には、困惑と共に、何かを理解しようとする真摯さがあった。 「研磨が、どんな反応をするのか知りたかったから」  名前の答えは、予想通りでありながら、研磨の胸に直接響いた。 「……」  そう言われてしまうと、研磨は反論できない。何故なら、名前は本当にそういうことをする人だからだ。彼女の好奇心は、時に常識を超える。そして、その全ては研磨を理解したいという純粋な想いから来ていることを、彼は知っていた。 「……じゃあ、おれが何もしなかったら?」  研磨は、少し勇気を出して尋ねた。 「それならそれでいい。研磨の選択だから」  名前の言葉は静かながらも、確固たる意志を感じさせた。 「……」  その言葉に、研磨の中の何かが少しずつ整理されていく。混乱していた思考が、徐々に一つの方向へと集約されていった。  名前は、彼を試しているわけではない。  ただ純粋に、「研磨がどうするのか」を知りたいのだ。  彼女なりの、愛情表現なのかもしれない。  ――勇気を出せ。  研磨は静かに息を整えると、ゆっくりと決意を固めた。そして、そっとコートの裾を引いた。 「じゃあ、おれが名前を温める」  その言葉には、研磨自身も驚く程の確かさがあった。 「……研磨?」  名前の目が、少しだけ大きく開かれる。  次の瞬間、研磨は毛布の中へ包むように名前を引き入れた。二人の身体が、初めて近づく瞬間、空気が微かに脈打つように感じられた。 「……わぁ」  名前が小さく驚いた声を漏らす。その声には、いつもの冷静さの中に、かすかな動揺が混じっていた。 「寒いなら、こうすればいい」  研磨の声は、いつになく落ち着いていた。まるで長い間、この瞬間の為に準備していたかのように。  毛布の中は、二人分の温もりでじんわりと暖かくなる。肌と肌の間にある空気さえも、彼らの緊張と期待で満たされているかのようだった。 「……研磨、優しい」  名前の声は、かすかに震えていた。 「うん。でも、名前が変なこと言うから、ちょっと心臓に悪い」  研磨は、少し照れくさそうに言った。 「……そう?」 「そう」  研磨は名前をしっかりと抱き締めた。その腕の中で、彼女の身体は驚くほど小さく、そして柔らかく熱を帯びていた。彼の頬は仄かに熱く、心臓の鼓動が名前に伝わっている筈だ。それさえも、もう隠す必要はないと感じられた。 「……もう、こういう無茶ぶりはなし」  研磨は優しく、けれどもしっかりとした口調で言った。 「……考えておく」  名前の答えには、微かな笑みが感じられた。 「絶対考えなくていい」  研磨の言葉に、名前は小さく肩を震わせて笑った。 「……ふふ」  その笑い声は、研磨の心を不思議と落ち着かせた。  静かな夜、研磨は漸く心の平衡を取り戻した。彼は恐る恐る、名前の髪に鼻を埋める。そこには名前特有の、かすかな香りがした。 「……おれは、名前のこと大事にしたい」  研磨の声は、かすかだったが、確かな想いを乗せていた。 「うん、知ってる」  名前の返事は単純だが、その声には深い安心感が宿っていた。 「だから、ちゃんと温める」 「うん」  二人の間に流れる沈黙は、もはや居心地の悪いものではなかった。それは二人だけの、特別な空間と時間を作り出していた。 「……でも、次からはちゃんと普通に服を着てきて」  思わず言った研磨の言葉に、名前はくすっと笑った。 「それは検討しておく」 「検討しなくていいってば」 「……ふふ、研磨は可愛い」  名前の言葉に、今度は研磨が仄かに顔を赤らめた。 「……おれの心臓のダメージも気にして。じゃないとゲームオーバーになる」  その言葉には、優しさと少しの甘えが混じっていた。  そうして、二人は静かに身を寄せ合いながら、冬の夜を過ごしていった。外の寒さが増していく程に、二人の間の温もりはより確かなものになっていく。  窓の外では、雪が穏やかに降り始めていた。



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