退屈と幸福とゲームの間 | ゲームに夢中な研磨と、少し寂しそうな彼女。

 研磨の部屋は、夜の静寂に包まれていた。カーテンの隙間から差し込む街灯の薄明かりが、ベッドの上で小さく光るPSPの画面をぼんやりと照らしている。画面にはドット絵のキャラクターが表示され、コマンドを選択する指がリズミカルに動く。部屋にはボタンを押す控えめな音と、ゲームのBGMが小さく響いていた。その音色は、まるで彼の存在を確かめるように、規則正しく繰り返されている。 「……ふぅん、結構強いな」  低いトーンで呟くと、研磨は身体を横向きにして枕に頭を預けた。猫のような黄金の瞳は画面に集中し、まるで世界のすべてがそこに詰まっているかのようだった。その視線の先では、彼の指の動きに合わせて、小さな勇者が剣を振るい、魔物を倒していく。デジタルの世界での勝利は、研磨の唇の端に小さな満足のしるしを残した。  そんな彼の傍に、もうひとつの存在があった。  研磨の隣に座っていた名前は、静かに彼の横顔を見つめていた。彼女の絹糸のように滑らかな髪は夜の闇に溶け込み、吸い込まれそうなほど深い双眸は、彼の横顔に焦点を合わせている。その視線には、言葉にしていない何かが宿っていた。 「研磨」 「ん?」  彼は画面から目を離さずに返事をした。名前の声は透き通っていて、まるで冷えた夜風がそっと耳を掠めるようだった。その声色には、ほんの少しだけ、不安が混じっていた。 「ゲーム、楽しい?」 「うん」  即答だった。迷いのない返事。  研磨にとって、ゲームは日常であり、心地よい退屈であり、確実な幸福の形だった。そこには予測可能なルールがあって、進めば進むほど強くなれるし、ミスをしてもリトライすればいい。リアルのように曖昧な駆け引きや、言葉にしなければ伝わらない気持ちのような面倒くさいものはない。デジタルの世界は、いつも彼を裏切らなかった。  だから、彼はそこに居る。  でも。 「わたしと居るのは?」  名前の問いに、研磨の指が止まった。画面上の小さな勇者も立ち止まる。 「……?」  画面の中の戦闘が一瞬止まる。いや、正確にはゲームではなく、研磨自身が一時停止したのだ。彼の思考回路が、予期せぬ質問にフリーズした。 「わたしと居るのも、楽しい?」  その言葉が、研磨の心に小さな波紋を広げた。  彼はゆっくりと顔を上げた。名前の瞳が、月明かりのように彼を照らしている。 「……楽しいよ」  言葉にするのは、少しだけ照れくさい。舌の上で言葉が踊り、頬が微かに熱を持つ。でも、それが嘘じゃないのは確かだった。研磨にとって、名前はゲームと同じくらい心地よい存在だった。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。そこに居るだけで落ち着くし、彼女の静かな声や、時折見せる不意の笑顔が、妙に胸を擽る。ゲームでは得られない温かさが、確かにそこにあった。  けれど―― 「じゃあ、わたしのことを見て」  その一言が、研磨の胸の奥で鼓動を高鳴らせた。  ゲームの画面をスリープさせると、部屋はより静かになった。BGMが消え、ボタンの音も消え、残ったのは二人の呼吸と、窓の外から聞こえる風の囁きだけ。研磨はPSPを枕元に置き、視線を名前へと向ける。彼女はじっとこちらを見つめていた。その瞳には、何かを求める光が宿っていた。 「研磨は、ゲームのキャラクターを大事にするでしょう?」  名前の指先が、シーツの上で僅かに動く。 「うん、まぁ」 「そのキャラクターが傷ついたら、どうする?」 「ちゃんと回復させる」  それは当然のことだった。大切なキャラクターを放置するなんて、考えられない。瀕死にはするけど。最適なアイテムを使って、すぐに元気にする。それは研磨にとっての『正しさ』だった。 「それは、優しさ?」  名前の問いに、研磨は少し考えた。普段は考えないことを、彼女は引き出していく。 「……まぁ、それもあるかな」 「じゃあ、わたしが傷ついたら?」  その瞬間、研磨の喉が詰まった。どうすればいいか分からない。質問の意味を理解するのに、数秒かかった。  ゲームのように、アイテムで回復させることはできない。戦略を練っても、答えはすぐに出ない。名前の言葉は、彼の脳内でふわふわと渦を巻き、なかなか整理できなかった。現実の感情は、プログラムされた反応よりも複雑で、そして予測不能だった。 「……名前、傷ついたの?」  彼の声には、珍しく不安が混じっていた。 「ううん。でもね、研磨がゲームの世界に居ると、わたしは少しだけ、寂しいと思うことがあるの。ゲームに夢中な研磨が、遠く感じる」  彼女は微笑んでいた。静かで、どこか儚げな笑顔。その表情の裏に隠された感情を、研磨は読み取ろうとした。ゲームなら顔グラフィックと選択肢で気持ちが明示されるのに、現実の表情は複雑すぎる。  研磨の心臓が、また跳ねる。  それは、いつものゲームのSEとは違う、研磨自身が発する鼓動の音だった。リアルの世界での、制御できない反応。 「おれは……」  何かを言おうとして、喉の奥で声が詰まる。言葉を選ぶように、彼は唇を噛んだ。  名前の心情を、きちんと理解するには、ゲームの攻略本のようなヒントはない。だから、考えて、考えて――そして感じて。 「おれ……勇気、出すよ」  その瞬間、研磨はそっと手を伸ばし、名前の頬に触れた。指先が震えているのを、彼女は気づいただろうか。  驚いたように名前の瞳が見開かれる。月光を受けて、その深い瞳は星空のように輝いていた。 「……研磨?」  彼女の声も、少し震えていた。 「おれ、名前のこと、ちゃんと見たい」  指先が、彼女の肌の冷たさを感じる。 ゲームのコントローラーを握るよりもずっと繊細で、吸い付くような柔らかさ。それは現実の温度、デジタルでは決して味わえない温もり。  研磨はそっと、名前に顔を近づける。指先は彼女の頬から、ゆっくりと髪へと移動し、絹のような感触を確かめるように、優しく撫でた。 「ゲームより、ずっといい」  その小さな告白に、名前の頬が薔薇色に染まる。  静かな夜の中、二人の距離が、ゆっくりと縮まっていった。時間が止まったかのように、その瞬間だけが永遠に感じられた。  唇が触れる直前、研磨は小さく笑った。緊張を和らげるように、彼らしい言葉が口をついて出る。 「……これ、ゲームだったら選択肢出るところだよね」  名前の瞳に、好奇心が灯る。 「どんな選択肢?」 「『キスをする』、『このまま見つめ合う』、『照れて誤魔化す』……とか?」  名前はくすりと笑う。その笑い声は、夜の静けさの中で小さな鈴の音のように響いた。 「研磨は、どれを選ぶの?」  彼女の問いに、研磨の心は既に答えを出していた。照れて誤魔化すを選びそうになったけれど、先程のような迷いはない。  彼は迷わなかった。 「……キス、する」  そして、そっと唇を重ねる。名前の口唇は少し湿っていて、妙にリアルだった。  それは、ゲームにはない温度。デジタルの世界では決して感じられない、生きた心の触れ合い。柔らかく、温かく、少しだけ震える感触。名前の息が頬を撫で、彼女の香りが鼻腔を擽る。  攻略法も、セーブポイントもないけれど、多分、これが正解なのだと思った。  キスを終えて、少し離れた二人の間に、新しい空気が流れる。研磨の頬は熱く、名前の目は星のように輝いていた。 「研磨」 「ん?」 「ゲームより、わたしの方が楽しい?」  研磨は彼女の手を取り、指を絡めた。 「比べるものじゃないよ。でも……」  彼は珍しく、はっきりとした声で言った。 「名前は、ゲームじゃない。リアルで、温かくて、時々難しいけど……大切な、かけがえのない存在」  名前の目に、小さな涙が光った。  研磨は思った。この瞬間は、どんなゲームのエンディングよりも美しい。そして、これは終わりじゃなく、二人の物語の始まりなのだと。  彼は再び名前に近づき、今度はより確かな気持ちで、彼女の唇を求めた。  静かな夜の部屋で、二つの心が同じリズムを刻み始めた。



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