稲穂揺れる、君との時間 | 夫婦日和、田園にて。

 雨上がりの田園風景は、磨き上げられたガラス細工のように澄んでいた。広がる水田の一面には、雲の切れ間から差し込む陽光が反射し、黄金色の輝きを帯びている。静かに揺れる稲穂の間を吹き抜ける風は、夏の名残を孕みながら、ほんのりと秋の香りを運んでいた。  北信介は田んぼの畦道に立ち、額の汗を拭いながら、小さく息をついた。農業を継いでから数年が経ったが、こうして汗を流す日々が当たり前になったことを思うと、少しばかり感慨深くなる。且てはバレー一筋だった自分が、今は米を届ける為に田を耕し、季節と共に生きている。  土の感触が手に馴染み、空の移ろいが自分の生活リズムを作る。それは部活動とはまた違った、しかし同じように全身で感じる充実感だった。北は手の平を見つめ、その皮膚に刻まれた新たな人生の道筋を確かめるように指を開いたり閉じたりした。  この道を選んだことを後悔したことは一度もない。  何故なら、傍らには愛しい妻が居るから。 「信くん」  振り向くと、名前が田の向こうからこちらを見ていた。相変わらずの白い肌と絹糸を思わせる滑らかな髪が、陽射しを浴びてもなお凛としていて、四季の移ろいさえ受け付けない彫像さながらの佇まいだった。  彼女の姿が視界に入る度、北は自分の選択が正しかったと確信する。幾つもの道の分岐点で、彼女との未来を選んだことに、一片の迷いも感じない。  名前は手に小さな籠を提げ、ふわりと微笑んだ。その表情には、北にだけ向けられる特別な柔らかさがあった。 「お疲れ様。少し休憩しない?」 「うん、そうする」  北は鍬を担ぎながら、名前の元へ歩み寄る。足元の土が僅かに湿り気を帯び、畦道を歩く靴底に吸い付くような感触が伝わってきた。近づくにつれ、彼女の持つ籠からほんのりと甘い香りが漂ってくるのに気づいた。 「何や?」 「柿。冷やしておいたんだ。甘くて美味しいよ」  名前は籠の中から一つ取り出し、北の手のひらにそっと乗せた。その手指の冷たさが心地よく、思わず指を絡めたくなる程だった。手と手が触れる一瞬の感触に、北の胸を温かいものが満たしていく。 「ありがとう。いただくわ」  北は皮ごと、一口かじる。瑞々しい果肉が舌の上で蕩け、汗をかいた身体に染み渡った。濃厚な甘みと、味覚に残る仄かな渋みが絶妙なバランスで混ざり合い、喉の奥までじんわりと潤していく。 「どう?」 「めっちゃ甘い。名前の選んだやつは、外れなしやな」  心からの感謝と称賛を込めた言葉に、名前の表情が一層明るくなるのを見逃さなかった。彼女の喜びが自分の喜びでもあると、北は改めて実感する。 「ふぅん、良かった」  そう言いながら、名前も自分の柿を一口かじる。その仕草が妙に愛らしくて、北は思わず彼女の頬に手を添えた。ほんの少し冷たい頬の感触が、温かい手のひらに伝わる。 「……?」  名前が首を僅かに傾げ、疑問符を浮かべる表情が、北の胸を掴んだ。 「何や、可愛いなぁ思て」  素直な気持ちを言葉にすると、名前は瞬き一つせず、じっと彼を見つめた。その瞳に映る自分の姿が、恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。そして彼女は、ほんの少しだけ唇を尖らせる。 「信くんは、わたしのことをそう言うけれど……」 「ん?」 「それなら、信くんの方が可愛いよ」 「は?」  不意打ちの言葉に、北は思わず目を瞬かせる。自分のどこに可愛い要素があるのか、皆目見当がつかない。厳しい練習に耐えた筋肉質な体つき、日焼けした肌、粗い手。それらは「可愛い」という言葉からは最も遠い場所にある筈だった。 「なんでや」 「だって、信くんは素直でしょう? 嬉しい時も、楽しい時も、ちゃんと言葉にして伝えてくれる。それに、わたしが何かすると、すぐに顔に出るし」  名前はくすりと笑う。その笑い声は、澄んだ秋の空気に溶け込むように軽やかだった。 「そういうところが、可愛いんだよ」  北は眉をひそめたが、否定する言葉が見つからない。確かに、名前の前では自分の感情を隠そうとは思わないし、彼女の些細な言動に翻弄されることもしょっちゅうだ。今もこうして、彼女の一言で頬が熱くなっている自分を感じる。 「……お前なぁ」  北は照れ臭さを誤魔化すように、名前の頬を指で軽くつついた。指先に触れる肌の滑らかさに、一瞬だけ息が詰まる。 「大の男を可愛い言うの、どうなんや」 「でも、事実でしょう?」  揺るぎない自信に満ちた名前の言葉に、北は降参するしかなかった。 「まぁ……名前が言うなら」  結局否定しないまま、北は柿をもう一口食べた。果汁が指を伝い落ちそうになり、思わず手の甲で拭う。そんな仕草までも愛おしそうに見つめる名前の視線を感じながら、北は何とも言えない幸福感に包まれた。  地面の水溜まりに映る雲の動きが、時の流れをゆっくりと刻んでいく。二人の間に流れる沈黙は、言葉よりも雄弁に気持ちを通わせていた。  そんなやり取りを微笑ましく思っていると、名前が静かに言葉を継いだ。 「ねぇ、信くん」 「ん?」 「ずっと、こうして一緒に居られるかな」  彼女の言葉に、北は少しだけ驚いた。名前がこういう不安を口にするのは珍しい。いつも揺るぎない自信を持ち、冷静に物事を見つめる彼女が、今は少し頼りなげな表情を浮かべている。  その姿に、北は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。名前の心の奥底にある、言葉にならない不安を感じ取り、それを払拭してあげたいという強い思いが湧き上がった。  北は柿の種を手のひらで包みながら、ゆっくりと彼女の方へ向き直る。そして、タオルで果汁を拭い、名前の両手をそっと握った。その手の冷たさが、自分の温もりで溶けていくように感じられた。 「そんなん、当たり前やろ」 「……本当に?」  名前の目に浮かぶ不安の色を見逃さず、北は一層強く彼女の手を握り締めた。 「あぁ。俺らは夫婦や。愛の契りを交わしたんやから、離れるなんてありえへん」  土を耕し、種を蒔き、水を与え、実りを待つ。農業の営みと同じように、二人の関係も日々の積み重ねの中で育まれていく。それは一朝一夕では得られない、しかし一度芽生えれば容易に枯れることのない強い絆だと、北は信じていた。  名前は北の言葉をゆっくりと咀嚼するように聞き、瞳に安堵の色を灯らせると、花が綻ぶように微笑んだ。その表情に、先程までの不安が消え去ったことを確認して、北はほっと胸を撫で下ろした。 「そうだね。……信くんは、やっぱりちゃんとしてる」 「当然や」  北は名前の手を引き寄せ、その額にそっと唇を落とした。僅かに湿った前髪の感触と、彼女特有の香りが、北の全身を包み込む。 「ほな、もう心配すんな。俺はずっと、名前のもんやから」  その言葉は、ただの約束以上の重みを持っていた。それはバレーボールの試合で交わした「ちゃんとやる」という誓いよりも、もっと深く、もっと本質的な決意だった。  稲穂が風に揺れる度、水田全体が波打つように輝きを変える。二人の影が寄り添ったまま、土の上に長く伸びていた。北は名前の髪を撫でながら、そっと視線を稲穂へと移した。  今年も豊作になりそうだ。豊かな稔りが約束されたこの田園風景の中で、自分達の未来もまた、実り多きものになるだろう。  秋風が、黄金色の稲穂を揺らした。  二人の未来を祝福するように、どこまでも優しく――。



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