春炬燵のパラドックス | Title:何か気が合う

 ――気が合うって、こういうことを言うのかもしれないな。  マンションのリビング、と言うよりは、その一角を占める和室の中央で。季節が逆行したかのような光景を前に、わたしは一人、そんな感慨に耽っていた。季節外れの炬燵。兵庫の冬はとうに峠を越し、窓の外に目をやれば、街路樹の枝先には生まれ立ての薄緑が宿り始めている。開けた窓から時折滑り込む風は、土と若葉の匂いを孕んで、確かに春のそれだった。  にも拘らず、わたしは朝からいそいそと押し入れの奥の炬燵布団を引っ張り出し、埃を払い、畳の上に鎮座するやぐらにふわりと掛けていた。理由は、驚くほど単純。 「信くんと、炬燵に入りたいから」  ただ、それだけ。それだけが、春の訪れに抗う充分な理由だった。  電源を入れ、ヒーターがチリ、と微かな音を立てる。やがて、炬燵布団の内側に、柔らかな温もりが満ち始める。その気配に満足し掛けた、正にその時――玄関のチャイムが、軽快なメロディを奏でた。待ち人が来た合図だ。 「おう、来たで。……って、名前、何しとんねん」  リビングに入ってくるなり、信くんは和室の異様な設えに一瞬、目を丸くした。けれどすぐに、その色素の薄い瞳に、いつもの穏やかさとは少し違う、呆れを含んだ笑みが浮かんだ。彼のこういう表情、わたしは結構好きだ。 「炬燵、出したんだ。ふふ、吃驚した?」 「見たらわかるわ。……けど、もう春やで。さっき外歩いとったら、風が気持ちええくらいやったのに」  信くんの声には、非難よりも純粋な疑問が乗っている。 「うん、知っている。だけど、わたしはまだ、冬が終わってほしくなかったんだ」  そう呟くと、信くんは少しだけ目を細めて、黙ってわたしを見た。きっと、わたしの言葉の裏にある、本当の意味に気づいたのだろう。炬燵布団に潜りたい理由は、肌を刺す寒さからの逃避じゃない。心のどこかで感じる、言いようのない寂しさを紛らわせる為――或いは、季節がどれだけ巡ろうとも、彼と過ごすこの瞬間、わたしの"今"だけはずっとここに止めておきたいという、身勝手で、切実な願いの表れだった。  沈黙の後、信くんはフッと息を吐いて、諦めたように、或いは全てを受け入れるように言った。 「……ほな、俺も潜らせてもらうか」  その一言が、なんだかとても嬉しかった。信くんはわたしの小さなわがままを、こうしていつも、黙って受け止めてくれる。ジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けると、彼はごそりと音を立てて炬燵に入り込んだ。狭い空間に、彼の存在感が満ちる。そして、不意に足が触れた。素肌に感じる、彼の足の甲の感触。思わずびくりと肩を揺らすと、彼の指が悪戯っぽく、そっとわたしの踝を撫でた。それだけで、じわりと熱が身体の中心から広がっていく。 「……ぬくいな」  炬燵の中で、信くんがぽつりと言った。 「うん。丁度いい温度」 「……なんや、名前とおると、全部ちょうどええ感じがするわ」  その言葉に、胸がきゅっと甘く締め付けられる。 「それって、褒め言葉……?」 「当然や。俺にとっての『ちょうどええ』は、最上級の褒め言葉やで」  信くんは事もなげに言うけれど、その言葉がどれ程、わたしの心を温めるか、彼は知っているのだろうか。  炬燵の中は、二人だけの小さな宇宙だ。天板の下、誰の目にも触れない場所で、そっと手を握ったり、足を絡めたり。彼の少し乾いた指先が、わたしの手のひらを辿る。それだけで、世界から切り離されたような、秘密めいた親密さが生まれる。和室の空気は、ヒーターの熱と、わたし達の間に漂う感情とで、次第にふわふわと甘く、少しだけ気怠く変化していった。  ふと顔を上げると、信くんの視線が、じっとわたしの頬を追っていることに気づく。その真剣な眼差しに、心臓がとくりと跳ねた。わたしも彼の、陽の光を反射して煌めく銀の髪に触れたくなって、そろりと手を伸ばす。 「静電気、平気……?」  冬の名残は、こんなところにも潜んでいる。 「もう慣れたわ。名前が触れてくれるんやったら、バチバチ言うのも悪ない」  信くんは事もなげに言って、伸ばし掛けたわたしの指を取ると、その指の腹に、驚くほど優しいキスを落とした。ちゅ、という小さな音と、唇の柔らかな感触。 「……信くん、今日はやけに甘いね」  思わず、そんな言葉が漏れた。 「いや。いつも通りやと思うで。寧ろ、名前が俺の甘さに、ちゃんと気ぃ付くようになったんや」  信くんの言葉は、わたしの心のガードを一枚ずつ剥がしていくみたいだ。 「じゃあ、わたしも……もっと甘くなるよ」  その一言が、引き金だったのかもしれない。彼の目が、すうっと細められる。それは微笑むと言うより、もっと深く、何かを確かめるような――そう、まるで獲物を前にした狐が、じっと機を窺うような鋭さと、どこか切なさを孕んだ表情。炬燵の中、絡められた指の感触に再びドキリとした瞬間、視界いっぱいに信くんの顔が迫り、彼の唇が、すぐそこに落ちてくる。 「――言うても、お兄さん、そろそろ帰ってくるんちゃうん?」  最後の抵抗のように、掠れた声で尋ねる。信くんの気配に、思考が蕩けそうだ。 「多分、夕方まで帰らない。……だから、その時まで、二人きりだよ」  それが、明確な許可になったのかどうかはわからない。  けれど、次の瞬間、重ねられた信くんの唇は、春の陽だまりそのものみたいに温かくて、それでいて、少しだけ焦がすように熱かった。  炬燵の中で、信くんの腕がわたしの背中をそっと撫でる。彼の体温が、薄い部屋着越しに伝わってくる。重ねた指と指が、言葉にならない想いを交換し合っているようで、心地いい痺れが全身を駆け巡る。  好きだな、と思った。  この、穏やかで、少し不器用で、でも誰より深くわたしを理解してくれる人が。好きで好きで、どうしようもなくて、胸が張り裂けそうになる。でも、その溢れそうな感情を、今ここで言葉にしてしまうのは、なんだか少し照れ臭かった。  そんなわたしの心の逡巡を見透かしたかのように、信くんが沈黙を破る。唇が離れ、名残惜しむように互いの額がこつんと触れ合う距離で、彼が囁いた。 「なあ、名前」 「……うん?」  吐息が掛かる程の近さで、彼のまつ毛が瞬くのが見える。 「……将来、俺らがもし結婚したとしてやな。毎年、春になってもこうやって炬燵、出すんか?」  唐突な、けれど余りにも彼らしい問い掛けに、思わず噴き出しそうになる。 「うん。出すよ、絶対」  迷い無く、即答した。 「……ほんまに? バァちゃんに見られたら、『もう春やいうのに、何しとるんや』って、吃驚されるで?」  心配そうな、でもどこか面白がっているような声色。 「いいの。信くんがわたしを選んでくれたっていう事実だけで、お祖母ちゃんが吃驚するくらい素敵なんだから。炬燵くらい、特に問題無いよ」  そう言うと、彼は「敵わんなあ」とでも言うように、くつくつと喉の奥で笑った。その振動が、炬燵布団の中に柔らかく籠もって、わたしの耳朶を優しく揺らした。  炬燵という名の、二人だけの小さな宇宙。ここでわたし達は、互いの温もりを分け合いながら、まだ形の無い未来のことを、なんとなく、でも確かに描き始めていた。  そして、あの厄介な静電気のことなんてすっかり忘れてしまうくらい、信くんはこの日、何度も何度もわたしの髪に指を通し、頬を撫で、確かめるように唇を重ねた。  それはきっと、窓の外に広がるどんな春よりも、ずっとずっと温かい一日。  恋は、やっぱり、炬燵の中から生まれて、育っていくのかもしれない。



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