狂わされる至福 | それが、君との恋。

 北信介は、自分の恋人が「面積の少ない下着を愛用している」と無邪気に告げてくるタイプの人間であることを、漸く理解しつつあった。  ――いや、わかっとったけどな?  名前と付き合ってからというもの、彼女のミステリアスな言動には何度も振り回されてきた。まるで、感情の迷路を巧みに操る魔術師のように、彼女は北の理性の限界を常に試している。 「信くん、わたしのこと、どれくらい好き?」 「めちゃくちゃ好きや」  そう言ったばかりの俺に、追い打ちを掛けるように「今日は、信くんが好きそうな色の、薄い下着をつけているよ」と来た。  ――もう、ほんまに無理や……。  今、ここは名前の部屋。彼女の住むマンションの一室にある広々としたベッドの上で、北は仰向けに倒れ込んでいた。ふかふかのマットレスに沈み込みながら、先程の言葉の衝撃に耐えている。淡い午後の光が部屋に穏やかに流れ込み、その静けさが北の狼狽えた心理状態を更に際立たせる。 「信くん?」  隣に腰掛けた名前が、覗き込んでくる。その顔が近い。呼吸を感じる程に。彼女の瞳には、狡猾さと無邪気さが奇妙に混ざり合っている。 「……なぁ」  北は、天井を見つめたまま、力なく呟く。 「さっきから思てたんやけどな」 「うん」 「俺の理性、試しとるやろ?」 「そんなことはないよ?」 「ほんまか?」 「……ちょっとだけ」 「ちょっとだけって、なんやねん……」  北は、もうどうにでもなれという気分で目を閉じた。木漏れ日の下で名前に翻弄された午後の公園――あの時点で既に心臓に悪かったのに、今度は彼女の部屋、それもベッドの上である。  ――終わりや。 「信くん?」 「……なんや」 「撫でてもいい?」 「……どこを?」 「信くんの、おでこ」 「……」 「落ち着くかなと思って」  ――なんでそんな可愛いこと言うんや。  北は、深く息を吐いた。その息の中には、愛おしさと困惑、そして降参の気持ちが混ざり合っていた。 「……しゃあないな」 「うん」  名前は、そっと彼の額に手指を這わせる。ひんやりとした指先が膚を撫でる感触に、北は思わず目を閉じた。指の温度と圧力が、彼の緊張した神経を和らげるように解きほぐしていく。 「どう?」 「……まぁ、落ち着く……かもしれん」 「それは良かった」  名前の声が、優しく響く。まるで小説の中のワンシーンのように、美しく、静かな時間。  ――の筈やったのに。 「……でも」 「ん?」 「今、わたしがつけている下着、気になる?」  ――うわぁぁぁぁぁぁぁ。 「アカン!」  北は、反射的に叫んでいた。 「その話題、アカンって」 「どうして?」 「どうしてって、そんなん……」  ――お前が俺をどうしたいんか、聞かんでもわかるやろ。 「……」 「……」  沈黙。部屋に漂う微かな緊張と、北の狼狽えた感情が、まるで水面下に広がる波紋のように空間を満たしていく。 「……ふふ」  名前は、北の反応を見て嬉しそうに笑った。その笑顔には、悪戯っぽさと愛情が絶妙にブレンドされていた。  ――ほんま、俺はこの子に振り回されっぱなしやな。  それでも、名前の笑顔を見る度に、全部許してしまう自分が居る。愛とは、時に理性を超越する力なのかもしれない。 「……もうええわ」 「うん?」 「ほんま、しゃあないな……」  北は、ふっと微笑み、名前の頭を撫でた。その仕草には、降参と愛情が絶妙に混ざり合っていた。 「名前は、ほんまに俺を困らせる天才や」 「困ってる?」 「せやな、まぁ……嬉しい困り方、ってとこや」 「なら、いいよね」  名前は、満足そうに目を細めた。その表情が余りにも愛おしくて、北はもう一度、そっと彼女の髪を梳いた。絹糸のような質感が、彼の指の間を滑るように通り抜けていく。  ――こんなに振り回されても、やっぱりこの恋をやめる気は、まったくないんやろな。  そんなことを、ぼんやりと思いながら。部屋に差し込む夕暮れの光が、二人の影を時の流れと共に伸ばしていった。



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