ゼリーに溶けた影の重み | お前が居ない夏は、調子が狂う | Title:I need you. 君が必要だ。

 肌を刺すような陽光が、アスファルトを白く灼いていた。逃げ場のない夏の熱気は、粘り気を持っているかのように空気に満ち、一歩外に出ただけで全身が汗ばむ。ジージー、ワシワシと、鼓膜を劈くような蝉の声が降り注ぎ、視界の先では陽炎が蜃気楼のように景色を歪ませている。空を見上げれば、巨大な綿菓子のような入道雲が、その圧倒的な質量を誇示するように鎮座していた。そんな猛暑日の昼下がり、影山飛雄は、ガンガンに冷房の効いた、外気との境界を曖昧にする電車のシートに深く腰掛け、携帯電話を凝視していた。  ――『飛雄くん、ごめんね。今日はちょっと、行けそうにないかも……』  画面に表示されたのは、ほんの数行の短いメッセージ。送り主は、名前。今日、会う約束をしていた彼女からのものだった。読んだ瞬間、影山の胸の奥に、小石でも投げ込まれたような、小さな、しかし確かな波紋が広がった。違和感。その正体はすぐには掴めなかったが、妙に胸がざわつく。 「……チッ」  苛立ちとも不安ともつかない感情が綯い交ぜになり、無意識の内に舌打ちが漏れた。指が、硬い携帯電話の筐体を無意味に強く握り締める。  ――名前が、約束をドタキャンするなんて。  殆ど記憶にない。時間に正確で、一度決めたことは律儀に守るタイプの彼女が。しかも、『行けそうにない』という曖昧な言い回し。はっきりしない物言いは、普段の名前らしくなかった。何か、理由がある筈だ。体調が悪いのか? 何かトラブルに巻き込まれた? それとも、まさかとは思うが、単なる気紛れ……? ぐるぐると考えを巡らせても、答えは見つからない。ただ、理由がどうであれ、このまま電車に揺られていること自体が、影山には耐え難い苦痛に感じられた。じっとしていられない。確かめなければ。  目的の駅で電車を飛び降り、早足で彼女の住むマンションへと向かう。本来、予定していた時間よりも、随分と早く着いてしまった。見慣れたエントランスの前に立ち、部屋番号も名字もない、ただ白いだけのシンプルな表札を見上げる。影山は深く息を吸い込み、インターホンを押した。呼び出し音が、静かな空間に響く。 「……」  応答がない。シン……と静まり返ったエントランスに、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。もう一度、今度は少し長めにボタンを押してみる。それでも、スピーカーからは何の反応も返ってこない。  ――まさか、寝てるのか? それとも、具合が悪くて出られない?  最悪のケースが頭を過り、心臓が嫌な音を立てる。影山は逡巡の後、ポケットを探り、ひんやりとした金属の感触を確かめた。以前、名前が「飛雄くん専用だからね」と、少し照れたような顔で渡してくれた合鍵。他人の家の鍵を勝手に使うことへの微かな抵抗感と、それ以上に彼女の身を案じる気持ちがせめぎ合う。だが、躊躇は一瞬だった。彼女の無事を確認したいという衝動が、躊躇いを容易く凌駕する。カチャリ、と軽い音を立てて鍵を差し込み、エントランスの扉を開けた。
 エレベーターを降り、名前の部屋のドアの前で立ち止まる。チャイムを鳴らすか迷ったが、結局、再び合鍵を使った。静かにドアを開け、中に滑り込むように入る。 「……名前?」  呼び掛けても、返事はない。部屋の中は、時が止まったかのように静かだった。ひんやりとした冷房の作動音だけが、低い唸りのように響いている。窓に掛かった薄いレースのカーテンが、エアコンの風を受けて、幽霊のように静かに揺れていた。  リビングへ続くドアをそっと潜ると、視界の隅に、ソファの上で小さく丸まっている人影が見えた。 「……おい」  それが名前だと認識した瞬間、影山は反射的に駆け寄っていた。ソファに横たわる彼女は、いつもと変わらない端正な顔立ちをしている。だが、その表情は安らかな寝顔とは程遠く、眉間に苦しげな皺が刻まれていた。顔色は普段の血色の良さが嘘のように青白く、額に浮かんだ汗で数本の髪が張り付いている。呼吸も、心成しか浅く速いように感じられた。 「……飛雄、くん……?」  影山の気配に気づいたのか、名前がゆっくりと瞼を持ち上げた。潤んだ瞳が、ぼんやりと彼を捉える。その声は、いつもの鈴を転がすような透明感を失い、熱に浮かされたように掠れていた。 「……どうしたんだ、お前」  問い質す声が、自分でも驚くほど硬く、低くなっていることに気づく。影山は咄嗟に屈み込み、その白い額に手のひらを当てた。  ――少し熱い。  想像していたよりは低いが、普段以上の熱さが、手のひらを通してじんわりと伝わってくる。常のひんやりとした肌とは違う、仄かな熱がそこにあった。 「……多分、夏バテ……かな……」  力なく呟く名前。 「は?」  夏バテって、ここまで具合が悪くなるものなのか? 「ごめんね……連絡、したのだけれど……まさか、来てくれるなんて……」 「謝んな」  影山は、殆ど遮るように言った。そして、ソファから投げ出されていた名前の細い手を、衝動的に、しかし壊れ物を扱うようにそっと握り締めた。思ったよりも熱く、そして少し震えている。 「……なんで、言わねぇんだよ。具合悪いなら、そう言え」 「……だって……飛雄くんに、心配、掛けたくなかったから……」  その健気な言葉が、ナイフのように影山の胸を抉った。ぎゅっと、心臓が痛いほど締め付けられる。 「……ボゲェ」  絞り出した声は、怒りよりも寧ろ、切実な響きを帯びていた。 「言わなくたって、心配するに決まってんだろ。俺が、お前のこと、どれだけ……」  言い掛けて、言葉を飲み込む。名前の指先が、弱々しく、しかし確かに、影山の腕にそっと触れた。 「……飛雄くん」 「……なんだよ」 「……居てくれて、良かった」  その囁くような一言が、影山の心の最も柔らかな部分を、強く、深く揺さぶった。息が詰まる。世界から音が消えたような錯覚。ただ、名前の言葉だけが、繰り返し頭の中で響いていた。「居てくれて、良かった」――その言葉に含まれた安堵と信頼の響きが、自分の存在そのものを肯定してくれるようで、柄にもなく胸が熱くなる。 「……当たり前だろ」  ぶっきら棒に、しかし精一杯の感情を込めて答える。影山は、衝動に突き動かされるように、ゆっくりと名前の華奢な身体を抱き寄せた。腕の中の彼女は、驚くほど軽く、そして熱かった。その体温が、彼女の弱さを雄弁に物語っている。 「……何か食えるか? 薬は?」 「……冷たいものなら、少しだけ……薬は、飲んだ……」 「わかった。待ってろ」  影山はそっと名前をソファに横たえ直し、キッチンへと向かった。勝手知ったる冷蔵庫を開け、中を確認する。幸い、冷えたスポーツドリンクと、幾つかのフルーツゼリーが残っていた。 「……これ、食えるか?」  リビングに戻り、ゼリーの蓋を開けてスプーンと共に差し出す。 「うん……ありがとう」  名前はゆっくりと身体を起こし、小さなスプーンでゼリーを一口、口に運んだ。その動作すら、どこか億劫そうだ。影山は、黙ってその様子をすぐ傍で見守っていた。彼女が一匙食べる度に、僅かに安堵の溜め息が漏れる。 「……飛雄くん?」  じっと見つめる視線に気づいたのか、名前が不思議そうに顔を上げた。 「……」 「どうしたの? そんなに見つめて……」  影山は小さく息を吐き出すと、再び名前の手を、今度は両手で包み込むように、ぎゅっと握り締めた。自分の体温を分け与えるように。 「……お前が居ねぇと、俺、なんか調子狂うんだよ。落ち着かねぇ」  ぽつりと、本音が漏れた。自分でも驚くほど素直な言葉だった。名前の目が、驚いたように微かに見開かれる。 「……飛雄くん?」 「だから、無理すんな。ちゃんと頼れ」  影山は、空いている方の手で、名前の汗ばんだ髪を優しく耳に掛けた。指先に触れる肌が、まだ熱い。 「……お前が元気じゃねぇと、俺の方がダメになる」  その言葉は、脅しでも何でもなく、紛れもない真実だった。彼女の存在が、自分のコンディションにこれほど影響を与えているという事実に、影山自身も戸惑いながら、しかし認めざるを得なかった。  名前の瞳が、見る見るうちに潤んでいくのがわかった。大きな雫が、今にも零れ落ちそうだ。 「……飛雄くん……」  震える声で、名前がもう一度、彼の名前を呼ぶ。  影山は、彼女の手を更に強く、しかし優しく包み込んだ。逃がさないように、そして、自分の気持ちの深さを伝えるように。 「……お前が必要なんだよ、俺には」  その声は、夏の暑さすら忘れさせる程、どこまでも真っ直ぐで、一点の曇りもなく、名前の心の奥深くに、確かな重みを持って響き渡った。影山飛雄という人間の、不器用で、けれど揺るぎない愛情の全てが、その一言に凝縮されていた。



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