8番ユニフォーム・ミッシング

 その夜、わたしは奇妙な、そして妙に生々しい夢を見た。  噂に聞く、足を踏み入れた者は神隠しに遭うと言う古い神社。言い伝えによれば、その禁域は、なんと白鳥沢学園高校男子バレーボール部が日夜汗を流す、あの体育館の最も奥深くに、ひっそりと隠されているらしかった。  気が付くと、わたしはその体育館の入り口付近にぽつんと立っていた。けれど、目の前に広がる光景は、見慣れた筈のそれとは明らかに異質だった。天井の照明は数える程しか点灯しておらず、深海に差し込む頼りない光のようにぼんやりと薄暗い。そして何より異様なのは、ボールの音とシューズの摩擦音が響く筈の美しい木目のフロアが、どこまでも続く粘質な泥濘へと変貌していたことだ。一歩足を踏み出す度に、ねっとりとした冷たい泥が足首に絡み付き、意思を持っているかのように動きを阻もうとする。空気に澱んだ湿気が満ち、カビと土の匂いが鼻を突いた。  ふと、視界の端を黒い影が過った気がした。  はっとして振り向いても、そこには揺らめく影以外、誰も居ない。ただ、体育館の奥、暗がりの向こうから、誰かの声が、水底から響くようにくぐもって聞こえてくる。 「……どこだ……限界突破……する五色は……どこに居る……」  それが誰の声なのか、はっきりとは判別できない。けれど、その重く、執念のような響きを帯びた声を聞いた瞬間、わたしの心臓は予感とも不安ともつかない奇妙な感覚に襲われ、とくん、と大きく跳ねた。工くんが呼ばれている? 一体、誰に? そんな疑問を抱きながらも、わたしの足は見えない糸に引かれるように、泥濘に足を取られつつも体育館の奥へ、奥へと自然に進んでいく。  やがて、体育館の最も奥まった壁際――そこにある筈のない、朽ち掛けた木々に囲まれた小さな祠へと辿り着いた。古い鳥居は深い緑色の苔に覆われ、注連縄は黒ずんで所々が千切れている。そして、その鳥居の額束には、見たこともない、呪詛のような異様な文字が禍々しく刻まれていた。辛うじて読めたのは―― 「……『迷いの森』……?」  まるで、これ以上、先へ進むことを禁ずる警告のようだった。その不吉な言葉に背筋が冷たくなるのを感じながらも、わたしの視線は祠の中に祀られている或る物に釘付けになった。  そこにあったのは紛れもなく、工くんが試合で身に着けている、白地に紫のユニフォームだった。背番号『8』の数字が、薄暗がりの中でもはっきりと見える。  何故、こんな場所に彼のユニフォームが? それは脱ぎ捨てられた抜け殻のように、静かに横たわっていた。理解が追いつかないまま、わたしはふと、自分がいつの間にか一冊の本を手にしていることに気が付いた。表紙には、力強い筆文字でこう書かれている。 『限界突破する五色工の極秘自主練記録』  ……わたし、こんなマニアックそうな本を持っていただろうか? 夢の中とは言え、余りの唐突さに眩暈がしそうだ。しかし、考えるよりも先に、わたしは供物を捧げるかのように、その本をユニフォームの上にそっと置いていた。  その瞬間、ぶぅん、と空気が低く震えるような音が響き渡り、背後から体育館の床(今は泥濘だが)を軋ませるような、重厚で規則正しい足音が近づいてくるのを感じた。ゆっくりと、しかし確実に。  恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのは――矢張り、と言うべきか。 「限界突破する五色はどこだ」  牛島若利さんだった。  夢の中であっても、彼の存在感は微塵も揺るがない。背筋を伸ばし、微動だにしない堂々とした佇まい。彼は静かに、わたしを見下ろしている。その鷹のように鋭い視線は、一切の感情を読み取らせず、ただ真っ直ぐに獲物――今はわたしだろうか――を捉えていた。その瞳には、一点の曇りも、迷いもなかった。 「……え?」  限界突破する五色? そのフレーズの意味するところが、わたしにはさっぱり分からない。ただ、この夢の中でさえ、牛島さんの放つプレッシャーは圧倒的で、息が詰まりそうだった。 「五色は、ここに居るのか」  静かな、しかし有無を言わせぬ威圧感を伴った声で、再び問い掛けられる。わたしは反射的に、祠の中に横たわるユニフォームを一瞥した。ここに工くんが居るということなのか、それとも、これはただの抜け殻で――  考えが纏まる前に、わたしは自分でも驚く程の大きな声で、彼の名前を叫んでいた。まるで、そうしなければならないと、魂が告げているかのように。 「工くん!!」  その声が体育館の壁に反響した瞬間、目の前を覆っていた濃い霧が、舞台の幕が上がるようにさっと晴れていく。そして、開けた視界の中心に現れたのは、見慣れた、けれど、今は少しだけ困惑したような顔だった。 「……名前?」  そこに居たのは、汗をびっしょりと掻きながら、一心不乱にボールを打ち続けていた工くん本人だった。いつもの練習着姿のまま、額に掛かった汗で濡れた前髪を、彼は無造作に掻き上げる。その大きく見開かれた瞳が、驚きと疑問の色を浮かべて、わたしを映していた。 「どうして……名前が、こんな時間にここに?」  いや、それはこちらのセリフだ。どうして、工くんがこんな真夜中(のような雰囲気)の、しかも泥濘と化した体育館で自主練を? そして何より、何故、わたしはこんな奇妙な夢の中に迷い込んでいるのか。  しかし、そんな疑問を口にする間もなく―― 「五色」  背後から、地響きのような牛島さんの低い呼び声が響いた。その瞬間、工くんの表情が凍り付き、全身が硬直するのが分かった。 「う、う、牛島さんっ?! な、なんでここに?!」  彼の素っ頓狂な驚愕の声が、静まり返った体育館に木霊する。夢の中の筈なのに、その狼狽ぶりは妙に現実味を帯びていて、少しだけ可笑しかった。 「……問う。限界突破する五色工は、ここに居るのか?」  牛島さんは、工くんの動揺など意にも介さず、淡々と、しかし核心を突く問いを繰り返す。 「い、いや、俺は今、ただの自主練って言うか、その、限界とかそういうアレじゃなくて――」 「ならば見せろ。その限界とやらを、今、ここで」 「えぇっ!? ま、待ってください!! まだ心の準備が!!」  工くんが慌てふためき、じりじりと後退る。しかし、白鳥沢の絶対的エースである男の有無を言わさぬオーラが、それを許す筈もなかった。 「やるぞ、五色。俺がトスを上げよう」 「いやいやいや! 俺、限界突破とかそういうモードじゃないんで、今は――ちょ、名前!? なんで、俺の腕掴んで、牛島さんの方に押し出すんだよ!」 「……工くん、頑張って。限界を突破して」 「違う違う違う! そういう応援じゃない! 助けてくれって言ってるんだ!!」  工くんの悲痛な叫びが、泥濘の体育館に虚しく響き渡る中――  わたしは、ふと自分の足元がふわりと軽くなるような、奇妙な浮遊感を覚えた。  視界が急速に白く染まっていき――  次の瞬間、わたしは自室の見慣れた天井をぼんやりと見上げていた。自分の部屋のベッドの上だ。  夢、だったのか。  余りにもリアルで、奇妙な夢だった。深い溜息をつくと、隣で規則正しい寝息を立てていた工くんが、んん……と小さく身動ぎした。そうだ、昨夜から、彼がお泊りに来ていたのだった。 「……工くん?」  そっと彼の顔を覗き込むと、何故か眉間に深い皺が刻まれていて、苦しそうな表情をしていた。 「……うぅ……牛島さん、もう無理っす……ボールが見えない……もう……限界……です……」  はっきりと、寝言でそう呟いている。どうやら彼も、わたしと全く同じ、あの奇妙な夢を見ていたらしい。  わたしは思わずくすりと笑みが漏れるのを止められなかった。そして、彼の汗で少し湿った髪を、優しく指で梳くように撫でた。 「大丈夫だよ、工くん。もう夢の中じゃないから。ここは安全なベッドの上だよ」  そう囁き掛けると、彼の眉間の皺が微かに緩み、苦悶の表情が和らいでいく。そして、安心したように、わたしの手にそっと自分の頬をすり寄せてきた。子猫みたいだ。  しかし――油断は禁物だった。 「……でも、夢の中でも名前、ちゃんと俺のこと応援してくれてたな……へへっ……なんか、嬉しかった……」  寝惚け眼のまま、満足げに、そして少しだけ得意気にそう呟く工くんを見て、わたしは一瞬呆れつつも、矢張りどうしようもなく、この純粋で一生懸命な彼のことが愛おしくて仕方がなかった。全く、夢の中でも現実でも、彼は彼なのだ。  わたしは、彼の髪をもう一度そっと撫でながら、愛しさと、ほんの少しの呆れを込めて微笑む。 「……おやすみ、工くん。良い夢を、今度こそね」  彼が再び安らかな寝息を立て始めるのを見届けると、わたしもそっと目を閉じた。瞼の裏には、まだ泥濘の体育館と、限界突破を迫る牛島さん、そしてそれに必死で抗う工くんの姿が焼き付いているような気がしたけれど、隣にある確かな温もりが、わたしを優しい眠りへと誘ってくれた。



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