指先禁止令

兄貴の描写が含まれます。  放課後の教室には、深海に沈殿していくかのように濃密な静寂が積もっていた。  最後のチャイムが鳴り響いてから、もう数分は経っただろうか。窓の外の空はまだ吸い込まれるような青さを保っていて、風がカーテンを緩やかに揺らす度、午後の陽光が床の木目を金色に、慈しむように撫でていた。既に誰も居ない筈のその空間に、俺、五色工は一人、教科書を閉じ損ねたまま机に突っ伏していた。今日の授業内容なんて、殆ど頭に入ってこなかった。それどころじゃなかったんだ。  その時だった。 「――五色くん」  不意に背後から鈴を振るような、それでいて芯のある声が降ってきて、心臓が鷲掴みにされたみたいに跳ね上がった。いや、跳ね上がったなんてものじゃない。肋骨を突き破って飛び出しそうだった。  咄嗟に顔を上げて振り向くと、そこには白昼夢の一場面を切り取ったかのように、苗字名前が立っていた。  いつもと寸分違わぬ制服姿。けれど、纏う空気が常よりも澄んで、どこか張り詰めている気がした。丁寧に整えられた髪は、横から差し込む光を複雑に縫い取り、光の加減で仄かに青を帯びて見える。俺の視線を真正面から受け止めるその瞳は、どこまでも深い夜の海を思わせ、凪いだ水面の下に何を秘めているのか、まるで読めなかった。ただ、吸い込まれそうな引力だけが在った。 「今日の夜、うちに来てほしいの」  ――一瞬、何かの聞き間違いかと思った。いや、そうであってくれと願ったのかもしれない。理解が追いつかないまま、背筋にビリビリと鮮烈な電流が走った。  ずっと、ずっと、この胸の中で育んできた想い。隣の席で、白魚のように細く長い指先を使い、シャーペンをくるくると器用に回す彼女を、もう何百回、いや、何千回となく横目で盗み見てきた。昼休み、薔薇の絵柄が刺繍されたハンカチで、そっと手を拭う優雅な仕草に見惚れ、手に持っていた牛乳を一気に飲み干し、咽てしまったこともある。帰り道、外灯の下で黒猫に優しく話し掛けている姿を目撃した時には、「今なら、この気持ちを伝えられるかもしれない」なんて、何の根拠もない切実な希望を抱いたことだって、一度や二度じゃない。  だけど、「うちに来て」なんて、そんな言葉を真正面から告げられたのは、これが初めてだった。  苗字さんは、俺の呆然とした表情を気にするでもなく、そのまま隣の、いつも彼女が座っている席に静かに腰を下ろした。学生鞄をきちんと膝の上に載せ、俺と同じ目線の高さになって、もう一度、言葉を重ねた。 「……お願い。とても、来てほしいんだ」  息を飲んだ。  言葉遣いはどこまでも柔らかいのに、その瞳は余りにも真剣で、射抜くような強ささえ孕んでいた。揶揄いや冗談の類ではないことが一瞬にして、痛い程に伝わってきた。 「え、あ、うん……い、行く!! で、でも、どうして……急に?」  自分でも驚く程に食い気味に、上擦った声で答えてしまった俺を、苗字さんは矢張り淡々とした、感情の読めない表情で見つめていた。そして、天気を告げるみたいに、少しもトーンを変えずに言った。 「理由は、後で話すよ」  それっきりだった。  まるで"問答無用"と墨痕鮮やかに書かれた札を、その細い首からぶら下げているかのようだった。  断る理由なんて、最初から思い付きもしなかった。いや――正確にはこの状況で、苗字さんの頼みを断れる気が微塵もしなかったんだ。
 そして、夕暮れの茜色が空の果てまで燃え広がり、やがて濃紺の帳へとその座を譲ろうとする頃。  俺は苗字さんに導かれるまま、瀟洒なマンションの前に立っていた。  いつも過ごしている白鳥沢の男子寮とはまるで違う、静かで洗練された、どこか現実離れした空間だった。オートロックの重厚なガラス扉を抜け、上階へと静かに昇っていくエレベーターの中、苗字さんはずっと黙り込んだままだった。だが、不思議とその沈黙は、少しも苦ではなかった。寧ろ隣に立つ彼女の肩先が、ごく稀に俺の腕にふわりと触れる。その度に無意識に背筋が伸び、心臓が早鐘を打って、血液が全身を駆け巡る音が聞こえるような気さえした。  鍵を開けた彼女が部屋に入る直前、ぽつりと言った。 「今日は、兄貴兄さんも、弟のも居ないの。わたしと五色くん、二人だけ」  ――その言い方が余りにも自然で、含みがないように聞こえたから、逆に、俺の心臓には途轍もなく悪かった。二人きり。その言葉の響きが、頭の中で何度も反響する。  招き入れられた部屋は広々としていて、生活感と云うものが希薄な程、無機質なくらいに静かだった。カーテンは濃い色の、遮光性が高いものでぴっちりと閉められていて、間接照明の柔らかい灯りが、真っ白と言うよりはどこか現実味のない光の粒子となって空間に落ちている。白でもなく、黒でもなく、世界から彩度と云う概念だけを抜き取ってしまったような、不思議な雰囲気。けれど、壁の一角には小さな鉢植えのグリーンが幾つか並び、読み掛けらしい分厚いハードカバーの小説が数冊、そして、ソファの隅には少しくったりとした犬のぬいぐるみが置かれていて、それらが間違いなく彼女の気配を放っていた。 「……あのさ、苗字さん。本当に、どうしたの? 何かあったの?」  俺の声が、自分でも分かるくらいに少し上擦る。心配と、それ以上の期待と不安がごちゃ混ぜになっていた。  苗字さんは、ふと視線を床に落としながら指を組み合わせ、静かにはっきりと告げた。 「添い寝を、してほしいんだ」 「――は?」  脳がその要望の意味を処理することを、完全に拒否した。  律儀にも、鼓膜だけがその言葉の響きを何度も何度もリピート再生している。 「……え、えっと、つまり、それって……その、寝るって云うのは……一緒に、ってこと?」  声が震えるのを止められない。 「ソフレって言うんでしょう? そう云うの。添い寝だけの関係」  濃霧の中を彷徨うように思考が纏まらない。けれど、苗字さんは相変わらず淡々とした口調で説明を続ける。 「最近、よく眠れないんだ。凄く浅くて、何度も目が覚めてしまう。だけど、五色くんと一緒なら、きっと安心して眠れると思って……わたし、寝つきが悪い上に夢ばかり見るから、途中で何度も起きてしまうの。でも、五色くんが隣に居てくれたら、安眠できそうな気がして……変なお願いだって分かっているけれど……どうか、聞いてほしい」  違う、そうじゃない。俺の心臓が煩過ぎて、ドラムロールみたいに鳴り響いて、苗字さんの繊細な声が、その奥に在る本当の気持ちが、聞き取れなくなりそうだ。  でも、混乱した頭で何とか絞り出し、口から飛び出してきたのは――。 「……て、手を繋いだりとか、そう云うのは……していい?」  一瞬の沈黙。遠くで風が庭の枯葉を掻き混ぜるような、微かな音がした気がする。すぐに、苗字さんは静かに首を横に振る。 「駄目だよ。触れるのは禁止」 「じゃ、じゃあ、ハグは? 後ろからくらいなら……」 「ハグも禁止。……見つめ合うのも、三秒まで」 「厳しくない……!?」  完全に焦らしプレイ、いや、修行僧も裸足で逃げ出すレベルの厳格ルールである。だが、俺は思った。「それでも隣に居られるなら、この際、それで充分だ」と。  いや、嘘だ。充分じゃない。全然、これっぽっちも充分じゃない。どうにかして触れたくて、その温もりを感じたくて仕方がない。でも、俺のことを「一緒に眠りたい」と、そう思ってくれる彼女が、今、目の前に居る。それだけでもう、俺は感謝して、この先の人生を生きていけるような気がした。
 その夜。苗字家の、真っ白で清潔なシーツの上。  苗字さんの部屋は、ふわりと甘く、どこか切ない薔薇の香りがした。シーツにも、彼女の髪にも、枕にも、その芳香が染み付いているようだった。 「……緊張、しているの?」  隣から、苗字さんの静かな声が届く。 「緊張してるよ! 滅茶苦茶!! 人生で一番緊張してるかもしれない!!」  思わず叫びそうになるのを必死で抑えた。 「ふふ、そう……安心して。すぐに寝てしまってもいいから」  真横に、ずっと焦がれてきた好きな人が寝転んでいる。この非現実的な状況。  隣で、苗字さんの艶やかな髪が、枕に柔らかく広がっている。彼女の呼吸はとても静かで、深海の底に居るような、穏やかで神秘的なリズムを刻んでいた。 「……五色くん。どうして、わたしのお願いを聞いてくれたの?」 「え?」  唐突な問い掛けに、言葉が詰まる。 「わたしは……変な子だよ。ずっと、誰かと一緒に寝るなんて考えられなかったのに、今は五色くんが必要だなんて、凄く都合がいいと思わない?」 「都合良くても、俺は嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい」  嘘偽りのない、心の底からの言葉だった。 「……本当?」 「本当。俺さ、ずっと、ずっと、苗字さんのことが好きだったから」  言ってしまった。勢いと云うか、もう、この状況で告げない方がおかしいだろ、と。  彼女の美しい横顔が、ほんの僅かに動いた。伏せられた長い睫毛が、蝶の羽のように微かに揺れた。反応は、それだけ。  でも、それだけで、俺の心臓はまた大きく跳ねた。今度は苦しいくらいの甘い痛みと共に。  沈黙の中、暫くすると、彼女が再び口を開く。その声はさっきよりも、少しだけ吐息に近い響きを帯びていた。 「……ねぇ、五色くん。今夜は、夢の中でだけなら……触れても、いいよ」 「えっ!? ちょっ、お、俺、夢の中でどこまで許されるんだ!? どこまでしていい!?」  パニックと期待で、頭が沸騰しそうだ。 「……口に出したら、無効だよ」 「くっ……!!」  その夜、俺は生涯で最も甘美で、最も鮮烈な夢を見ることになる。  けれど、この時の俺はまだ知らなかった。  この夜が、俺の中に眠っていた何かを決定的に変えてしまう、そんな特別な夜になることを。  例えば、余りにも不器用で、ただ見つめることしかできなかった片想いが、押さえ付けていたリミッターを振り切り、我慢の限界を超えて暴走を始めるような。  例えば、触れたい、もっと深く繋がりたいと云う、焼け付くように熱い欲望が、清潔なシーツの僅かな隙間から、抗い難い力で忍び寄ってくるような。  それが"ソフレ"と云う名の、とても甘くて、硝子細工のように脆く、凄く不安定な関係の、ほんの始まりに過ぎなかったのだと――俺はまだ知る由もなかった。



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