夜色ロマンス・プレイ ∟優し過ぎる彼だからこそ、わたしは"無理矢理"を夢見た。

五色視点→名前視点→三人称視点。性的なニュアンス、兄貴の描写が含まれます。 「っしゃア゛――――ッ!!」  体育館に響き渡る絶叫と共に、俺の放ったスパイクが相手コートの隅に突き刺さる。ボールが床を叩く乾いた衝撃音と、シューズが軋む音。汗とエアーサロンパスの匂いが混じり合うこの空間が、俺の日常だ。  牛島さんを越えるエースになる。その一心で、今日もボールを追い駆け続けている。  だけど、最近の俺にはもう一つ、心を占める大きな存在があった。  練習が終わり、汗まみれの身体をシャワーで清める。寮の自室に戻る足取りは、いつもよりずっと軽い。スマホを手に取ると、待ち望んでいたメッセージが画面に灯っていた。 『工くん、お疲れ様。今日、うちに来られる? 兄貴兄さんは新作の打ち合わせで遅くなるみたいだから』  苗字名前。  俺の、初めての恋人。  メッセージを読み返すだけで、心臓がバレーの試合終盤みたいに激しく脈打つ。口元が弛むのを抑えられない。 『すぐ行く!』  スタンプも何も付けない、余りに素っ気ない返信。だが、俺の逸る気持ちは、この五文字に凝縮されている。  彼女が兄と二人で暮らすマンションは、白鳥沢学園の寮からそう遠くない。寮監に外出届を出し、高鳴る胸を抱えながら夜道を歩く。見慣れた筈の風景が、今はやけに輝いて見えた。  エントランスでインターホンを押すと、すぐに軽やかな解錠音が響いた。エレベーターで彼女の住む階へ向かう。心臓の音が妙に大きく聞こえる。ドアの前で一度、深呼吸。衣服の乱れを直し、前髪を軽く整える。よし。  ドアを開けてくれた名前は、いつも通り、現実とは思えないくらいに綺麗だった。  夜の海を閉じ込めたような静かな瞳。長い睫毛に縁取られたその目が、俺を捉えてふわりと細められる。血の気のない、透き通るような白い肌。シンプルな濃紺のワンピースから伸びる手足は、驚く程に華奢だ。 「いらっしゃい、工くん。早かったね」 「おう。名前に会いたかったから、急いで来た」  正直に告げると、彼女は「そう」と短く呟いて、薄桃色の唇の端を微かに持ち上げた。その小さな反応だけで、俺の心は簡単に満たされる。単純だと、白布さんにはよく罵られるが、好きな子に喜んでもらえるのが嬉しくて、何が悪い。  招き入れられたリビングは、静かで、清潔で、彼女の好きな本の匂いがした。窓際には観葉植物が並び、穏やかな時間が流れている。俺はソファに腰を下ろし、隣に座る名前の肩をそっと引き寄せた。俺の肩に、彼女が頭を預ける。シャンプーの甘い香りが鼻腔を擽り、俺の思考はあっと言う間に蕩けていく。 「……なぁ、名前」 「うん?」 「好きだ」 「わたしもだよ」  他愛もないやり取り。だけど、この時間が、俺にとっては何よりの宝物だった。  暫く無言で寄り添っていると、名前がローテーブルに置いてある本に目を留めた。洒落た装丁の、海外の恋愛小説らしい。 「それ、面白いのか?」 「うん。凄く……情熱的なお話」 「情熱的……」  その言葉に、俺の脳裏では少女漫画みたいなキラキラしたエフェクトが舞った。そうだ、俺達も、もっと情熱的になるべきだ! エースたるもの、恋愛においても常にトップを狙わなければ! 「俺も! 名前にもっと情熱的になりたい!」  高らかに宣言すると、名前が肩口でくすりと笑う気配がした。少しだけ身体を起こし、俺の顔をじっと見上げてくる。夜色の瞳が、何かを試すように揺れていた。 「ふぅん。例えば、どんな風に?」 「え? そりゃあ、もう……こう、ぎゅーってしたりとか! キスとか! もっと沢山!」  腕を広げ、身振り手振りでアピールする俺に、名前は「ふぅん」と、どこか物足りなさそうな相槌を打った。あれ、違うのか? 「……もっと、こう……抗えないような感じとかは、ないの?」  ぽつりと囁くように紡がれた言葉。  俺は一瞬、その意味を理解できなかった。 「抗えない……感じ?」  オウム返しに尋ねると、名前はすい、と俺から視線を逸らした。垂れた前髪が、彼女の表情に影を落とす。よく見ると、白い耳の縁がほんのりと赤く染まっていた。 「……例えば、わたしが嫌がっても、工くんが無理矢理、とか……」  ……。  …………は?  無理矢理?  今、この可憐で、儚げで、壊れそうな程に繊細な俺の恋人は、なんと言った?  思考が完全に停止する。体育館の天井からサーブを打たれたみたいに、脳天を直撃する衝撃。レシーブなんて、到底できない。俺の頭は真っ白になり、只々、名前の横顔を見つめることしかできなかった。 「む、む、む、無理矢理!?!?!?」  漸く絞り出した声は、無様に裏返っていた。 「そ、そんなこと、できるワケないだろ! 俺が、名前の嫌がることをするワケない! 絶対に! 万が一にも!」  俺はぶんぶんと首を横に振って、全力で否定した。冗談じゃない。このガラス細工みたいに美しい彼女に、そんな乱暴な真似ができる筈がない。傷一つだって付けたくない。世界中の何からだって守りたいと思っているのに。  俺の剣幕に、名前はびくりと肩を震わせた。そして、俯いたまま、消え入りそうな声で呟く。 「……そう、だよね。ごめん、変なことを言った」  その声は明らかにしょげている。真っ赤に染まった耳が、彼女の羞恥を物語っていた。  しまった。強く言い過ぎたか。  気まずい沈黙が、静かなリビングに重く圧し掛かる。ソファのスプリングが軋む音さえ聞こえそうだ。俺は混乱していた。脳内では"レイプ願望"という、俺の人生の辞書には載っていなかった単語が点滅している。  だが、それと同時に、俯いて小さくなっている名前がどうしようもなく愛おしくて、庇護欲を掻き立てられて、心臓がきゅうっと締め付けられるのを感じていた。  どうする、俺。この空気をどうにかしないと。エースたるもの、この局面を打開できなくてどうする!  俺は必死に頭を働かせ、絡まりそうな舌で言葉を紡いだ。 「い、いや! その、なんて言うか……名前のそういう一面、初めて知ったから、ビックリしただけで……! 決して、嫌とか、そういうんじゃないんだ!」  我ながら、しどろもどろで情けない。だけど、必死さは伝わっただろうか。  俺は意を決して、彼女の華奢な肩にそっと手を置いた。 「俺、名前のこと、もっと知りたい。だから、教えてほしい。名前は、どんなのが好きなの?」  真剣に、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて訊く。  驚きで大きく見開かれた夜色の双眸が、ゆっくりと俺を映し出す。その奥に、安堵と期待のような光が灯ったのを、俺は見逃さなかった。
 工くんの、真っ直ぐな瞳。  そこに映るわたしの顔は、きっと情けない程に赤くなっていることだろう。  変なことを言ってしまった。ただの、本の中だけの絵空事。現実の彼にぶつけるなんて、どうかしていた。優しい彼を困らせて、嫌われてしまったかもしれない。  そう思うと、心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。  けれど。  彼は、わたしの突飛な妄想を、頭ごなしに否定しなかった。 「もっと知りたい」  そう言って、熱を帯びた手で、わたしの肩を包んでくれた。  ああ、この人は。  わたしがどんなに奇妙で、風変わりで、理解し難い人間でも、その核心に触れようとしてくれる。逃げずに向き合ってくれる。  その事実が、恥ずかしさよりもずっと大きな喜びとなって、胸いっぱいに広がっていく。冷え切っていた心に、温かい陽だまりが生まれたみたいだった。 「……本当は、嫌じゃないの」  俯けていた顔を、ゆっくりと上げる。工くんの真剣な眼差しから、もう逃げないと決めて。 「寧ろ……そういうシチュエーションに、少しだけ、憧れることがある」  ぽつり、ぽつりと秘密を打ち明ける。  それは幼い頃に病弱で、本と映画だけが友達だったわたしの、歪んだ知識の所為かもしれない。物語の中の抗い難い運命や、どうしようもない激情に、ずっと焦がれてきた。  穏やかで優しいだけの愛も素敵だけれど、相手の全てを自分のものにしたいという、剥き出しの独占欲。暴力的なまでに激しい愛情表現。そんなものに、心のどこかで惹かれてしまう自分が居る。 「でも、それはあくまで"ごっこ"として、だよ。本当に痛いのは嫌だし、怖いのも嫌。……工くんにだったら、されてみたいって、思うだけ」  言葉を続ける。これは、彼への最大の信頼の証なのだと伝えたくて。 「工くんは、優しいから。工くんの"無理矢理"は、きっと本当の暴力じゃない。わたしへの愛情が、少しだけ暴走してしまった結果だって、分かるから」  だから、怖くない。 「安心できるの。工くんが相手だから、わたしはそんな妄想ができるんだよ」  言い切った瞬間、自分の顔が燃えるように熱くなるのを感じた。なんてことを告げてしまったんだろう。それでも、後悔はなかった。  わたしの告白を聞いた工くんは、暫くの間、何も言わずにわたしを見つめていた。その凛々しい眉が寄せられ、何かを必死に考えているのが分かる。彼の焦げ茶の瞳が熱っぽく揺れている。  やがて、彼はごくり、と喉を鳴らした。  そして、決意を固めたような顔で、声を低めた。 「……分かった。名前が、俺だからそう思うって言うなら……俺も、応えたい」  その言葉に、心臓が大きく跳ねる。  工くんが、ゆっくりとソファから立ち上がった。高い位置から見下ろされると、いつもよりずっと大きく見える。バレーで鍛えられた身体の厚みや、少しだけ焼けた肌がやけに雄々しく感じられて、息を呑んだ。 「じゃあ……」  工くんが一歩、わたしに近づく。 「今から、やってみるか? その……"ごっこ"」  掠れた声で囁かれた提案に、わたしは声もなく、こくりと頷くことしかできなかった。  次の瞬間、彼の手が伸びてきて、わたしの手首を掴んだ。いつもの、わたしを労わるように触れる優しい手つきとは違う。少しだけ力が込められた、有無を言わさぬような感触に、背筋がぞくりと震える。 「嫌だって言っても、やめないからな」  低く、囁くような声。  普段の太陽みたいに明るくて、元気な彼とはまるで違う。知らない男の人の顔。獲物を前にした、肉食獣の瞳。  そのギャップに頭が痺れて、思考が蕩けていく。 「……うん」  辛うじて返事をすると、工くんは満足そうに目を細め、わたしの肩をぐい、と押した。抵抗する間もなく、ソファの座面に背が沈む。彼の大きな身体が、わたしの上に覆い被さった。  視界が、彼でいっぱいになる。 「名前……」  熱に潤んだ瞳が、わたしだけを捉えている。その瞳に映る独占欲に、恐怖よりも先に、どうしようもない程の悦びが込み上げてきた。 「好きだ」  その言葉が合図だった。  降ってきたのは、激しいけれど、どこまでも温かいキス。唇を食むような仕草も、舌を絡める角度も、全てが乱暴な振りをしているだけで、その根底にはわたしを気遣う優しさが在るのが伝わってくる。  手首を掴む彼の指は、決してわたしが痛がらない絶妙な力加減を保っている。 (これが、わたしの望んだもの)  抗う演技なんて、できそうになかった。  だって、こんなにも愛されていると、全身で感じてしまうから。  工くんの少し不器用な"無理矢理"は、わたしが今まで読んできたどんな恋愛小説よりも、ずっとずっと甘くて情熱的だった。  わたしはそっと目を閉じて、彼の愛情という名の嵐に、ただ身を委ねた。
「工ゥ!! 今のレシーブ、ぼーっとしてただろ! 何考えてんだ!!」  体育館に、鷲匠鍛治の鋭い声が響き渡る。 「す、すみませんッ!!」  慌てて声を張り上げる五色工だったが、その顔は茹でダコのように真っ赤に染まっていた。 (名前の妄想が、想像以上にハードだったなんて言えるか……!)  昨夜の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。ソファに押し倒した時の、名前の潤んだ瞳。か細い抵抗。甘い吐息。その全てが、五色の脳のキャパシティを完全にオーバーさせていた。エースになる為の集中力は、今や恋人への妄想に食い尽くされつつある。  一方、その頃。  教室の窓際の席で、苗字名前は頬杖を突きながら、隣の席で真面目にノートを取る恋人の横顔を思い返していた。  五色の、少しだけ焼けた首筋。時折動く喉仏。ボールを叩く、大きくて節くれ立った手。  その全てが昨夜の記憶と結び付いて、名前の白い頬をほんのりと薔薇色に染めていた。  お互いの知らなかった一面に触れ、二人の距離はまた一歩、深く、甘く縮まった。  そしてまた、二人きりになった夜。 「ねぇ、工くん」  名前が悪戯っぽく微笑み、五色の耳元で囁いた。 「また、あの"ごっこ"、してくれる?」 「~~~~ッッ!!!」  言葉にならない悲鳴を上げ、顔を真っ赤にして固まる未来のエース。  彼の受難と甘い試練は、まだ始まったばかりである。



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