「今日は、工くんが選んでくれた下着をつけているよ」
∟優雅なひとときの裏に潜む、意外な真実。
性的なニュアンスが含まれます。
窓から差し込む夕陽が、二人を柔らかく包み込んでいた。
部屋には静かなクラシック音楽が流れ、モーツァルトのピアノソナタが空間を芸術的に彩っている。アールグレイの香りが仄かに漂い、薫り高いベルガモットの風味がリラックスした雰囲気を作り出していた。
白鳥沢の寮ではなく、
名前が暮らすマンションのリビング。五色はソファに腰掛け、目の前のローテーブルに置かれたティーカップを眺めていた。抽出された琥珀色が、室内の暖かな光に溶け込んでいる。淡いレースのカーテン越しに見える夕暮れの町並みが、どこか絵画のようだった。
そんな彼の向かいに居る
名前は、白磁のカップを指先で包むように持ち、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。しなやかな手つきと涼やかな表情。その動作一つひとつが、五色の目には恐ろしく優雅に映った。薄く開いた唇が液体に触れる瞬間、五色はつい見惚れてしまう。
「今日はね――」
名前が不意にカップを置き、五色の双眸を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、いつもとは少し違う輝きがあった。心臓の鼓動が、僅かに速くなる。
「工くんが選んでくれた下着をつけているよ」
ティーカップを持ち上げようとしていた五色の手が、ぴたりと止まる。瞬間、時間が凍り付いたかのような静寂が訪れた。
「……は?」
「だから、今日は工くんが選んでくれた下着をつけているんだ」
言葉を噛み締めるように、もう一度。
その声はいつも通り澄んでいたけれど、その内容が、五色にとっては衝撃的過ぎた。視界がぼんやりと歪むような感覚。
――選んだ? 俺が? そんな、まさか……!
頭の中をフル回転させる。心当たりがない筈がない。記憶の糸を手繰り寄せ、必死に思い出そうとする。
数日前、
名前とショッピングモール『ルミナスタウン』へ出掛けた時のこと。普段は雑貨を物色するのを好む彼女が、珍しくランジェリーショップ『ドールセクレッツ』の前で足を止めた。ディスプレイに並ぶ色とりどりの下着が、蝶の標本のように五色の視界に飛び込む。
「工くんは、どんなのが好き?」
何気なく放たれたその問いに、五色は余りにも真面目に考え込んでしまった。一瞬、自分の顔が熱くなるのを感じながらも、どうにか冷静さを装おうとした。結局、どれがいいのか分からず、視線を泳がせながら「えっと、じゃあ……これとか……?」と適当に指差したのを憶えている。薄いブルーのレースが施された、上品でシンプルなデザインだった。
それが、今、
名前の身に着けられている――!?
その想像が脳裏に浮かんだ瞬間、五色の体温が一気に上昇した。喉が渇く。
「お、お前……そ、そんな、言うなよ……っ!」
同時に顔面が灼け付き、視線を彷徨わせる五色。耳まで赤くなっているのが、自分でも分かった。首筋から、汗が一筋伝う。
「ふふ、工くんは照れ屋だね」
名前はくすりと微笑み、何もなかったかのように紅茶を飲んでいる。その仕草が余りにも自然で、逆に不自然に思えた。
だが、五色にとっては大問題だった。心臓が今にも飛び出しそうな程、激しく鼓動している。
「なんで、そんなこと、俺に言うんだよ……!」
「工くんが選んでくれたんだから、教えた方がいいと思った」
「っ……!」
純粋な声音。まるで「今日の天気は晴れだよ」とでも言うかのように、ごく自然に伝えてくるのが、余計にタチが悪い。その正直さに、五色はますます混乱していく。
「……ど、どんなの着けてんだよ……」
尋ねた瞬間、後悔した。言葉が勝手に口を衝いて出てしまった。そんなことを訊いてどうする。想像してどうする。いや、するな! 頭の中で必死に自分に言い聞かせる。
「ん……言葉で説明するより、見せた方が早いかな?」
「はぁっ!? いやいやいやいや!!」
名前が立ち上がる仕草を見せた途端、五色は慌てて手を振った。飛び上がるように身を引いて、ソファの端まで移動する。
「お前、冗談でもそんなこと言うなよ!?」
「冗談じゃないよ?」
「――ッッ!!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
自分は今、尋常じゃない状況に居るのではないか。早鐘を打つ音が、耳の中で鳴り響く。
「……そんなに赤くなって、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃねぇよ!!!」
思春期特有の現象が、もう限界だった。五色は両膝を揃え、身を屈めるようにして、懸命に自分をコントロールしようとする。
「……工くん、熱があるんじゃない?」
心底、不思議そうに見つめる
名前。
その透き通るような双眸が余りに無邪気で、五色は真面に見ていられなかった。瞳の奥に隠された何かを、彼は感じ取れずにいた。
「お前なぁ……もうちょっと、自覚しろって……」
「……?」
「……いや、いい……」
何を言っても伝わらない気がして、五色は溜め息をついた。頭を抱えるように、手で顔を覆う。
だが、次の瞬間。
「……嬉しくない?」
名前がそっと、五色の隣に腰掛けた。ふんわりとした優しい香りが、僅かに鼻腔を擽る。
「……俺が、何を選んだか、ちゃんと憶えてるのか?」
「勿論」
「……似合ってる?」
どこか甘えるような声で問い掛ける五色。自分でも驚くような言葉が、口から零れ落ちる。
「工くんが選んだんだよ。似合っているに決まってる」
囁くような声音が耳を撫でる。
名前の吐息が頬に掛かり、五色は身震いした。理性が、もうギリギリだった。頭の中で警報が鳴り響く。
「――もう、帰る!!」
「え?」
「今日は、帰る!!」
勢いよく立ち上がる五色。そのまま玄関へ向かおうとするが、
名前が彼の腕をそっと掴んだ。指先の冷たさと柔らかさが、五色の皮膚に刻まれる。
「……冗談だったのに」
「は?」
「見せるつもりなんて、最初からなかったよ」
くすり、と微笑む
名前。その目には、小さな悪戯を成功させた子供のような満足感が宿っていた。
「……俺を揶揄うの、楽しいか?」
「うん、楽しい」
「……」
五色はぐっと奥歯を噛み締めた。息を深く吸い込み、吐き出す。胸の内で何かが熱く燃え上がる。
「……絶対、仕返ししてやるからな」
「……仕返し?」
名前の表情に、初めて戸惑いが浮かぶ。その反応に、五色の中で何かが甘く疼いた。
「覚えてろよ……!!」
そう言い残し、五色はドアを勢いよく開けた。
――ガチャン。
静まり返る部屋。
「……ふふ」
名前は、五色の消えた扉を見つめながら、小さく笑った。頬に、僅かな赤みが差す。
そして、窓の外。
月が淡く輝く夜空に、五色工の叫び声が響いた――。
「あ――っもう! なんなんだよ、あいつは――っ!!!」
五色の怒りのような、恥ずかしさのような、微かに混じった甘い期待のような感情が、夜風に溶けていった。
名前は立ち上がり、鏡の前に立つ。そっと服の襟元に手をやり、薄いブルーのレースが少しだけ覗くのを確認して、もう一度微笑んだ。
「次は、どんな顔をするだろう……」
名前の瞳に、月明かりが静かに映り込んでいた。